第5話 お兄さんの事情
体の泥や汗を熱いシャワーで流すのはたまらなく心地よかった。青いタイルの浴室は意外と僕の家の風呂場より広く、曇りガラスの窓から真昼の光が降り注いで明るい。怪我がないか体を見回したが、軽い擦り傷と痣がある程度で問題はなさそうだった。焦げ茶色の短い髪には、泥がついてごわごわしていたが、シャンプーをしたら元通りだ。
浴室を出るとお兄さんが用意してくれた、タンスの匂いがする服があった。昔着ていたやつを探してくれたのだろう。それでも少し大きい白Tシャツを着ようとした時、裾にひらがなで名前が書いてあるのに気がついた。
「さこみず しん」はじめて聞く名字だった。水は分かるが、さこってどう書くのだろう?
そんなことを考えながら着替えて廊下に出ると、じゅうじゅうと焼ける音とソースの香りが漂ってきた。居間に戻るのをやめて匂いのもとへ向かうと、台所でエプロン姿のお兄さんが慣れた手つきでフライパンをゆすっていた。
「服ありがとう。お兄さんは?」
「腹減ってるから食べてからにするよ。もうすぐ出来るから待ってて」
僕は近くのテーブルに座った。僕の家はキッチンとリビングが同じ部屋だが、ここは違うので新鮮だ。
「こっちは汚いけどいいの?」
「ぜんぜん」
僕は卓上に雑に積まれたふりかけや鰹節のパックを見ながら答えた。他にもチラシや雑誌など色々ある。知らない暮らしの空気は豊かで楽しい。
するとお兄さんは皿に大盛りの焼きそばと麦茶を持ってきてくれた。具はシンプルにキャベツとにんじんとソーセージ、すばらしい!
「「いただきます!」」
「うまい…!世界一うまい!」
「それはよかった。ちゃんと噛んでたべるんだぞ」
「むぐっ」
勢いよく食べ過ぎた。慌てて麦茶で流し込む。
「いわんこっちゃない」
お兄さんは笑っている。僕のやらかしをではない、とても優しい眼差しで、この時間の幸せを噛み締めるように笑っている。
2つの山盛りの焼きそばはあっというまに腹におさまった。お兄さんもなかなか大食いだ。麦茶を飲んで一息ついたところで、僕はさっき気になった事を質問してみた。
「さこみず、って珍しいね。どう書くの?」
「迫る水って…ああ、これ、この字」
お兄さんがテーブルの角に積んであったノートを僕の前に持ってきて、名前を指差した。
迫水辰。そして数学演習中学2年。
「お兄さん中学生だったの!?」
「えっ、ああ。13歳の中学2年だ。意外だった?」
「もっと大人に見える。背が高いし、助けてくれたときとか、強かったし。料理とかできてすごいちゃんとしてるし…」
「背は確かに同級生よりあるな。でも、ちゃんとしてる…か…。そう言われるのは珍しいから嬉しいよ」
「なんで?すごいのに。焼きそば作れるし」
お兄さんは自嘲ぎみに答えた。
「一般的にはちゃんとした中学生は平日昼間には学校にいないとおかしいからな」
「迷惑かけてごめんなさい…」
「違う違う!ほんとそういう意味じゃない!」
お兄さんの暗い声色に、無邪気だった僕も申し訳のなさを思い出したが、お兄さんはしまった!とばかりに強く否定した。それでも僕が腑に落ちない顔をしていると、少し迷ったような間をおいて、理由を話し始めた。
「わりとよく学校サボってるから。まず中学が遠いってのもあるんだが…」
僕も遠くの学校に通っているので気持ちは大いに分かる。だがお兄さんの理由には続きがあった。僕にどう言えば伝わるのか、言葉を選んでいる。
「雨の日は体の調子が悪い。気持ち悪いし、突然眠くなって意識が落ちる…だから外に出たくない」
「…昨日は大丈夫だった?」
「なんとかね」
苦笑いして答える。かなり悪かったんだろうか。
その笑顔が消えると、お兄さんはか細い声で続きを語った。
「………悪夢も見るんだ。雨の日の覚えてる夢はみんな…不吉な夢ばかりで。そっちのほうが体調よりきつい、かな…。結局晴れても引きずってしまう」
不吉。その一言にどれだけの苦しみが詰まっているのだろうか…。ここまでずっと強くて明るかった人に落ちる暗い影だった。それに触れた僕は何て声をかければいいのだろうか。
お兄さんは話している間にうつむいて、そのまま僕の方を向かずに言った。
「昨日は君を助けられて良かった。雨の日にもいいことってあるんだな」
独り言のような小さな声だった。『体の調子が悪い』なんて僕に分かりそうな言葉にしただけなのだろう。それは誰にも本質を理解されない辛さを、独りで抱えてきた寂しい響きだった。
僕は決めた。解決方法なんて分からない、事情もよく知ってるわけじゃない。
それでも僕にできることをやろう。
「もっといいこと作ろう!助けてくれたお礼!」
僕ははっきりと大きな声で言い放った。影っていた空気が変わり、部屋まで明るくなったような感じがする。
すぐ顔をあげたお兄さんは、恩返しが見つかってやる気をみなぎらせている僕を見て、まだきょとんとしている。
「作る?」
「待つよりいいよ。幸せは歩いてこないっていうし。
僕はお医者さんじゃないから、体調不良は治せないけど、そのぶん楽しいことを手伝うよ!いいことは増やせるし!」
ようはプラマイでプラスになればいいのだ。僕はこの人に少しでも与える側になりたい。全然足りなくても、昨日より少しマシな明日を。この気持ちがつたわったのだろうか、ふさぎこんでいたお兄さんは
「………そうか、そうだったな。ありがとう」
宝物を見つけたように微笑んでくれた。
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