第13話 うろこ雲

 今日の沼津市はうっすらうろこ雲がかかっているが晴れと言っても差し支えないだろう。うろこ雲がかかると翌日雨が降るというので、明日から天気が崩れるかもしれない。出かけるのなら今日のうちだ。そう思った椿は沼津駅まで出てきた。特に用事はない。適当にポケモンGOをし、適当に書店をひやかし、適当にランチを取る。のんきな散歩で向日葵とも特に約束していない。沼津に来てから椿は一人ランチができるようになった。


 今日の昼はネパール料理屋でカレーでも食べるかな、などと考える。向日葵の母は短大で料理を勉強していただけあって椿が知る中では一番の料理上手だが、さすがに突発的に日本食ではないカレーを作らせるわけにはいかない。それにこの辺のネパール料理屋は店の人がネパール人なので椿が着物で入ると喜んでくれる。褒めそやされて悪い気はしない。


 ポケストップをぐるぐると回しながらさんさん通りを歩く。花壇にビオラの咲く中央公園から狩野川かのがわにかかる御成橋おなりばしまで五分程度の道のりだ。仏具屋の前に立つ金の仏像に始まり、この通りにはアーティスティックなオブジェがたくさん並んでいる。特に一番奥、スルガ銀行本店近くの妙にリアルな猫のブロンズ像が可愛い。


 ブロンズの猫はオーダースーツの店を眺めている。椿も立ち止まって店の看板を見上げる。椿は一着もスーツを持っていなかった。今すぐスーツな必要なところに就職活動をする気はないが、何かあった時のために仕立てておくべきか。


「すみません」


 不意に若い男性の声が聞こえてきた。


「池谷椿さんですか?」


 自分が声をかけられているらしい。驚いて振り向くと、そこにスーツ姿の男性が立っていた。年齢は三十歳前後だろうか、爽やかな黒い短髪に黒縁眼鏡をかけている。


「はい、僕が池谷椿ですが」


 少し警戒しながらそう答えると、彼は目尻を垂らして微笑んだ。


「よかった、人違いだったらどうしようかと思いました」

「僕いつの間にか有名人になってしもたんですね。こないなとこでお声をかけていただけるとはおもてへんかったんですが」

「向日葵さんの会社の皆さんが着物で駅の周りをうろうろしている若いイケメンがいたら120%向日葵さんのご主人だと話していたので」


 頬がひきつりそうになるのをこらえた。


「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません、妻と親しくしてくださっているのでしょうか?」

「すみません、僕はこういう者でして」


 ジャケットの下、白いシャツの胸ポケットからネームホルダーを出す。沼津市役所、観光戦略課、村松むらまつ、とある。市役所職員――向日葵の仕事の取引先だ。適当にあしらっていい相手ではなかった。


 しまった。こういう時に限って適当な緑の格子模様の化繊の着物の上にその辺にあった向日葵のレディースのダークオレンジのケープコートを羽織って足元は履き古したスニーカーだったりするのだ。人生とは往々にしてそういうものだとは思えども、さすがにこれは恥ずかしい。どうして取り繕ったものか。


 笑顔のままフリーズしてしまった椿を相手に、村松氏はへらへらと笑って話を続ける。


「いやあ、暑いですね。市役所から御成橋を渡ってきたんですが、汗をかきそうですよ。朝晩は冷えるからヒートテックを着てるんですが、日中は秋晴れもいいところですよね」

「そうですね……」

「お昼まだですか? おごりますよ。何食べます?」

「いや、あの……お気づかいなく……僕も放っておいても一人で何か食べられるようになったんで……」


 結局椿は彼に引きずられてネパール料理屋に入った。今日はさんざんだ。早く帰りたい。



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