金魚辻迷宮

下村アンダーソン

1

 夏のある夜、ひとりでにやってくるのだと、電話の向こうで蓮花さんは言った。

 耳を澄ますと笛や太鼓の音が響いてきて、胸がそわつきだす。ベランダから覗き下ろせば、真下の通りには柔らかな灯りが等間隔にともって揺れている。人の波と喧騒。見知ったはずの一帯がまるきり変貌してしまうさまに、昨年は慄いたのだ、と。

「お祭りってさ、普通は出掛けていくものじゃない? でもこっちでは違うの。私の住んでるアパートの周りが会場になるのね。だから自然と巻き込まれるっていうか――平凡に暮らしてるだけなのに、自分を取り巻く世界のほうが変わっちゃったような気分になるの」

 受話器を耳に押し当てる手が少し震えた。話自体に驚いたのはもちろんだが、二年も前にこの街を離れた人が電話をくれることが嬉しくて、私はずいぶんと昂揚していた。

「公民館祭とは、やっぱり規模が違うよね? 私、他は知らないから」

「輪投げで腕時計を獲ったやつね。うん、ぜんぜん違う。駅前も、アーケード街も、私の通ってる大学のキャンパスも、みんな飾りつけされてね、凄く綺麗なの。県外からの観光客もたくさん来るんだよ」

 独り暮らしのアパート、アーケード、大学のキャンパス――十一歳だった私には、いずれも遠い世界の事物のようにしか思われず、具体的なイメージを抱くのは難しかった。八つも年上なのだから当たり前だが、蓮花さんは私よりずっと豊かな見識の持ち主、つまりは大人なのだなあと、漠然と感じたのみだった。

 だから次なる彼女の言葉は、私を大いに困惑させた。「そうだ、更紗もおいでよ。うちに泊めてあげるから」

 え、とだけ発して身を固くした。心惹かれる提案には違いない。しかしどうやって訪ねていったものか。家族の誰かに頼んで車で送ってもらう? どれほど時間がかかるのだろう。想像もつかない。

「簡単だよ」と事もなげに蓮花さんは笑った。「新幹線ならすぐ」

「えっと――私、新幹線なんて乗ったことないけど」

「乗れるよ。乗り換えもないから、本当にただ座ってればいいだけ。駅に迎えに行ってあげるよ。小学校、もうすぐ夏休みでしょう?」

 お母さんに訊いてみる、とだけ告げて保留の釦を押した。台所で洗い物をしていた母の背中に向け、私は緊張気味に、

「休み中、蓮花さんのところに遊びに行ってもいいかなあ」

「いいじゃない」と母は肩越しに振り返って応じた。「蓮花ちゃんはいいって言ってるの? だったら電車賃は出してあげるから、行ってきなさい」

「ほんと?」

「蓮花ちゃんに任せるなら安心だしね。更紗もたまには、ちょっと冒険してみなさい。お父さんも反対しないから」

 あっという間に決まってしまった。私はふわふわとした足取りで居間へと戻り、受話器を掴み上げて事の次第を伝えた。

「いいじゃない」と蓮花さんは母とまったく同じことを言った。「じゃあ、日取りを決めようか。今年の夏祭はね――」


 ***


 約束を取り付けたときは遥か未来だと感じたのに、実際に訪れてしまえば「当日」はすぐだった。体が徐々に夏休みに馴染みはじめた、八月の頭のことだった。

 これまでまるで縁のなかった新幹線用の改札の入口まで、母は付き添ってくれた。二枚に重ねた切符が装置に吸い込まれた瞬間、私の胸は小さく、しかし確かに高鳴った――。

 新幹線の座席は程よい塩梅に硬く、映画館の椅子にも少し似ていた。着替えや日用品、蓮花さんへのお土産である〈薄林檎チップス〉などを詰め込んだ鞄を足許に仕舞う。

 窓の外を飛び去っていく田畑や家々、山の稜線を眺めながら、私は自分が世界一勇敢な存在になったように思った。手首を返し、腕時計を確かめる。三時間ののちには、蓮花さんと合流しているはずだった。

 時計の文字盤には、〈梨の天使らふらん〉のイラストがあしらわれている。幼い頃の私は洋梨をモチーフにしたこのキャラクターが好きでたまらず、グッズ集めに熱中していた。なかでもこれは私が六歳のときの公民館祭で手に入れたもので、思い入れがひときわ深い。

 腕時計は、輪投げの景品として並んでいた。駄菓子や玩具ではなく腕時計というのが大人びて格好よく思えたし、なにより〈らふらん〉であったから、どうしても入手せずにはいられなかった。

 ところがお小遣いのすべてをつぎ込んでも、私には〈らふらん〉が獲れなかった。屋台の店主が非売品で余所にはないと言うので、その場を離れるに離れられず、ただ泣きべそをかきながら立ち尽くしていた。

 どうしたの、と声をかけてきた年上の少女のことを、当時の私はよく知らなかった。顔は何度も見掛けていたし、近所のお姉さんだという認識はあったが、それだけのことだった。小学校に上がりたての六歳と十四歳の中学生とのあいだには、劇的な隔たりがあるのだ。

 らふらん、らふらん、と連呼しながら泣きじゃくる私を、彼女は気の毒がってくれた。じゃあ私がやってみるね、と言い、自ら代金を払って輪投げに挑んだのである。

 固唾を飲んで見守っていると、最後の一投が見事、もっとも遠い的棒に引っ掛かった。名前さえ知らなかった彼女に私は飛びつき、首筋にぶら下がりながらはしゃいだ。彼女も私を抱き締めかえし、一緒になって喜んでくれた。

 獲得した腕時計を、蓮花さんは迷いなく私にくれた。感謝の言葉を繰り返す私に柔らかく笑いかけて、

「私にはなにも返さなくていいよ。でもいつか、別の誰かになにかをあげられる人になって。そうなってくれたら、今日のことが報われたと思うから。自分のことも、あなたのことも、きっと誇らしく思えるから」

 列車特有の少しくぐもったアナウンスが、私をはたと現実へ引き戻した。もう目的の駅へ到着するようだ。私は慌てて鞄を引っ張り出し、席を立った。車両が徐々に減速を始める。煙が噴き出すような音とともに、扉が開いた。

 他の客の流れに乗じ、ひとまずプラットフォームからエスカレーターで下った。中央口の〈翼ある乙女の像〉の前にいるよう、蓮花さんに言われていた。

 案内板を参考に、きょろきょろしながら歩みを進める。程なくして、それらしい像を発見できた。胸を撫で下ろして近づいた。

 私と同じく待ち合わせなのだろう、ひょろりと背の高い浴衣姿の男性が、奥の壁に向かうようにして立っていた。私はさして気に留めず、像の真下に備え付けられたベンチに腰掛け、蓮花さんを待った。

「人の子は今日、待ち人と出会えんかもしれんなあ」という言葉が自分に向けられたものだと、私は最初、まるで気が付かなかった。奇妙な独り言をいう人がいるものだと思ったのみだった。

「人の子は今日、待ち人と出会えんかもしれん」と男性は繰り返した。相変わらず壁を睨んだままで、こちらには視線を寄越しさえしない。しかし今度は明確に、彼の意識が私に向けられているのだと分かった。

「人の子って――私ですか?」

「他に誰がいる」

「待ち人と会えないって、どういうことですか? なにか事情を知ってるんですか?」

「今日から〈金魚辻の市〉だからなあ。人は迷う。人の子の待ち人も、迷ってしまうかしれん。でなければ人の子のほうが迷うかだ」

 男性の真意はまるで掴めなかったが、そう語られるうちに不安を覚えはじめた。じじつ約束の時間はとうに過ぎていたのに、蓮花さんは姿を見せていなかったのである。

「金魚――なんですか? どういう意味? 蓮花さんのこと、なにか知ってるんですか?」

「人の子の待ち人のことは知らぬ。ひとつ言えるのは、探し物には、ただ待つだけでは出会えないということだ」

 よい夜を、と不思議な挨拶を残して、男性はふわふわとどこかへ去っていった。追い縋って問い質すべきだと思ったときには手遅れで、彼の後ろ姿はすでに、掻き消えるように失せてしまっていた。

 独りきりになると不安はますます募った。胸苦しささえ生じた。このままでは永劫、蓮花さんと合流できないような気がしはじめた。

 集合場所も時刻も間違ってはいない。なにかあったのだろうか? 私はいてもたってもいられなくなり、とうとう〈翼ある乙女の像〉の前を離れた。もっとも近い出口から外へ出た。

 息を詰めた。郷里ではまるで見たことのない規模のビル群。無数のバスやタクシーの乗り場。あちこちに並ぶ看板。建物と建物の隙間にかかったアーチ状の屋根。

 初めて訪れた都市の光景に気圧されたが、引き返そうとは思わなかった。私は手帳を取り出して、蓮花さんに聞いたアパートの名前を確かめた。中央口を出たら、いちばん大きな通りをただまっすぐ歩けば着くの、という彼女の声を耳朶に甦らせる。

 いちおう申し添えておくけれど、この当時携帯電話はそれほど普及しておらず、十一歳の私は当然のこと所有していなかった。今にして思えば、公衆電話を探すなりして連絡を取るべきだったのだろうが――このとき頭にあったのは、あの不思議な男性の不思議な言葉だけだった。

 探し物には、ただ待つだけでは出会えない。すなわち私は、独りで蓮花さんの部屋を訪ねていく気でいたのである。

 いちばん大きな通り、と言われれば明確にそうと断定できるものが、一直線に伸びていた。これを辿っていけばいい。身勝手な行動は慎むべきだとか、行き違いになって迷惑をかけるだとかいった常識的な思考は、なぜか消し飛んでいた。行けばきっと会える、という根拠のない期待ばかりが、胸を満たしていた。

 リュックサックを背負いなおすと、私は果敢に未知なる都市へと歩み出した。

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