第9話 ファーストフライト(後編)

 プラットフォームのてっぺんが近づくにつれて、空が広くなっていく。プロープの両脇につけられたパイプのガードレールは必要最小限という感じなので少し心細く感じるし、学園の飛込み台とは違って周りには他の建造物が何もないので、空中を登っているような気分になる。風が無くてかえって良かったのかもしれない、とウイングノーツは思った。


 プラットフォームの上に着くと、インカムをしたスタッフがやってきて滑走路上の待機位置をノーツに指示した。その上に立ち、ふぅと一息つく。


 左を見ると、湖岸を挟んで泊まっているホテル。右斜め前には昨日行ったレイクビューホテルが見え、さらに真横に視線を移すと観客席が見えた。確か、クラウドパルやマエストロたちもそこでノーツを見てくれているはずだ。

 そして、目の前には広大な琵琶湖と水平線。ホテルの窓から見たものと同じ景色のはずだが、ノーツは今にも湖に吸い込まれてしまいそうな感覚を覚えていた。


『現在プラットフォーム上は、富士川トリ娘スカイスポーツ学園所属、ウイングノーツさんです』


 テレビで何度も聞いたアナウンスで、自分の名前が告げられる。自分がこのアナウンスで呼ばれる姿をこれまで数え切れないくらい想像していた。でも、実際にプラットフォームの上で聞く自分の名前は違う。思わず笑みが零れそうになるのをノーツは必死に抑えた。


(ここに立つためにこれまで頑張って来たんじゃないか)

 ノーツはもう一度大きく深呼吸して正面を向いた。


 赤白の旗を持った審判員が前方の助走路上に立った。コンディションを確認して問題なければ白旗があがり、スタートの許可が下りる。後は自分のタイミングで走り出すだけだ。


 やがて、審判員が一旦赤旗を上げ、素早く白旗に上げ変えた。


「ゲート、オープン!」


 審判員の掛け声に全身の血が一気に熱くなる。


「行きます!」

 叫びながら、両腕を左右に伸ばして翼を広げる。


「3、2、1、ゴー!」


 低姿勢のまま全速で駆け出した。プラットフォームの端までのたった10メートルの助走距離が、長く遠く感じる。

 目の前に踏み切りポイントが来たところで、プラットフォームを蹴って真っ直ぐ頭から飛び出した。


 フッと心地よさを感じたのは飛び出した一瞬だけ。あとは自分を下に引っ張ろうとする重力の感覚が、ノーツの気持ちを昂らせる。

 正面の視界を湖の水面が覆い尽くす。その青の引力に負けまいと、ノーツは翼と尾羽を捻った。

 翼の下側に圧力がかかり、体が持ち上げられる感覚がする。見えている景色も急激に動き、視界に空が見えた。


(うまくいった……!)


 しかし次の瞬間、両翼にかかっていたはずの空気の圧が和らいだ。まるで寝ていた固めの空気ベッドがスカスカのわた飴に変わったかのような感覚に変わり、手応えが無くなる。

 ノーツの体は少し上向きでふわっと前に進んだ後、空中で一瞬止まってしまった。


「しまっ……」


 体が揺れ、左に傾きながら落ちていく。羽ばたいてはいけない滑空部門では、こうして失速してバランスが崩れたら立て直すのは不可能に等しい。


「諦めるかぁぁああっ!」

 翼と尾羽を限界まで捻り、少しでも長く飛ぼうと落ちる勢いに逆らう。翼に徐々にかかり始める圧。しかし、旋回して落ち始めた体の勢いは止まらない。


「あああああぁぁぁっ!」

 傾いていた左翼の先端が水に触れた瞬間、ノーツはまるでそこを湖に捕まえられたかのようにぐるっと回転し、湖面の上を滑るように着水した。


 ゴボゴボゴボっ。

 顔が水に浸かって息ができなくなったので体を反転させ、顔を水面に出す。

「はぁ、はぁ、はぁ、」

 たった一瞬の出来事だったはずなのに、息が荒い。そして、気づけば周りの水の冷たさがじわじわと体に染み込んできた。


「大丈夫ですかー?」

 やってきたライフセーバーに引き上げられると、モーターボートに座らされる。どこか打たなかったか聞く声に言葉が出ずに首を振った後、ノーツは目の前にそびえ立つプラットフォームを見上げた。


 幾重にも組み上げたパイプで作られたその建造物は、自分が数十秒前まで登っていた物と同じとは思えないほど、巨大で、高くて、重々しく見える。


「本当にあの上から飛んだんだ……」


 飛びたくて、憧れていた舞台。そこからついに飛べたのだからもっと喜んでもいいはずだ。

 そう頭では考えていても、ノーツは涙が流れるのを抑えることはできなかった。


『……只今の、富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ウイングノーツさんの記録は、』


 ウグイス嬢が淡々とウイングノーツの記録を告げる。


『……44メートル41、でした』

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