忘れていくこと

 実家の俺の自室は二階の角部屋だった。ベットから起き上がり一階に降りて、階段の目の前にあるお勝手の扉を開けた。


「あれ、おはよう。今日は早いじゃない」


 コンロ辺りで魔法瓶にやかんのお湯を注ぐ人を見て、俺は目を丸めていた。


「わ、若い!」


 その人は、今よりも随分と白髪と皺の少ない母だった。


「おばさんをからかわないで。朝ご飯、どうするの」


「何でもいい」


「あんた、そう言ってこの前、用意したおにぎり食べずに学校行ったじゃない」


「俺、そんな失礼なことしてたのか」


「そうよ。まあ思春期だからしょうがないけどね。はい、これでも食べなさいな」


「うい、ありがとうございます」


 母の用意したパンとソーセージを食べながら、俺は周囲を見回した。


「お父さんは? もう起きてるの。静かだけど」


「当たり前じゃない。もう仕事行ってるから」


 俺の両親は、結構高齢で俺を生んだ。故に、二十六の時には父は会社を辞めて年金生活を始めていた。


 が、そうか。

 十年前はまだ仕事してくれていたのか。すっかり忘れていた。


 大卒で会社に入社してから四年仕事を頑張ってきたが、この辛みを四十年近くも行うことは、途方もない辛さだと、今の俺は理解していた。だから、感謝の気持ちが胸に溢れていた。


 まあ、たまに帰省すると喧しいと思うのだがな。


 一人暮らしに慣れすぎて、他人のいる時間が時々嫌になってしまった俺だった。


「姉ちゃんは」


「寝てる。そろそろ短大行く時間だけどね。大丈夫かしら」


 あの女は、どうやらぐうたらしているらしい。

 なんだ、今の仕事休みの日と変わらんな。ガハハハハッ!


「あんた、今日は機嫌良いみたいだね」


 しばらくして、母は言った。


「機嫌悪くなるほど、俺の人生は失敗続きじゃないからな。恵まれてるよ、俺」


 そう言うと、母は目を丸めた。


「あんたがそんなこと言い出すなんて!」


「それはさすがに失礼では」


 文句もそこそこに、制服に着替えるために俺は自室に戻った。


 着替え終わると、鞄を持って、家を飛び出した。制服を着た時、少しだけコスプレでもしているような気持ちに駆られたりした。


 駅までの道中、ポケットに忍ばせた、かつて愛用していたガラケーを取り出した。


 今更ながら、今日の日付は四月六日。火曜日だし、入学式の翌日とかだろうか。年号を見る限り、高校二年になった年だろう。なんだか、少しだけワクワクしてきていた。


 電車に揺られて、懐かしの通学路を歩いて、久々に見た学び舎は、何故だか俺の目頭を熱くした。


 うろ覚えで下駄箱に向かい、なんとか自分の下駄箱を見つけて靴を履き替えて、俺は校舎を徘徊した。


 そして、ようやく自分の教室を見つけると、俺は教室の扉を開けた。


「あれ」


 相当速い時間に出た来たのに、教室には一人の先客がいた。その人は、人嫌いの俺を持ってしても覚えていた。


 黒色の長髪に二重の大きな目。美人と形容されるであろう少女だった。


「おはよう、七瀬さん」


 七瀬さんは、返事はせず顔だけ俺の方へ向けてきた。その顔は、少し驚いているように見えた。


「おはよう。何か用?」


 七瀬さんは、冷たい声で俺に言ってきた。


「いや、挨拶したんだよ、挨拶」


「そう。なんだか珍しいわね」


「何が」


「あなた、いつも来る時間もっと遅いじゃない。挨拶だって、仲の良い友達くらいにしかしないし。気付いたらいつもいつの間にか教室にいたような人だったから」


「なるほど。俺、端からそんな風に見られてたのか」


 俺は、当時の俺がどう見られてたのかを知って笑った。 


「俺、変わったんだよ」


「昨日は去年通りだったけど?」


 よく見てらっしゃる。


「今日から変わったんだよ」


「そんないきなり、簡単に変われる人間性なのね」


「もしかして、馬鹿にしてる?」


 七瀬さんは黙って頷いた。

 

 もし、昔の俺だったなら、こんな対応をする七瀬さんにどんな気持ちを抱いただろうか。


 多分、二度と友好的に話しかけることはなかっただろうなあ。だって、これまで全然喋ったことないのに、ここまで自己をはっきり出す人って怖いじゃないか。


 でも、今の俺は違う。

 今の俺は、あの時に比べて大人になったのだ。


 社会人になり、これよりも辛い文句だったり、吊し上げだったりを散々浴びた。


 だから、こんな文句、最早文句にあらず。


 とりあえず。


「まあ、それは否定出来ないな」


「出来ないのね」


「うん。まあいいじゃないか。とりあえず君には、そんな変わった俺の姿を、今後その目に焼き付けさせてあげるよ」


 俺は得意げにそう宣言した。

 そして、


「だから、とりあえずさ」


 俺は宣言通りの姿を彼女に見せつけてやるために、続けた。





「俺の席、どこか教えてくれない?」




 その時の七瀬さんの顔は、非常に傑作だった。

 あれだけ自信満々に息巻いた男が、昨日決めた席をもう忘れたの、とでも言いたげな、呆れた、社会的弱者を見るような哀れみの目を俺に向けていた。


 でも。だって、仕方ないではないか。


 十年も前の座席なんて、覚えているはず、ないじゃないか……!

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