15

 扉は施錠されているらしく、押せども引けども動かなかった。格子に硝子が嵌め込まれているものの、濃く曇っていて向こう側は視認できない。声を張って幾度か呼びかけてもみたが、応答はまるでなかった。

「ねえ、これ鳴らしてみたら」扉に下がっていた輪を、小紅が示す。「誰か来るかも」

 ただの飾りかと思っていたが、どうやら叩き金らしい。古い西洋家屋ならばリングを咥えたライオンの形状をしているような、ドアをノックする装置である。

 何気なく手を伸べ、直後に悲鳴をあげた。「ひあ」

「なに? どうしたの?」

「ぬるぬるしてた」

「え?」

「だから、ぬるってしたの。嘘だと思ったら触ってみて」

 小紅は小首を傾げたが、けっきょく自ら輪に触れようとはしなかった。その代わり、私の手を掴んで引き寄せると、顔を近づけてまじまじと観察を始めた。意図がよく分からないので好きにさせていたが、やがて匂いを嗅ぎはじめる段になるとさすがに驚き、

「ちょっと、やだ」

 小紅は顔を上げた。眉のあいだに皺を寄せて、「なんか変な匂いがする」

「私? 嘘。気になる?」

「更紗の匂いじゃないよ。たぶんその輪っかの匂い。なんだかお酒みたいな――気のせいかな。いちおう拭いておいたほうがいいよ」

 ポケットからハンカチを出し、丁寧に手指を拭った。感触だけでなく匂いまで? ますます不気味である。

「どうなってるんだろ。巴さんって人は、いま留守なのかな」

 吐息交じりに洩らしたとき、からからと軽い音がした。小紅とほぼ同時に振り返ったが、誰が出てくるでもない。ただ固く施錠されていたはずの扉が開いて、内部の様子を隙間から覗かせているのみである。

 ふたりでそっと入り込んでみた。まず狭い沓脱があり、真正面に廊下があり、右手側に引き戸がある。一般的な古い民家といった風情だ。

 うっすらとした匂いがあるが、べつだん不快ではない。木造の建物にはありがちとでも言おうか、それこそ私の祖父母の家でも嗅いだような、どこか懐かしい匂いである。

「ようこそ」と頭上から男性の声が降ってきた。「待っていたよ」

 びくりと身を硬くした。私は怖々、

「あの――巴さんですか。〈蒐集家〉の紹介で来たんですが」

「もちろん知っている。彼女は私のよき友だ。しかし君たちを迎え入れたことと直接の関係はない。私は君に興味があるんだよ、人の子」

 廊下の天井が軋んだかと思うと、ざわざわとなにかを擦るような、鈍い音が響いた。ゆっくりと移動していると思しい。

〈兎面〉の聴力をもってしても、正確な位置の特定は難しかった。建物全体が狭いせいか、壁が多いせいか、とにかく音がやたらと反響と増幅を繰り返すのである。位相が定まり切らない、ひどく奇怪な聞こえ方をする。

「同じ声?」と囁き声で小紅。「会ったことがあるかもって言ったでしょ? 同じ相手?」

「分からない。前のときは〈兎面〉もしてなかったし」

 ははは、と低い笑い声が降ってきた。私たちの会話を聞いていたのかは判然としない。不思議なもので天井から、少し遅れて壁から、床から、とさまざまな方向から聞こえる。思わずあたりを見渡した。

「廊下の突き当りで右手に曲がると階段がある。そこを下りたまえ。いちおう警告しておくが、他の部屋はあまり覗かないでもらいたい。自ら招き入れた客とはいえ、あまりうろちょろされるのは快いものではないのでね」

 指示されたとおりに進むと、確かに狭い階段があった。小紅と逸れないよう、互いに目を離さないよう神経を研ぎ澄ませていると、またぞろ男の声で、

「私はザシキボッコのような真似はしない。ふたりとも丁重にもてなすつもりだよ。もし八重の小魚が一緒だったら、彼らにだけは遠慮願おうかとは思っていたがね。彼らがここに来れば、きっと子供たちがはしゃぎすぎてしまう」

「あなたの――お子さん?」

「まだ小さいのでね、恥ずかしいことだが分別を弁えていないんだ。しかし君たちだけが相手ならば、まあ大丈夫だろう。もてなしには一族が力を集結させる必要がある」

 回廊状の、妙に長い階段だった。無理やり距離を引き延ばしているかのように思えるそれをようやっと下りきると、鈍い光を放つ重たげな扉が現れた。これも施錠されているのか、手を触れて構わないのかと考え、いったん立ち止まった。

 かたり、と軽い音がした。扉がするすると横滑りするように動き、壁のなかへと消えた。奥の空間へと視線を転じる。これまでよりもずっと広い。

「どうぞ、怖がらずに入りたまえ。君たちを歓迎しよう」

 薄暗いが、かろうじて目が利く。縦長の空間だ。ぱっと見通したところ、畳敷きの座敷のようだが、それにしてもずいぶんと広大である。柔道部か剣道部の練習場になる程度はある。

 もっとも奥まったところに、じわりと気配を感じた。真っ黒い着物姿の男性が、胡坐をかいて座っているのだった。ずっとそこにいたのか、あるいは幽鬼のように立ち現れたのか――。

 細い顔は長髪に縁取られて隠れ、細部までは見て取れない。大きな双眸だけが爛々と薄闇に浮かんでいるようで、なんだか背筋が薄ら寒くなった。

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