ヴィアレット家メイド 銀雪(インシェ)

 やや暑さの残った9月も過ぎ、10月ともなると秋らしい涼やかで静かな夜が訪れるようになった。夏のおぞましい程の炎熱をもものともせずに青々と育った庭の枝木も気づけば常盤色に徐々に色づいており、昼間には庭師の方々もせっせと落ち葉を集める様子も見られる。

「ユキちー、出たよー」

 夜も十時を過ぎた頃、遅めの風呂を済ませた瑠璃は濡れた髪を乾かすのもほどほどに、ルームメイトの名を呼びながら部屋の浴室から出てきた。いつもツインテールに結わえた黄金色の髪と尻尾は水に濡れてしっとりと垂れ、特に量も多くやや堅さのある尻尾の毛先には滴の小さな塊が出来て今にも落ちそうに震えている。

「ユキちー」

「はいはい」

 瑠璃がドアの前で再び呼ぶと、部屋の奥からバスタオルを抱えた雪がパタパタとスリッパの音を立てながら小走りに走ってきた。雪はタオルで丹念に身体を拭いている瑠璃の背面に回ると、濡れた金色の尻尾をタオルで包み込むようにして水気をとってやった。臀部のやや上の尾てい骨のあたりから茶筅のように広がる尻尾は、痩せた少女の身体の腰や尻に比べて不釣り合いに大きくて何とも艶めかしく、それを跪いてぽんぽんと優しく水気をとってやっている黒髪の少女の姿もまた、目元にやや気弱そうな印象を覚えさせるが、その手つきや振る舞いには気品が漂っており、やや野性味を感じさせる瑠璃と対比して淑やかさの目立つ少女だった。

「瑠璃ちゃん、ちゃんと着替えてね」

 あらかた浴室で水気を取れたのを確認すると、雪はタオルを抱えて浴室から出て行った。

 しばらくして瑠璃はナイトウェアのチュニックの上着だけを着て、部屋へと戻ってきた。チュニックの裾からは白くすらりと伸びる脚が見えていた。

 雪は以前まではそれを見るたびにはっと赤面するような気持ちだったが、瑠璃と付き合っている内にすっかりと慣れてしまった。

「雪ちー。おねがーい」

 瑠璃がそう言ってベッドにどっかりと座り込むと、雪はあらかじめ用意していた替えのタオルとドライヤーを手に瑠璃の後ろへと座ると、ベッドに垂れる長い髪と尻尾の毛束を乾かし始めた。ゴォーという騒音とともに温かい風が何とも眠気を襲ってくる。

 数分の後、「ふわぁ~」と瑠璃はまるで猫のように大口を開けて欠伸をすると、時折こっくりと船を漕いだ。

「瑠璃ちゃん眠い?」

 雪はドライヤーをかける手を止めると、瑠璃の肩を抱いてやった。

「うん」と瑠璃が夢うつつに答えた。

「寝てていいよ」

 言うが早いか瑠璃がキングサイズのベッドにごろりとうつ伏せになると、雪はそばで正座したままで乾いた尻尾に優しく櫛を通してやった。

「寒くなってきたねぇ雪ちー」

 雪は瑠璃の金色の尻尾を優しく梳きながら「うん、そうだねぇ」と答えた。

 

 銀雪は香港を拠点としてアジア・中東からアフリカを結ぶ海運業を営む銀という一族の4番目の末娘として生を受けた。父母ともに海の上で育ったと言っても過言では無いほどに海の流通に精通した生粋の商売人だったが、決して家庭を蔑ろにするようなことはなく夜は必ず寝食をともにするなど、愛情豊かな家庭だった。

 幼少期は香港島から望むニューヨークの摩天楼とよく似た眠らない輝かしい赤や青や黄色など色とりどりの光に彩られた街並みを眼下に眺めながら過ごしたのだが、生まれついて感じやすい繊細な感性を持っていたらしく、加えてどうも末娘らしい人の目を気にする甘えん坊な気質で、兄姉はともに両親とともに海の上を遊び場とするような豪胆さがあったが、雪はといえば部屋のなかにこもって読書やピアノを弾くことを好む物静かな性格だった。

 とはいえ、雪の両親はともにそんな雪の気風にあえて干渉するようなことはなく、むしろその繊細で豊かな感性を育てたいとさえ思い彼女の望むままに芸事や語学といった教育を施した。いつかある程度の年齢になれば自然豊かな風光明媚な欧州かカナダにでも遊学させたいと思っていたほどだった。

 転機は雪が15の春を迎えた頃で、ちょうど古くから取引のあったヴィアレット家との懇談の際親戚筋にあたるメイドのレムの紹介もあり、雪は遠く離れた日本の地でメイドとして働くようになったのだった。初めの方こそ慣れない屋敷での仕事に四苦八苦としていた雪だったが、まめまめしい働き者な母親の薫陶を受けたことから特に嫌気を起こすこともなく、今や瑠璃をサポートする立場として忙しい毎日を送ることとなった。

「はい、瑠璃ちゃん。終わったよ」

 20分ほど経つと、しっとりと濡れていた尻尾はふわふわと柔らかく乾き、雪がすでに夢心地に落ちていた瑠璃の肩を揺らすと、それは箒のようにぱさぱさと動いた。

「ありがとー雪ちー」

 瑠璃はそう言うと、金色に輝く髪に埋もれる狼耳を何度かぴくぴくと動かした。

「もう寝る?」 

 雪がそう聞くと、瑠璃は枕を抱えてこくこくと頷く仕草を見せた。

「それじゃ、もう電気消すね」

 雪はそう言って瑠璃の横になるベッドに潜り込むと、ベッド脇にあるリモコンを操作して部屋の灯りを落とした。まだ月初めの夜は月明かりもなく真っ暗闇に包まれてしまった。

「ねぇねぇ雪」

 先ほどまで夢うつつで判然としなかった瑠璃がやや覚醒した状態で雪を呼んだ。

 雪は「うん」と小さく返事をすると、瑠璃の口元に右手を差し出した。瑠璃はその手を両手で包み込むようにして握ると、甘噛みと言うほどでもなく、軽く歯が当たる程度に噛みついた。雪はその生暖かい感触にびくっと一瞬身体をこわばらせたが、手を引っ込めるようなことはせずに瑠璃の好きなようにさせておいた。1分もしないうちに瑠璃が手と口を離すと雪はゆっくりと布団のなかへと戻し左手でその噛み痕を確認した。雪の手や指にはくっきりと歯形がついており、なぞれば特にぽっこりと犬歯の深い溝が確認できるほどだった。

 狼の愛情表現が瑠璃には残っているのか、彼女は夜に眠るときには時々こうして雪の腕に軽く噛みつく癖があった。初めて共に寝るようになった頃、この瑠璃の癖には驚いてしまったが、今では不思議とそれを期待する自分がいることを雪は気づいていた。

「おやすみ瑠璃ちゃん」

 雪はすでに寝入ってしまったルームメイトにそう言って夢のなかへと旅立っていった。


レム

ヴィアレット家メイド。元は台湾を拠点とする商社の社長。

銀家とは親戚筋にあたり、雪の父は叔父にあたる。


ヴィアレット家豆知識

雪=中学を卒業したと同時にヴィアレット家に来たため学校には通っていないが、通信の高等教育講座を受講している。中国文学や音楽について造詣が深いため、瑠璃と共にゆなの遊び相手を務めている。

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