第2話 森の泉にて

 次に目を覚ました時、僕は暖かい寝袋の中にいた。あたりを見回す。まだ夜だ。近くには小さいランタンの灯りがあって、僕がいる壊れかけた小屋の中を照らしている。もう少し遠く、大きく開いている入り口の外にはオレンジ色の炎が見えた。その側にいる影も。


 僕はごそごそと寝袋から出ようとして、自分が服を着てない事に気がついた。


「あの…」


 驚くほどか細い声しか出なかったが、すぐに気づいて貰えた。


「…!起きたか!大丈夫!?どこか痛いところあるか?」


 急いで駆け寄ってきたのは、やはり僕を救い上げてくれた神様だった。黒い髪は少し長めで、心配そうに僕を見つめる顔も綺麗だ。女神様に見えないこともないが、さっきの声が低かったのと、この人も上を脱いでるので男だって分かる。


「な、ない…たぶん…」

「本当に?良かった…。寒くないか?」

「へいきかも…。あの、」


 聞きたいことは山ほどあるが、まず僕が気になることが何なのか、察してくれたらしい。


「…あっ、ごめんね。服は濡れて体力奪うから、そこで乾かしてる。朝までには乾くと思う。

ええと、オレが来たときに君はそこの泉で溺れて浮いていて、いやそこは覚えてるか。どうしてこんな所に…」


 僕よりよほど動揺している。本当にお互い分からないことだらけで、何から聞いたり話したりすればいいのか迷ってしまうから仕方ない。

 でも、僕が一番伝えなければならない事ははっきりしている。

 だからちゃんと、さっきみたいな小さい声じゃなくて、息をしっかり吸って、


「ありがとう。助けてくれて」


 まっすぐに、感謝を伝えなければ。


「……君を助けられて本当によかった。ありがとう、ここまで頑張ってくれて」


 落ち着いて改めて考えると、寝袋といい焚き火といい、神様かと思ったこのお兄さんはキャンプの装備をしている。つまり僕は散々歩いた末に元々いたキャンプ場に帰ってきていたのだ。これは幸運というか拍子抜けというか。

 僕はお兄さんに遭難の経緯を話した。お父さんの思いつきでキャンプに連れて行かれたが、高い装備を揃えても素人にはろくに使えないので散々だったこと、それを帰りの車でもぐちぐち言うので、僕一人で野宿した方がマシ…みたいな事を言ってしまったら、なんと置き去りにされたこと。笑っちゃうよね。


 お兄さんはしぶい顔をしている。はじめて見る顔だ。

 それから山の中を歩いた話をした。お兄さんは途中でうつむいて何かを我慢しているようだったが、僕がしゃべり終わるまで何も言わずに聞いた後、


「…君がいたキャンプ場は反対側だ。この辺りにまともに車が走れる道路はない。一番近くても…君はどれだけ…」

「そうなの?で、でも僕は大丈夫だったし」

「どこが!!」


 抑えきれず出た大きい声に、僕は少し後ずさった。

「ごめん。君に怒ってるんじゃないから…」


 お兄さんは黙ってしまい。少し気まずい時間が流れる。

 そこで僕は改めて疑問に思った事があったので、今度はこちらから聞くことにした。


「じゃあここはどこ?お兄さんはなんで来たの?」


 当然聞かれるだろう質問なのに、答えるのに不思議な間があった。


「…上川集落の北端からさらに山に入ると廃村がある。ここはその外れで昔の村民の水源地だろうね。帰りはざっと3時間…休憩入れて4時間くらいかかる事になる。歩くのが厳しそうなら、先にオレが降りてもっと大人を呼んでくるけど」

「へいき。一人で残る方がやだよ」

「そうか…。なるべく背負ってやるから頑張ろう」


 スタートとゴールの地点がはっきりした事で、あともうひとふんばり頑張れる力が湧いてきた。きっと明日は問題なく歩けるだろう。


 お兄さんは話を切り上げた雰囲気を出しているが、二番目の質問には答えていない。もっと答えがはっきりする聞き方をしたっていい。例えば『山奥でキャンプしてたの?明日月曜なのに』とか。『キャンプ中に喉乾いたの?』とか。それはある程度は納得できる理由だが、どれも違う気がした。

 なぜだろう、僕を助けてくれた時の涙と微笑みが違うと言っているように感じた。あれはまるで僕を探しに来て、見つけられたから喜んだような…流石に考えすぎだろうか。


「お兄さんの家は近いの?」

「上川の外れ。山を降りて一番最初の家だから、うちから警察に電話しよう」

「うん、明日はがんばる」

「夜明けまでまだある。眠れるなら眠った方がいい」

「そうする…おやすみ、お兄さん」

「おやすみ」


 お兄さんは話せる事はすぐに返してくれる。話せない事を問い直してもきっと困らせるか、嘘で誤魔化されるんだろう。でも今のところ僕にはさっきの答えで十分だった。どこから来たのか、どこへ行くのかが分かれば。




 次の目覚めは待ちわびた陽の光と共にあった。僕は枕元に畳まれていた服を着ながら、夜はよく見えなかった周囲を見回した。この小屋はやはりあの神社の中のようだ。隅に雑多に木材やら何やら積まれているが、神社の中にありそうな像とか、珍しいものは見当たらなかった。


「おはよう。いい天気になってよかったよ」


 お兄さんは外にいるようだ。

 僕も外へ向かいながら、気になった事を聞いた。


「おはよう。ねぇ、神社の中って入って大丈夫?」

「ん、あぁ。そこは元々中には何もない。

神様はこっちにいるからだろうね」


 外へ出た僕を爽やかな四月の春風が迎えた。

 晴れ渡る青空から降り注ぐ陽光は、若々しく芽吹く森の命に力を与えている。鮮やかな緑に包まれたその泉は、水底まではっきり見える透明な水をたたえている。たゆたう水面のきらめきは僕が知ってるどんな宝石よりも眩しい。


 言葉が出ない感動とはこういう事なのか。僕たちはきっと同じ気持ちで黙って、風が揺らす木々のさざめき、鳥たちのさえずりを聞いていた。

 ここは僕が知っている景色の中で最も美しく、神様の住処に違いない場所だった。お兄さんが来た理由が分かる。こんなに素敵なとっておきの場所なら、遠くても行きたい時があって当然だ。


 泉を見つめるお兄さんの横顔は穏やかで、明るいところで見ると、声や昨日の雰囲気よりずっと年が近そうだった。高校生くらいだろうか。

 ふと僕の視線に気がつき目が合う。その瞳はこの泉を思わせる澄んだ輝きを秘めていた。


「…綺麗なところだったんだね」

「あぁ、オレが知ってる一番いい所だ」


 僕が昨日散々怖がった所の本当の姿を、二人でもうしばらく眺めたのだった。

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