カワウソ

 この部屋にも新しい年が来た。眼下に広がる光の海も、少ししずまっているように見える。あの世界から私が消えても時は変わらずに流れ、私のことなど誰も覚えていないだろう。私が生きる場所は、白夜のようなこの部屋しかない。

 正月三日は休息日と言われ、何をするでもなくリビングでテレビを見ている。ハウスキーパーの木村さんが豪華なおせち料理を用意したので 食べるものには困らない。もちろん不味くはないのだが、やはり思い出すのは故郷の正月だった。

 実家の料亭では師走に入ると、おせちの準備に入り、大晦日おおみそかには百個以上の三段重を配達した。木々の枝を支える「雪吊り」の下を、その料理は運ばれていった。まさに書入れ時だった。北陸のおせち料理には寒鰤かんぶり、のどぐろ、かにのような高級食材がふんだんに使われ、見ているだけで心が弾んだ。その店も活気のあった板場も今は無い。

(お父さん、お母さん)

 今は亡き、父母の顔を思い浮かべ窓の外を見ると、冬の澄み渡った空が茜色に染まっていた。イルミネーションが少ない分、その色は普段より生々しく見えた。赤く、温かい血が流れていたあの世界。それが今は遠く感じられていた。


 三が日も過ぎ、ウサギのビジネスである株取引きも始まった。私とウサギの生活サイクルも、元に戻った。

 朝、私の「業務ぎょうむ」が終わった後は、自室で休息し、体力の回復にてる。器具を使って体を動かすも自由だ。その夜は一人で眠る。次の日には、昼間はエステシャンや美容師などが訪れることがある。

 エステシャンの施術せじゅつで心身共にいやされ、うっとりしていると、その夜に与えられる甘美かんびな感覚を想像し、どこかで期待している自分がいる。

 食べるものも着るものも十分に与えられ、時間もたっぷりある。スマホは没収ぼっしゅうされ外部に連絡はできないが、テレビや動画を見ることは許されていた。ウサギに頼めば、本や雑誌も買ってもらえた。苦痛を与えられることもない。

 何不自由無なにふじゆうないように見えても、決定的に欠如しているものがあった。それは「愛情」だった。

 ウサギは私を愛しているわけではなく、私もまたウサギを愛してはいなかった。

 愛は無いが、憎しみも無い。希望は無いが、絶望も無い。

 与えられるのは生存するには快適な環境と、甘美かんびな快楽のみ。

 人と人とが愛し合えば、そこには様々な感情や思いが生まれる。それは甘いだけでなく、必ずにがさや切なさが伴うものだ。陰があるからこそ、光はより輝くのだ。

 それでも、ここに来るまでに実感した「生存の危機」を思えば、今の境遇きょうぐうに不満を言う気にはならなかった。


 そんな時、あの女がやって来た。

「久しぶり。元気そうね」

 その残忍さを、完璧かんぺき美貌びぼうで包み込んだ女。

「そんなに怖い顔しないでよ。いい客を付けてあげたじゃない」

 そう、それはそのとおり。だが、この女だけはどうしても……

「何の用だ、れい

 ウサギが自分の部屋から姿を現した。

「冷たい言い方ね」

「今のところ、お前に用は無い」

「そんなこと言わないで、話だけでも聞いてよ。またいい子が入って来たのよ」

 その言葉にどきっとして、背筋に冷たいものが走った。

「今はアリスと契約中だ」

「あら、特別に返品に応じるわよ」

 私はすがるようにウサギを見た。

「悪いが、その気はない」

「いい子なんだけどなあ。きっとあなた好みよ」

「よせ、アリスがおびえている」

 あの収容施設キャンプに戻るなんて。考えただけでも気が遠くなる。

「ねえ、アリスちゃん。あなたにとってもいい話かもよ。他の客のところに行けば、もっと早く自由になれる可能性もあるわ」

「客が付かなければ、臓器市場ぞうきいちば行きかも知れんだろ?それに二度目となれば、どうしても安値になる」

「相変わらず、慈悲じひ深いのね。少しはこっちのビジネスに協力してよ」

 れいねたように言う

「断る。いいから、もう帰れ」

「分かったわよ」

 れいは不満げな顔をして去って行った。

「どうした、アリス。顔色が悪いぞ」

 全身に嫌な汗をかいていた。

「ごめんなさい。またあそこに返されると思ったら、気分が悪くなって」

「私は、約束は守る。アリスにとっては悪魔のような存在かもしれないが」

「生きていられれば、今は我慢するしかありません」


 ウサギの言葉に少し安心したが、玲の非情な言葉から受けた衝撃は大きかった。

れいというひとは、どうしてあんなむごいことを言えるんでしょう?」

「あれはカワウソのような女なんだ」

「カワウソ、ですか?」

「そう。でも、カワウソっていうのは、ある意味人間に一番近い動物なのかも知れない」

 あれ、どこかで聞いたかもしれない。記憶の糸を辿るが、はっきり思い出せない。

「なぜですか?」

「カワウソは捕らえた魚をすぐに食べないで川岸に並べたりする。それがまるで、神に獲物えものを捧げる祭りのようだと言われてきた。ただ、そんなに獲物えものをとっても、ろくに食べないで捨てたりするんだ。彼らにとって、狩りは多分に娯楽だという説もある。普通、野生の動物は、ちょっと見ると残酷な狩りもするが、それ自体を楽しんだりはしない。あくまで、生存のための必死な営みだ」

「そうなんですか……」

「でも、人間とカワウソだけは、他の動物とは違う。獲物えものを追い詰め、死から逃れようと藻掻もがくする様子を楽しむんだ。娯楽のために他者を殺すのは人間とカワウソだけだ」

「……」

れいは、別に金に困っているわけではない。こんなことをしなくても十分に生きていける。どこにも行き場所の無くなった、訳ありの女を捕獲ほかくし、絶望の淵に追い込んで、苦悶くもんさせることが楽しくて仕方ないんだ」

「ひどい……」

「さっきも、ビジネスじゃなく、アリスのおびえた顔を見たくて来たんだ。今頃ニンマリ笑っているだろう」

「……」

「アリスは釣りをしたことがあるか?」

「はい、北陸にいた頃に一度連れて行ってもらいました」

「魚が餌に食いつき、次の瞬間、それがわなであったと気付く。その驚きと恐怖はどれほどのものだろう。彼らにとっての死の世界へどんどんかれていく。死から逃れようと絶望的な抵抗をする感触を、人間は楽しんでいるんだ」

 蒼ざめるアリスにウサギは語り続ける。

「つまり程度の差はあっても、人間の中にはサディズムが潜んでいるものなのさ。人間とはそういうものなんだ。レイも私も、そしてアリスも」

 ここに来るまで、そんなこと考えたこともなかった。

「ただ人間とカワウソが違うのは、人間には超えてはいけない最終ラインがある。れいは、そこが破綻はたんしかけているんだ」


「アリス。君を抱いても最後まではしない、その本当の理由だが」

「それが違法だから、じゃないんですか?」

 ウサギはふっと笑った。

「イザナミの話は知っているか?」

「……いえ」

「日本という国ができた時、イザナミという女神がいた。彼女は出産のとき死んでしまったが、夫のイザナギという神が、死後の世界まで妻を連れ戻しに行った。だが妻はもう、死後の世界のものを食べていたので、生前の世界には戻れなくなってしまった」

「……」

「アリスも同じだ。それを味わってしまったら、たぶん元の生活には戻れない。君は契約が終わったら、アリスではなくなる。もといた世界に帰って行くんだ。それを思えば……」

「私は、帰れるんでしょうか?父も母も死んでしまい、彼にも捨てられ、住んでいた部屋も大学生活も失ってしまいました。ここを出てから、どうやって生きて行けばいいのか……」

「それは私にも答えられない。だが、アリスが出て行くことだけは確かだ」

「いっそ、ずっとここに居られたらいいのに」

「心にもないことを言うな」

「ちょっとだけ、本気です」

「その時が来たらまた考えればいい。今はとにかく生き抜き、借金を清算しろ」


 テレビニュースでは、各地の成人式の様子を伝えていた。本当だったら私も故郷の成人式に出席するはずだった。この日のために両親が用意してくれた加賀友禅の振袖を着るのが楽しみだった。しかし、それは叶わなくなった。

 リビングで物音がする。人の声も聞こえる。ウサギに呼ばれてリビングへ行くと、その光景に息を呑んだ。私が着るはずだった振袖が、そこにあるではないか。

「どうして」

 声も無く立ち尽くす。

「アリスの実家の財産はすべて処分された。だが、この振袖だけは私が手を回して買い取った。君が着たところを見たくてな」

 何も言えず、ただ涙があふれた。

「アリスの親が、娘のためにあつらえたものだ。たった一つ遺った財産だ。たとえこんなむごい境遇でも、やっぱり着ておくほうがいいと思うぞ。わずかでも供養になるかも知れない」

 そこには着付けと髪のセットをする美容師が待っていた。

「ただ、残念だが写真は残せない。アリスが外の世界に出た時に支障になるかもしれないからな」


 ウサギさん、あなたはいったい何者なのですか?残忍なのですか?慈愛じあいに満ちているのですか?


 その日、私が身にまとった振袖は、この白い部屋の中で夢のように美しかった。亡き両親の、娘を思う心情が花開いたようだった。鏡に映った自分の姿に、涙が止まらなかった。


 お父さん、お母さん、成人式の晴着姿、見えましたか?


「アリスが出て行く時、持って行けばいい。外に出たら改めて写真を撮るんだな」

 











 


 





 

 


 

 

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