カスタム vs.バイオゴリラ編

祐高すけたかさま! 邪悪な猿神を倒すので使庁の兵を貸してください!」

「いきなりわけのわからぬことを言うな!」


 少将純直すみなおが雉肉を持って別当邸に駆け込んできたのは、とある日のことだった。十七歳の少年は、素敵な木の棒を見つけた仔犬のように目を輝かせていた。


「実は昨日、鷹狩りに行ったら夕立に遭いまして。近くの家で雨宿りをしたら、その家の主の長者と娘がしくしくと泣いておりました。長者は白い髭をたくわえて五十か六十か、娘は十五のうら若き乙女。――どうです、心躍りませんか」


 別当祐高は聞いていて嫌な予感しかしない。



「何と、みやこの少将さまで大臣家の令息。このようなあばら屋に貴人をお招きできるとは光栄です」


 髻まで白い老人は、純直が名乗るとひれ伏した。山里の家は古いが趣があり、純直は一番いい畳に座らされ、酒と肴を勧められた。もてなしは手厚いが老人も娘も顔つきが暗い。


「うちの娘をさしあげたいところですが、我が家は呪われた家であるゆえできません」

「もう妻がいるので娘はいらないが、呪われているとはどういうことだ。話を聞かせよ」

「毎年、このような春の満月の夜になると猿神が現れて生け贄として我が家の娘を取っていくのです。おとなしく娘を差し出せば豊作を約束すると言って。これは五番目で、末娘です」

「満月の夜とは三日後か。生け贄を取る猿神、何と禍々しい。検非違使として捨て置けん。武官たる者は民草を守らなければ。よろしい、少将純直がその猿神とやらを退治してそちたちを守ってやろう」


 純直は本気で律令と帝の聖徳が悪を討ち果たすと信じていたのでためらいなく言い放った。老人も娘もそれで顔つきが明るくなった。


「何とありがたい。では礼に娘を」

「妻がいるから娘はいらんと言うに。わたしは正義を守るだけだ、気にするな。猿神とは魔物か。姿はどのような」

「猿神はふさふさと長い栗毛に全身を覆われ、身の丈七尺、ひょろ長い手足で石を投げ、牛馬をも打ち倒します。わしが子供の頃は真っ黒い魔物のようで山中を徘徊しており、出会ったら命乞いも聞かない、ただ逃げろという話でした」

「手足が長い。清涼殿の襖障子に描かれた手長足長のような? あれは縁起がいいという話だったが」

「清涼殿の襖障子がわかりませんが、恐らく。神ならずとも天狗か鬼の類です。何度か京より精兵の討伐部隊が来ましたが倒すことはできませんでした――」



「ということで神話の須佐之男命すさのおのみことの如く、この少将純直、民草のために邪神と戦う決意をしました。鬼神を調伏するべく天文博士にも手伝ってもらいましょう」


 聞けば聞くほど祐高は頭が痛かった。五つ下のいとこの純直は弟分で世話を焼いてやらなければならないが、どこに鷹狩りに行ったらそんな珍妙な話を拾ってこられるのか。京の外は魔境か。


「本気か」

「かつては討伐部隊が京より使わされたと」

「最近の話ではないだろう。使庁のここ十年ほどの記録は目を通したが、猿神討伐などという奇っ怪な話はなかったぞ」


 祐高も検非違使別当に任じられたときはそれなりにはしゃいで、酒呑童子討伐のような面白い記録がないかと思ったのだがそもそも源頼光は検非違使ではなかった。検非違使庁の記録は民草のいさかいやら、神社仏閣の掃除やら落としもの探しやらばかりだった。


「衛門府や近衛府の話ならお前が自分で記録を見ろ」

「内裏に猿神が出たのでない限り近衛府はなさそうな気がします。京ではなく近江?」

「ともあれ前例がない」

「祐高さま、そこを何とか使庁の兵をお貸しください!」

「簡単に言うな」


 祐高は声を低めた。冗談は終わりだ。


「そんな胡乱な話で使庁を動かせるか。童子の玩具ではないぞ。頭を冷やせ」

「何ですって」


 純直の表情が強張った。だが甘やかすわけにいかない。


「使庁の官たちに猿と戦えなどと命じられるか。馬鹿馬鹿しい。陰陽寮にもみっともないことを言うなよ」

「神でも獣でも悪事をなすものですよ! 人さらいは律令に記された犯罪ではないのですか! 世の秩序を守らなければ!」


 純直はまだ喚けば道理が引っ込むと思っている。


「長者と言っても相手は山賤やまがつであろう? わたしがそこまでするほどか」

「日の本の民草です! 長者の一家は何年も苦しめられていたのに。純直は若年なれど武官です、悪は見過ごせません!」

「純直、大人になれ」

「見損ないました! もういいです! 純直は一人でも行きます!」

「一人ではないだろうが」


 ――どうも、悪役と言うのはやりにくい。ため息が出る。


「お前の従者だけで足りる。鷹狩りは獲物を追い出すのに勢子せこでもって追い立てるのだからお前も大人数で二、三十人いただろう」

「あ」


 本気で忘れていたのか、目つきを険しくしていた純直がぽかんとした。先が思いやられる。


「純直、お前、一人で長者の家で雨宿りしたのか? 従者たちはその間、雨に濡れていたのか?」

「そのときははぐれておりまして。皆、我が家に戻っておりました」

「しっかりしろ。――従者や下人どもを再びかき集めて弓矢や太刀を持たせて長者の家を守らせて猿神と戦わせればよい。獣と戦う者たちだろうが。使庁や陰陽寮に泣きつくのは負けてからにしろ。二十人で済む話に二百人出したら恥だ」


 鷹狩りは、下人たちで森から獲物の兎や雉や鴨を追い立てて主人の方に飛び出させ、そこに鷹を放って仕留めさせる――地べたを走る兎、追われても空高く飛び上がらない雉が狙い目の獲物だ。

 鷹を放つ純直よりも、鷹を調教する鷹匠、協力して相応しい獲物を探して決まった方向に追い立てる勢子の方が技術を必要とされる。勢子は森の中で狼や猪に出会うこともあるので太刀や棒を持っていて、人間よりすばしこい動物を相手に想定して動く。武官でなくても武人だ。猪や鹿を弓で狩るときも勢子の助けを借りる。

 それに純直本人の護衛、随身が勢子とは別にいる。猟犬もいる。獲物を解体する地元猟師、陣幕を持ってきて張るだけの係、飲み水しか持っていない純直の世話係などもいる。

 大臣家の御曹司の鷹狩り一行はかなりの武力集団だ。そこらの山賊如きは相手にならない。

 純直のわがままだけで動く部隊がそんなにいるのに他に百人、二百人の検非違使庁の精鋭部隊を編成するなら何かしら根拠や手続きが必要だ。当たり前だ。猿神が数百頭もいて村ごと押し潰されるならともかく。

 戦力の逐次投入は愚の骨頂と言うが、いるかどうかもわからない猿神退治に百人も動員できるか。大臣家の手勢と猟犬が負けてからでいいと思った。

 このときまでは。



 翌日、純直たちは明るいうちに村に陣を張った。とはいえ村の外から見てわかるようなものでは警戒される。猿とはいえ神を名乗り、五年も生け贄を取っていたもの、侮ってかかればどんな手痛い目に遭わされるか。

 村を白木の杭で囲み、入り口にいかにも祭りのように注連縄しめなわを張って篝火かがりびを焚く。綱を張り巡らせて鳴子を仕掛ける。

 三十人が十人ごとに分かれ、十人は家々の戸口に、十人は屋根の上に、十人は木陰や樹上に潜んだ。純直のみ、馬に騎乗して村長の家の陰に潜む。

 皆、息を詰めて待ちかまえた。

 風のない夜だった。京では漏刻がいぬの刻を示す頃合いだったろうか。

 篝火の灯りの中に、ゆらりと何者かの影が現れた。


「……足音は人のもののようです」


 鷹狩り一行の中で最も耳がいいのは猟師だった。その報告を聞いて従者たちが鳴子を鳴らす。

 音を合図に、戸口に潜んだ者たちが一斉に飛び出す――棒を持って、あるいは外しておいた戸板そのものを持って。

 相手はたった一人。戸板と棒で押し包んですぐに地面に突き倒し、腕を取って引っ立てる。


「捕らえました、人です! 猿の毛皮を着たたぶれ者です!」


 いきなり大人数に圧倒され、男はもごもごつぶやく。


「おのれ……何奴」

「我らは検非違使佐けびいしのすけ右近少将うこんのしょうしょう藤原純直さまの軍勢! 神妙に縛につけ」

「検非違使だと」


 奇妙な猿の毛皮を着た男は、笑い声のようなものを上げた。


「おれは猿神の御使いだぞ、神妙にするのはそっちだ!」


 男は指笛を鳴らした――夜に口笛を吹いてはいけないと言うが、不吉な高い音だった。下人たちは不気味そうに男を見下ろしていたが。


「なっ、こんな!? ありえない!」


 猟師が大声を上げ、急に、地響きのような足音が鳴った。


「な、何だ」


 篝火に照らし出されたのは真っ黒な身体に真っ黒な顔。

 身の丈七尺はあろうか。

 頭が縦に盛り上がり、奇妙に背を曲げた姿が見慣れないが、猿神と言われればそのようだった――巨躯はまさに神としか呼びようのない威容。猟師は腰が抜けたのか、耳を押さえてうずくまってしまった。

 毛皮の男が得意げにあごをしゃくった。


「おれも人前に呼び出すのはこれが初めてだ。これぞ遣唐使船で遥か波斯国からいらした猿神さ――」


 ぐにり。

 言葉の途中で男は真後ろから巨大な拳を受けた。首がへし折れ、千切れてぼとりと地面に落ちる。

 何という剛力。


「ひ、人殺し! 化けものだ!」


 慌てて男の骸を捨て、下人たちが後ずさる。純直は彼らを大声で叱咤する。


「離れろ、まともに組み合うな! 距離を取れ! 戸板に隠れろ!」


 大声を上げながら純直も背に負った弓を取り、矢をつがえる。


「臆するな、戸板を盾に動きを封じるのだ! 動きを止めて弓矢で仕留める! 弓矢、かまえ!」


 はきはきと指示を飛ばしながら、純直は弓を引き絞った。


「射て!」


 純直が矢を放つと、それに倣って手勢たちも矢を射る――村の小さな家の中に潜んでは弓をかまえられない。弓の心得のある者は皆、屋根の上や樹上に陣取っていた。高いところから低いところを狙う方がたやすい。今や、姿を隠す必要もない。

 だが空を裂いて飛来する矢を、猿神は無造作に手のひらで払いのける――皮が分厚く手のひらまでも黒い。

 瞬きするほどの間に、放った矢は残らず拳の中に握り込まれていた。猿神が拳を握り締めるとぽきぽきと矢柄が折れて弾けた。手勢たちがどよめく。


「矢が通じない!」

「うろたえるな!」


 純直は叱咤激励したが、手綱を持つ口取りが怯えきった声を上げる。


「しかし、少将さま。あんな化けものに敵うのでしょうか――」

「正面から当たらないなら背後から射かければよいのだ。首の辺りを狙えば何とかなる。わたしがやつの気を引く」


 口取りから手綱をもぎ取るように純直はさっさと馬の向きを変え、腹を蹴って猿神の前に躍り出た。


「しょ、少将さま!」

「やつが後ろを向いたときに放て!」


 鷹狩りの伴なので騎兵はほとんどいない。駿馬の動きでもって翻弄するのは、いちいち指示を出すより純直が自分でやった方が早かった。


「猿神とやら! 獣とはいえ神、この少将純直朝臣がお相手いたそう! わたしを見ろ!」


 馬術だけではない。矢をいっぺんに三本握って、続けて速射するのは彼の特技だった。素早い分、狙いも威力も甘いが、目論見通りに猿神は首を回して彼に手を伸ばした。

 野獣らしく尖った爪が火灯りを受けて輝き、その先が馬の尻をかすめた――馬がよろめく。純直は鐙を踏み締めてぎりぎり落馬を堪えたが、少し分の悪い勝負のようだ。あの体躯、あの膂力でこの俊足の葦毛についてくるとは。

 上つ方の公達ともあろう者が早計だっただろうか。神とはいえ猿に殺されるなど、両親はどれほど嘆くだろう。

 黒光りする爪が閃き、純直の脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。十年ほど前は父と馬に乗って鷹狩りに来たのだ。――もう十年? たった十年?

 このまま、獣に引き裂かれるのだろうか――正義のためとはいえ情けない末路だ――あたら十七歳で猿に殴られて死ぬなど――

 彼を現実に引き戻したのは違う獣の声だった――びょうびょうと吠え猛る獣が、馬のすぐ横をすり抜けた。


天河てんが! 銀河ぎんが!」


 この犬たちは兄弟でほんの小さなときから猟犬として仕込まれていた。川に落ちた鴨を拾ってくるのが得意で、狩りをしていないときもよく遊んだ。

 二頭の猟犬は左右から猿神に吠えかかり、一頭が猿神の鼻面に喰らいついた。猿神は払いのけようとする、その手にもう一頭が喰らいつき、牙を立てる。

 あの頃の友がこんなに立派に成長して。命が助かった安堵だけではない、温かいものが純直の胸の奥に広がった。

 猿神が吠えた。悲鳴だけで耳をつんざく。犬たちの歯では分厚い毛皮を貫通することはできないだろうが――


「犬どもが頑張っているぞ! 今だ、皆、背後から射よ!」


 声を上げながら、純直も矢をつがえて弓を引き絞る。腕が千切れても致し方ないというほど。


「我に春日大権現の加護ぞあらん! 御仏よ、この矢に宿りて邪神を滅したまえ!」


 最後の一矢が空を切る。

 それは猿神の右目を貫いた。

 猿神は身体のどこもかしこも黒かったが、血飛沫だけは赤かった。



「……嘘だろう?」


 純直の武勇伝とか、祐高には一つも本当に聞こえないのだが。三十人がかりでやっと倒した身の丈七尺の真っ黒な大猿?


「いや、嘘だろう?」

「本当ですよ! 少し話を盛ってるだけで!」

「話は盛っているのか?」

「まあちょっと大袈裟でした。それでも戸板を持っていた下人が何人か腕を折って。手当てしましたが治るまで時間がかかりそうなので、湯治に行かせようと思います。いやあ、手強い敵でした」


 それで純直は櫃を運び込ませた――従者が蓋を開けると、櫃の中には頭のてっぺんが盛り上がって顔まで真っ黒で鼻の穴の大きな、一抱えもある大猿の頭部が。純直が言う通り、右目が潰れているようだった。思わず祐高は屏風の後ろに隠れた。


「毛皮は穴だらけで、肉は臭く腹を壊しそうなので捨てましたが、せめて頭だけ」

「持ってくるな!」

髑髏されこうべだけにして、我が家の家宝にします」

「呪われそうだぞ! うちには幼子がいるのだぞ!? いや左大臣家にも持って帰るなこんなもの!」


 祐高は屏風に取りすがって喚いた。純直の言う通りにしていたら邸を何にされるかわからない。


「事情を知る者は死んでしまいましたが、波斯国の遣唐使船には何でもありますね!」


 更にその一言が聞き捨てならなかった。


「……待て。確か最後に筑紫に遣唐使船が着いたのは……二百年ばかり昔のことだが」


 祐高がつぶやくと、純直は少し首を傾げた。


「……長生きの猿神でしたね!」

「まことにそうなのであろうか!? つがいで二百年、子孫繁栄していたらどうする!?」

「考えすぎですよ」


 邸どころか京の危機ではないだろうか。

 これが最後の猿神だったとは思えない……祐高は胸騒ぎが止まらなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

少将純直、猿神と戦うこと 汀こるもの @korumono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ