第30話 はなむけ

 夜、向日葵と離れのリビングでくつろいでいるところに、LINEのメッセージが入ってきた。

 見ると乳母の佐和子だった。

 椿は目を丸くした。


『今年いっぱいで九条家を離れることを決意しました。もともとあなたをひどい扱いをしたこの家の人たちから心が離れていたのですが、ずっとあなたが帰ってきた時私だけはお味方をしなければと思ってがんばってきたのですが、もうあなたが帰ってくることはないと思うとこの家にしがみついているのがあほらしくなりました。』

『私も自分のことを考えようと思います。そろそろ還暦も近いですし、ゆっくりさせていただきます。』

『だからと言ってあなたと縁を切りたいとは思っていません。またいつでも連絡をください。私も落ち着いたら状況を報告します。』


 時は流れているのだ。自分がいなくなったせいであの家の時間が止まってしまったのではないかと思っていたが、実態は逆で、自分が抜けたことにより時が動き出したのだ。

 よかった。これ以上佐和子を犠牲にせずに済みそうだ。苦労の多い人生だっただろう。自分が楽になったように彼女にも楽になってほしい。


 返事をした。


『了解しました。教えてくださってありがとうございます。お疲れ様でした。ゆっくりしてください。落ち着いたら住所等教えてください。』


 少し考える。


『もう大丈夫です。僕のことは向日葵さんが守ってくださいます。佐和子さんが無理をしなくても僕は今幸せです。

それでも僕を22年間育ててくれたのはあなたです。それは一生忘れません。今までありがとうございました。』


 束縛してしまって申し訳ありません、と付け足そうとしてやめた。それでもそういう人生を選択したのは彼女だ。自分も気負うのはやめよう。変な言霊に振り回される人生はもうまっぴらごめんだ。


 返事が来る。


『もしよかったら、向日葵さんの連絡先を教えてくださいませんか? たぶんないと思いますが、あなたと連絡がつかない時にご連絡させていただくかもしれません。』


 ちょっと笑った。彼女がこんなふうに踏み込んできたのは初めてかもしれない。


「ひいさん」

「ん?」

「佐和子さんがひいさんの連絡先を知りたいと言うてるんやけど」

「いいよー」


 軽いノリに安堵した。彼女も何も考えていないわけではないだろうが、こうやって能天気そうに見える反応を返してくれる彼女に救われている。


 向日葵の電話番号とLINEのIDを送信した。


 佐和子はすぐに入力したようだった。ほどなくして向日葵のスマホが光った。向日葵が自分のスマホを手に取り、何らかの操作をする。


「おっ!?」


 向日葵が笑った。


「なんだこれ!? 椿くんか!?」

「なんやの」

「ちょ、ちょっとこれ、見て! 今佐和子さんから送られてきたんだけど、これ!」


 スマホを差し出してくるので受け取る。画面を覗き込む。


 飲み物を口にしていなくてよかった。口に物が入っていたら噴き出しているところだった。


 あどけない顔立ちの少年の写真だった。小学校の制服である白い開襟シャツを着ている。見覚えのある顔だ。


「うわっ! 小学校の卒業アルバムや!」

「ヤバっ、きゃわわわわ……! めちゃめちゃ美少年だ、ほぼほぼ女の子だ」

「やめて恥ずかしい! 恥ずかしい!」

「あっ、また来た。んー、これは幼稚園かな? まあー綺麗な顔して子役みたい」

「ちょっと、こら! なに勝手なことを!」


 自分のスマホを開いて佐和子にやめてくださいと送信する。しかし既読がつかない。一方向日葵はまだ自分のスマホをスクロールしてきゃあきゃあと騒いでいる。


「えっ、ヤバ! まだ来る! 全部可愛い! 保存しとこ」

「佐和子さんなんでそんなもんぎょうさん持ってんのや」

「そりゃ可愛かったからだら。きっと椿くんが宝物だったんだねえ」


 そう思うと切なくなってくる。


 贖罪の意味を込めて、椿も佐和子に写真を送った。千本浜でバーベキューをした時の写真、愛鷹グラウンドで高校野球を観戦した時の写真、修善寺しゅぜんじで紅葉狩りをした時の写真、御殿場ごてんばのクリスマスイルミネーションを見に行った時の写真――一年中向日葵と何らかの写真を撮っている。実家にいた時には考えられなかったほどの枚数だ。


 まだ増えるだろう、と思うと――


 ようやく既読がついた。


『幸せそうで嬉しいです。』

『私も幸せです。』

『また撮ったら送ってください。』


 人生はまだまだ続く。

 それでも、今はここでひと区切りだ。

 幸せな気持ちが、止まらない。




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太平洋は今日も晴れ ~今度はお茶の実を育ててみよう~ 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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