頼れる後輩

 七瀬さんは、あれから日を少し空けて、延命治療のために都内の病院に入院した。

 俺は抜け殻になったように、数日間ただ仕事に没頭した。手を休めている時間や寝る時間があると、すぐに七瀬さんのことで後悔や悲しみが押し寄せて、その波に抗う術もなく押し流されてしまいそうだった。


 だから、ひたすらに頭と手を動かし続けた。


 でも、どうしても夜はやってきて、疲れが限界に達したその日、俺はこれから待ち受ける七瀬さんとの別れを理解して、一人自室で涙を流し続けた。


 その翌日、憔悴しきった顔で通勤すると、最近の俺の異常さを上司に指摘されて、早退を命じられた。俺は拒否反応を示したものの、最終的には断りきれず、仕方なく一人家に帰った。




 家は、静かだった。



 

 この前まで喧しいほどうるさかったスマホも。

 テレビの雑音も。

 もう何も、聞きたくなかった。

 


 煌びやかに見えた世界は。セピア色だった思い出は、無色となり煙のように俺の脳からこぼれ落ちていっているような気がした。




 チャイムが鳴った。


 居留守を使おうと思ったが、二度三度となるチャイムが煩わしくなって、俺は応対するために立ち上がった。

 どうせ何かの宗教の勧誘だろうと思っていた。追い返せば済むだろうと思っていた。


 扉を開けた先にいたのは、


「ご無沙汰してます。先輩」


 倉橋さんだった。


「どうして?」


「どうしてって、先輩が七瀬先輩と同棲した折に、傍に住んでいるよって、挨拶しに来たじゃないですか。というか、それからも何度か遊びに来てますよね」


 思い出したくもない記憶を、倉橋さんは思い出させてくれた。


「たまたま今日非番で散歩してたら、先輩が帰ってくるのが見えたから、少しお邪魔しようかなと思って」


「そう」


「はい。七瀬先輩は?」


「……別れたよ」


「え」


 倉橋さんは一瞬驚いたが、すぐに嘘だと思ったのか苦笑した。


「とりあえず、家に上げさせてもらってもいいですか? 先輩としても、恋人以外の人と玄関先で会ってたとか変に噂されたりしたら嫌でしょう?」


 その言動から、やはり彼女は俺の言葉を信じていないんだなと言うことを悟った。


「いいよ。入ってくれ」


 俺は倉橋さんを招き入れた。

 一人だとどこまでも落ち込んで荒みそうだから、それならまだ誰かいてくれた方が良いと思った。


「ありがとうございます。今日七瀬先輩は?」


「だから、別れたよ」


 思い出したくもないのに、倉橋さんは無遠慮に俺の心を抉った。


「もう。先輩、その冗談はあまり面白くないですよ。あとで七瀬先輩に言いつけてやるから」


「……いいよ。是非そうしてくれ」


 自嘲気味に、俺は笑った。


「……先輩、酷い男になりましたね」


「そうかな」


「えぇ……今思うと、昔からサラリーマンみたいなことをよく言っていましたが、今は少し落ちぶれて、悪徳商売を勧誘するセールスマンみたい」


「なんだよ、それ」


 倉橋さんはしょっちゅう来ている部屋だからか、机の前にすぐに腰を下ろした。


「酷い男って意味ですよ。七瀬先輩に愛想つかされちゃいますよ?」


「だから……」


 これ以上は傷心の心が痛み、俺は言葉を発することが出来なかった。


「先輩、さすがにそれは無理ですよ」


 倉橋さんの声は、呆れていた。


「先輩達、ずっと妬けるくらいに仲が良かったですもの」


 彼女の声を聞いていると、昔が思い出せた。


「文芸部の時、正直先輩達のせいで、あたし少し居た堪れなかったんですよ」


 高校時代、文芸部として三人で仲良く楽しんでいた時の記憶。


「でも、そんな先輩達が少し羨ましくもありました」


 七瀬さんと育んできた記憶。


「だから、そんなジョークつまらなさすぎます。もう少し現実味のあるはな……しを」


 倉橋さんが言葉を止めた。


 彼女のせいで、俺は自分の気持ちがまるで制御出来なくなっていた。彼女が俺の忘れようと思った、塞ごうと思った記憶を無遠慮に踏み越えてくるから、俺は悲しみの波を留めることが出来なくなっていた。


「まさか、本当に……?」


 ようやく信じてくれた倉橋さんに、俺は大粒の涙を見せながら、その場に崩れた。


   *   *   *


 倉橋さんに慰められながら、気付けば俺は彼女に七瀬さんとの別れ話を全て伝えていた。


 七瀬さんが余命宣告されたこと。

 それを理由に別れを切り出されたこと。


 全て包み隠さず、俺は倉橋さんに教えていた。


「そんな」


 倉橋さんは、七瀬さんの病気のことで酷く取り乱した。嗚咽を漏らしながら涙を流して、高校時代からの先輩の病に憤り、涙を流していた。


 倉橋さんの涙を見ていたら、俺は少しだけ正気を取り戻していた。


 多分、女性を泣かしておいて自分もメソメソしているわけにはいかないと、心の奥底に沈んでいた自尊心が働いたのだと思った。


 彼女が泣き止むまでに、数時間の時間が経過していた。


 それでもそれだけの時間を要したおかげか、倉橋さんは今日会った時よりは物静かだけど、生気がこもった瞳をしていた。


 多分もう、俺よりも立ち直っているだろうと思った。


「これから先輩も、大変ですね」


 倉橋さんは、俯きながら呟いた。今度は俺の心配をしてくれる気らしい。


「……そうかな」


 俺は、自嘲気味に笑った。


「だって俺、七瀬さんに別れ話を切り出されたわけだからね」


「えっ」


 倉橋さんは驚いたように目を丸めていた。


「先輩、七瀬先輩と本当に別れるつもりですか?」


「……だって結局、時間が経てばそうなるだろう」


 もうまもなく、七瀬さんは死んでしまう。結局、遅いか早いかの問題だ。


「先輩は、それでいいんですか?」


 倉橋さんは依然驚きながら、率直な感想を俺にぶつけているように見えた。


「いいわけないじゃないか」


「……どうして?」


「どうしてって」


 何故、そんなことを聞くんだ。

 そんなのわかりきっている。


 ……やり直したこのタイムスリップした世界で、この九年間、俺はほぼずっと七瀬さんと一緒にいた。


 町おこしの件に始まり、倉橋さんを甘えさせる件。一緒に軽井沢も行った。一緒に学園祭を総合優勝へと導いた。


 これまでたくさん、七瀬さんと思い出を築いてきた。


 これからだって、ずっとずっとそうしていくつもりだった。


 大切な彼女と一緒に、生涯を終えるつもりだったんだ。




 ……俺は、再び涙を流した。




「先輩、一つ独白しますね」


 倉橋さんの声は、随分と優しかった。多分、俺を慰めるためなのだろう。




「あたし、先輩のことが好きでした。ううん。今も好き」




 俺は、何も言えなかった。ただ驚いて、涙を流しながら目を丸めていた。




「高校の時、先輩と出会って……初めてだったんですよ。甘えを許してくれる人に会うの。

 両親が仕事詰めで、弟もいたし、大体自分でなんでも出来たから、あたしいつでも一人でなんとかしなくちゃって思っていました。


 だけど、そんなことを思っていたあたしに、先輩は押しつけがましく甘えろ甘えろと過保護に迫って。たくさん甘えさせてもらってきた。

 だから、先輩のことが好きになったんです」


 倉橋さんは、照れくさそうに微笑んだ。


「そんな先輩の教えてくれた言葉だから、あたし今でもこの言葉だけは忘れたことがありません」


 そして、倉橋さんは続けた。






「時間は有限なんですよ、先輩」






 倉橋さんは、慰めるように涙を流す俺の体を抱き寄せた。


「今こうやって先輩が不貞腐れる内に、先輩と七瀬先輩の残りの時間、どんどん減っていきますよ。


 だって、時間は有限だから。時間は巻き戻ったりはしないから。


 先輩。先輩は本当に、今のままでいいんですか?


 今のまま、七瀬先輩と別れて、本当に不満も……後悔もないんですか?」




 人生に不満はないが、後悔はある。


 タイムスリップする前の世界で、俺が抱いていた人生に対する総評だった。

 あれから十年のタイムスリップを果たし、俺の人生はかつてよりも豊かになり、そして忘れられない時間を過ごせた。




「多分、先輩は今のままだと、後悔をしますよ」


 そうだ。

 このタイムスリップを果たす前、俺は思った。




 後悔があるのは、自分の過去の行いを悔やんだからだって。


 ……俺は、気付いていたじゃないか。




「いつまでもそうして悩んでウジウジしていても、先には進めませんよ。もっと建設的なこと、考えましょう?


 先輩は、どうしたいんですか?」




 ……俺は、どうしたい?

 七瀬さんとの別れが迫っているこの状況で。

 好いた、愛していた彼女との永遠の別れが迫っていて、俺は一体、どうしたいんだ。


 そんなの、決まっている。決まりきっている。




「別れたくない」




 別れたくない。

 離れ離れになりたくない。




「いつまでも一緒にいたい……」




 いつまでも。

 互いの命が尽きるまで、笑い合って死にあいたい。

 大切な何かを残したい。




「もっともっと……一緒に。一緒にいたいんだっ!」



 彼女と一緒にいる時間は、とても楽しかった。

 彼女のおかげで色んなことを学べた。

 彼女のおかげで色んな成果を出せた。


 彼女のおかげで、彼女を好いた自分を、そんな彼女を好けた自分の人生を……初めて俺は、満たされたと思ったんだ。




 ……ああ、そうか。




 このタイムスリップは、人生を満たすために成されたんだ。




 不満はないが後悔はあった俺の人生が、七瀬さんのおかげでまるで虹色に、煌びやかに輝いているように見えたんだ。




 彼女のおかげで俺の人生は、満たされて、彩られて、豊かになった。


 彼女がいなければ、俺の人生は満たされなかった。

 いくら不満も後悔もなくても違和感は拭えなかったように、俺の人生は七瀬さんがいたことで、初めて満たされたんだ。




 ……心のどこかではわかっていた。




 人は、死ぬってことを。


 亡くして初めて気付く、大切なことがあるんだろうってことを。


 直面して涙して、これから待ち受ける真実から目を背けたくて。

 だけどその時が必ずいつか訪れるってことを、俺はわかっていたはずなんだ。






 俺の人生を豊かにしてくれた七瀬さんは、もうまもなく死ぬんだ。






 あの笑顔も。泣き顔も。怒り顔も。寂しい時に、口に出さずとも甘えたがる時のなんともいえない顔も。




 もうまもなく、見れなくなるんだ。




 俺は涙を拭って、立ち上がった。


「七瀬さんに、会ってくる」


 俺の人生を豊かにしてくれた……満たしてくれた彼女に、俺はまだ会いたかった。




 彼女が逝くその時まで、俺は彼女の傍にいたかった。




「わかりました。留守番はしています」


「頼む」


 倉橋さんを残して、俺は部屋から飛び出した。

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