盂蘭盆会につき

ギヨラリョーコ

第1話

 テキストチャットアプリを閉じ、スマホをベッドの上に放り投げると、デスクの前の椅子に当然と言わんばかりの表情で陣取って麦茶をすすっている甥っ子に改めて声をかける。


「彰人お前、帰れよ」

「帰ってきたじゃん、ここに」


 とんちのつもりか。何ヘラヘラしてんだよ。何が悲しくて短い盆休みにお前の相手しなきゃなんねえの。

 俺の1K賃貸の城は御年はたちになる甥っ子に占拠されている。俺はこいつに合鍵を渡した覚えは無いのだが、何で買い物行った隙に侵入されてるのか。


「なんで俺んちなんだよ。実家帰れや」

「どうせ帰っても忙しいだろうし……ほら、祖母ちゃん、盆とか正月とか雛祭りとか、がっちりやりたがるタイプだし」

「だからだよ、帰って手伝え暇な大学生」

「暇じゃないんだけど」


 俺が大学生の時の夏休みはバイトして遊んでもまだ暇だったが。いずれにせよ、彰人はここでぐでぐでとしている場合でもないし、俺もこいつの顔を眺めて盆休みを過ごしたくない。


「こんなとこいたってつまんねえだろ」

「全然。俺、コウさんの顔見てるだけでわりと楽しいし」


 コウさんも楽しいっしょ? と首を傾げてくるこいつが嫌いだ。厚かましいし、それに。


「お前、自分で思ってるほど晴樹に似てねえから」

「まじで?」


 だからヘラヘラすんなっつってんだよ。何で全然堪えてないんだよ。無敵か。

 若くて、無敵で、謎に自信があって、そういうところが滅茶苦茶に嫌いだ。

 

 本当は顔だけは結構似てる。目と眉の距離感なんかが特に。ちょっと固そうな髪の感じも。背格好も少し近くなった。こいつどこまで背が伸びるんだろう。晴樹に追いついて、もしかしたら追い抜くかもしれない。

 性格は全然似てない。長男と次男の差かもしれないが、末っ子は甘ったれで要領がよくて愛され慣れているなんていうテンプレ診断を差っ引いても、彰人ははっきり言って性格が悪い。晴樹は優しくて、遠慮がちで、はたから見ててもっと厚かましくなっても罰は当たらんだろうと思うようなタイプだった。悪く言えば草食系。

 もうちょっと押しが強ければ女の子にもてただろうが、今更何を言っても無駄だ。


「……そうめん食うか」

「食う食う」


 何もかもが面倒になり、せめて余り物の処分ぐらいはさせようと提案すると秒速で食いつかれた。晴樹だったら一回遠慮の言葉が入った。本当に似てない。全然似てない。兄弟なのにな。


「食ったら帰れ」

「なんでさ」

「何でって、兄貴の新盆だろ」


 ニイボン?と言って大げさに目を開いてみせる仕草は確実に意味が解った上でやっているやつだ。性格が悪すぎる。





 駅のホームでサラリーマンに突っかかって喧嘩になった酔っぱらいを止めようとしてもみ合ってホームに落ちてそのまま。そんなの見ないふりしてよかったんだ。もっとずるくてよかったんだ。自分のことだけ考えてりゃよかったんだ。でも晴樹はそうできなかった。そういうところも好きだった。だから何も言えなかったし、今更言ったとしたって無駄だ。相手はもう死んでる。


 向こうがガキの頃は普通にただ甥っ子だと思ってた。12コも歳離れてるし。映画の趣味がちょっと近かったから、それこそ盆に実家に帰ったら映画に連れていってやったりして。こっちを見上げてありがとうって笑う顔がかわいくて、素直ないい子だからなんて可愛がって。


 事情が変わったのはあいつが高校三年生になった年だった。「受験生だし、家にいると集中できなくて」と言いながら晴樹がうちを訪ねるようになった。お前なら別に騒いだり汚したりエロ本探したりしないからいいよ、と言って合鍵を渡し、俺のあまり広くない部屋は半分勉強部屋になった。

 俺はテレビを見るために少し長めのイヤホンを買った。背中合わせに別のことをしているのが妙に心地よく、俺は一人暮らしが寂しかったんじゃなかろうかと思った。

 たまにコーヒーを入れてやったりすると、椅子に座った姿勢からちょっと首をひねるように見上げて、「ありがとう」とほほ笑んだ。その顔が好きだった。身内に対する情と、明らかに違う感触で、見るたびに胸の奥が熱くなるような、そんな「好き」だった。心底嫌な気づきだった。9月の夜のことだった。


 いい歳こいた男が、姉貴の息子に恋したわけだ。笑える。嘘だよ全然笑えねえ。気づいた瞬間はシンプルにショックで、長く猛烈な自己嫌悪がその後に横たわっていた。今更合鍵を取り上げるのもおかしいだろ、と理屈をこねながら晴樹の訪れを許し続けていたのなんてもう最悪だった。

 高校三年生の2学期は模試や何かに追われていたらしく、一喜一憂するのをファミレスに連れ出してご機嫌取りしてやりながら、晴樹は俺が晴樹のことを恋愛対象として好きで、抱きしめたいと思ったり、ちょっと口に出すのは憚られるようなことを想像してその想像という行為自体にどっぷり落ち込んでいるということなんて知らないんだと考えたりもした。

 その間俺の口は足りなきゃデザートもつけるか、と言い、晴樹にメニューを差し出していた。いいよいいよと固辞されてしまうのは織り込み済みだったし、実際晴樹は断った。遠慮がちなやつだった。そういうところも含めて好きだったし、甘やかしたいとも思っていた。少しでも出来ていただろうか。


 俺がめちゃくちゃな自己嫌悪を感じながらも、演技力と忍耐力だけは誇っていいのではと一周回った謎の自信を身に着けていた頃、ようやく春が訪れ、晴樹は志望の大学に見事合格した。

 合格祝いは実家の方でもされたそうだが、それはそれと言いながら食べ放題に連れていき、帰りには久しぶりに映画を見に行った。ハリウッド産のみんなが楽しめるアクションものだ。アクションシーンの合間に、ふと隣に座る晴樹の顔を盗み見た。俺の下心とかそんなものにはまるで気づかないでじっとスクリーンに見入っていた。

 ふと、「これだけでいいじゃないか」と思った。こうやって、何の理屈も無くただ叔父と甥っ子ってだけの理由で一緒にいて、隣で晴樹が楽しそうにしてくれて、たまに「ありがとう」と言ってもらえたら、それで十分すぎるほど十分じゃないか。

 それ以上欲をかいて、何もかもぶち壊しにするのはあまりにも惜しく、恐ろしかった。


 だからこれでいい。


 続く2年間、俺は結構いい叔父さんだったと思う。晴樹が大学に近いところで一人暮らしを始めて、盆暮れ正月ぐらいにしか会わなくなったのも効いた。たまに会って、映画に連れていって、酒が呑める歳になったら居酒屋に連れ出して。

 一度冗談めかして「彼女とかいねえの」と訊いてみた。笑ってごまかされた。いないって言うの恥ずかしいのか、それともいるって言って詮索されるのが嫌なのか。どっちでも良かった。俺はもうそこから降りたから。

 彰人が「俺も連れてけって」と言ったことがあった。俺が何か言う前に晴樹が「酒飲むからお前はダメ」と笑った。俺としては別に横でジュース飲んで飯食ってりゃいいじゃんと思ったのだが、彰人が引き下がってしまったので誘いなおすタイミングを失った。

 去年の暮れの話だ。晴樹とふたりで話した最後の夜だった。

 「彰人と喧嘩したのか?」と訊くと、「あいつ末っ子の甘ったれだから、自分が置いてかれるの気に入らないんだよ」と苦笑した顔が大人っぽくて、晴樹ももうガキじゃないんだと思ったものだ。なんだかんだ彰人も兄貴に懐いてんだな、取り上げるみたいで悪いな、とも。


 もっとマシなことを話せばよかった。その一月後、晴樹は電車に轢かれて死んだ。ホームから線路に落ちた時点で打ちどころが悪く意識を失っていたらしい。葬式には手伝いに行った。姉貴が泣いて泣いて使い物にならなかったからだ。当然だ。俺も泣きたかったが、酷く悲しんでいる人を見てしまうと、頭が醒めてしまうのだ。

 弔問客を見送っていると、すすすと彰人が横に寄ってきた。喪服のスーツの丈が微妙にあっておらず窮屈そうに見えた。



 彰人は俺の顔をまじまじと見、それから「俺、コウさんのこと好きだよ」と言った。



 

「俺まさかどつかれるとは思わなかった」


 どつくって言うか、ぶん殴るだ。ぶん殴った。ぶん殴って泣いて喚いた。何で今そういうこと言うんだよ。わけわかんねえよ。お前全部知ってたのかよ。ショックで堤防がぶっ壊れたとしか思えなかった。

 突然泣きじゃくり始めた俺を客も親戚もぎょっとした目で振り返ったが、彰人を殴ったところは見られていなかった。見ていてくれりゃ良かったのに。そしたら距離を置く体のいい言い訳になった。


 彰人は誰にも、何も言わなかった。ただ、長い休みのたびに俺の家に押しかけてくるようになった。


 思い出すだに気持ちがささくれる。何を言っても自分の致命的な部分を抉りそうで、黙って皿を洗っている。彰人は結局1.5人分のそうめんを食った。あまりものだから良かったものを。突き刺さるような視線を感じたが、無視している。


 怖くて聞けないことが沢山ある。いつからそう思ってた。いつから知ってた。お前、本当は何がしたい。


 恨んでるのか、お前から兄貴を取り上げてたこと。


 聞けるわけがない。何かを言われる気配を感じて、わざと水の勢いを強くした。ざあざあと、水が痛いぐらいの勢いで手にはねてシンクを濡らす。その中で手を止めたままの俺に話しかけても無駄だと思ったのだろう。何も言ってこない。ただじっと背中を見られている。

 沈黙が痛い。水が流れる音はもう何の役にも立っていなかった。ただ水道代がかさむだけだ。畜生。

 身も世も無く破滅的になれるほどに俺は勢いが良くない。そんな人間だったら、洗いざらい晴樹に全部ぶちまけていた。出来るわけがない。

 蛇口を固く締めて、振り返り、何で今に限って笑ってねえんだよ空気読めよと心中で彰人を詰りながら、一番漠然とした質問を投げた。


「お前何で俺のことほっといてくんねえの」

「だってコウさん好きだし」

「本気じゃねえだろ」

「本気だよ」


 笑った。笑いやがった。笑ったら笑ったでやっぱりむかつくのだ。

 ガキの頃はなんとも思っていなかった。こいつ要領いいな、という程度。小遣いをせびられることが何度か。映画の趣味は合わなかった。嫌いになったのはあの葬式だ。俺が飛び越えられなかった柵をあっさり飛び越えて、がっちり築き上げた壁をぶっ壊しやがったあの日から、こいつが、大嫌いだ。


 俺帰るね、と立ち上がった彰人の後を何ともなしについていく。スニーカーの紐を妙にのんびり結んでいる姿を見ながら考える。

 厚かまして、利己的で、若くて、無敵で、最悪だ。俺もあいつと同じ年だったら何にもビビらずにすんだのかとか、俺は結局いつでもなんでもそんな無駄に自信満々にはなれねえに決まってるとか、羨ましいな畜生とか、色々考えてしまって、本当に嫌いだ。


「お前いつかさ、それで失敗しろよ。刺されろ」


 彰人に何かを尋ねるのは少し怖かったが、自分が何かをぶちまける分にはどうでもよかった。最初っから全部ばれている。汚くてみっともなくていっぱいいっぱいのところを見られておいて、今更俺の方から隠し立てするところはない。

 お前が上手に隠してくれていればそれでいい、と思う。


「今じゃないの」


 彰人は俺の悪態に小首をかしげて笑う。


「俺が」


 想像する。したくないけどする。こいつの腹を、包丁か何かでもって突き刺す。すぐそこにある。3秒で出来る。出来てどうする。その後は。俺は捕まり、彰人は死ぬか大けがをするかし、姉貴はまた泣くだろう。


「お前のこと刺せるわけないだろ」


 俺にそんなことは出来ない。破滅するチャンスはもう無い。言いたいことは何も言えず、殴った拳は誰にも見つからなかった。彰人以外には。


「コウさん優しい」


 ありがと、と言って笑う顔の造作とか、座った姿勢でこっちを見上げる首の角度とか、ちょっと上ずる声とか、全部全部似ている。本物じゃないけど、似ている。


「お前、早く、帰れよ」


 好きな奴がいた。年下で、血がちょっと繋がってて、優しくて、ありがとうって笑った顔が好きで。何かを言えるはずも無くて、それでもいいと思った矢先に死んでしまった。


「うん」


 好きだった。今も好きだ。


 俺のとこには帰ってこない。


「また来るね」


 彰人が立ち上がる。まだ背格好は違う。

 お前が嫌いだ。多分ずっと嫌いだ。

 でも、お前から鍵は取り上げられない。お前にあげた鍵じゃないのに。

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