12

 衝撃が大きかった。耳の奥がじんじんと疼くようだった。

 またしても「3F」に戻った私は、震えが収まってもなお、そこに籠城しつづけていた。それで絶対に安全だという証拠はどこにもなかったが、「3F」に留まっている限り鬼の存在を感じずに済むのは事実だった。私はすっかり怯えきり、ずいぶんと長いこと膝を抱えて座ったままでいた。

(どうしたの)

 気の抜けた私を鼓舞するように頬や肩を突きつづけていたクロが、不意に奇怪な行動に出た。ふわふわと離れていったかと思うと、壁に体当たりを始めたのだ。こつん、こつん、といった程度ではあるものの、衝突している以上は音が発生する。困惑した。

(やめて、クロ)

 クロはやめない。ますます勢いをつけて、壁へと一直線にぶつかっていく。打突音が次第に大きくなっていくように思われ、私は慌てた。

(どういうつもりなの? 言うこと聞いてよ)

 変わらず体当たりを繰り返すクロに業を煮やし、私は立ち上がってその尾を掴んだ。壁から引き離す。

(こら、やめてってば)

 一瞬の隙を付くように、クロはするりと私の手を逃れた。またしても体当たりを再開する。頭を抱えるほかなかった。

(今までずっといい子で、私の味方でいてくれたのに――)

 彼はくるりと振り返ったかと思うと、私の頬を鼻先で軽く突いてきた。彼なりの愛情表現であることは分かったので、怒るに怒れなくなってしまった。私は口調を和らげ、(信じてないわけじゃないよ。でも壁にぶつかるのはやめて)

 なぜ、とでも言うようにクロは頭部を左右に揺らした。私は吐息交じりに、

(なんでって、音を出したら、鬼に見つかっちゃうからに――)

 はっとした。本当にそうだろうか。

 壁に仕切られた空間なのだから、対象を直接視認することは基本的にできない。だから音で、というのはあくまで、人間が最初に思い付く理屈にすぎない。それ以外の生き物ならば、また別の手段を取るだろう。匂いを嗅ぐ。熱を感知する。音波を出して反響させる。

 そしていま、私が相手しているのは鬼なのだ。なにか超越的な力を持っていてもまったく不思議ではない。逆に言えば、音の情報はなんの影響も及ぼさないという可能性だって、否定できないではないか。

(そもそもここに来ちゃったのは、クロたちが知らせようとしてくれたのに、私が気付けなかったからだったね。ちゃんと言うことを聞くべきなのは、私のほうだね)

 クロは頭部を上下させた。それから「3E」へと繋がる襖に鼻先を押し当ててみせた。

(もう一回、進んでみろってことだね。分かった)

 勇気を奮い起こし、みたび「3E」へ足を踏み入れた。じりじりと待っていると――来た。

 またしても同じ場所で停止した。これで三回目。やはり偶然ではないのだ。

 クロが次なる襖へと体当たりを開始した。今度は咎めず、彼の刻むリズムに合わせて、私は声を張り上げた。

「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ」

 来ないという確信があった。居場所はとうに、いや最初から、鬼には筒抜けだったのだ。

 怯える必要などなかった。鬼は――私を追っているわけではないのだ。あるルールに従って、ただ動き回っているにすぎないのだ。

「3D」へと入った。案の定、耳が痺れるほどに気配は濃くなったが、私はもう気に留めなかった。ただ部屋を移動している限り、どれほど接近しようとも私が鬼と出くわすことはない。

 なぜなら――私と鬼が同時に同じ部屋に存在することは、ルール上ありえないからだ。

「鬼は私、私は鬼」鬼がいるであろう方向に視線を向け、発する。「鏡なんだね。私の鏡写しの位置に、あなたは移動する。ただそれだけのことだったんだ。三十六升の正方形の盤面なら、どの部屋に行ったってあなたとは出会わない。そしてそのままじゃ永遠に、ゲームは終わらない。帰りえぬ場所に帰ることが、あなたの――私たちのって言うべきかな――望みだから」

 ポケットからボールペンを抜き出した。ゆっくりと歩みを進めながら、

「私の位置に対応して動くあなたは、私次第で三十六部屋のどこへだって行くことができる。帰りえぬ場所なんかないように思える。でも一か所だけあるよね――普通に動いていたら絶対に行かない場所。出会わないはずの私たちが出会ってしまう場所。鏡像のあなたと実像の私が重なる場所。私たちの基準点。つまり正方形の中心」

 部屋の角へと至った。そう、この世界へと入り込むきっかけとなった鏡は、わざわざこの位置に置かれていたのだ。広い壁に吊るすのではなく。

「クロに感謝しなきゃ。こういう方法もありだって、教えてくれたんだもん。本当に脱出したかったら、もっと早く試してみるべきだった。壁って、物理的に壊してもいいんだ」

 ボールペンを壁紙に突き刺した。予期したような手応えはなく、拍子抜けするほどにあっさりと破れた。ぐりぐりと力を込めて亀裂を押し広げる。生じた隙間に手を突っ込み、左右に裂いた。

 向こう側の暗がりに、小さな私の影を見た。古びた手鏡が、そこには埋め込まれていた。

「見つけた」静かに、しかし確たる口調で、宣言する。「これでクリアだよね、ザシキボッコ」

 あはははは――という無邪気な少女の笑い声が、耳元で響いた。「ああ、楽しかった」

 途端、視界が真っ白な光で満たされた。鏡が発光している? 真夏の太陽を直視したかのような、凄まじい光量だった。とてもではないが目を開けていられなかった。

 笑い声が次第に遠ざかった。光と闇とが混然となり、瞼の裏側で渦巻く。全身の力が抜けていくのが分かった。

 柔らかな薄絹に包まれてでもいるようで、心地よかった。ふわりと体が浮かび、いずこかへ運ばれていくのを感じる。私もまた、帰りえぬ場所へと帰るのだ。

 さようなら、ザシキボッコ。少し――いやとても――怖かったけど、私も面白かったよ。

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