最後の晩餐

こたみか

最後の晩餐

 健康そのもので何十年も生きてきた私が、会社の定期検診で初めて再検査の通知を貰った。

 長いこと連れ添ってきた妻と、来年の春には家を出ることになっている娘は、心配そうに私の手元の通知書を覗き込んだ。

「お父さん、どこが悪かったの?」

 通知書を見て、娘が呟く。それもそのはずで、通知書には何の再検査かということは書かれておらず、ただ、明日もう一度病院に行けとだけ書いてあった。

「なんか、こわいわねぇ」

 妻の声が少し緊張している。

「大丈夫だろう。大したことないから書いてないんじゃないか? メタボの注意とか、そんな程度かもしれん」

 実際、私も不安ではあったが、特に自分で不健康な生活をしてきたわけでもないし、まさか不治の病の告知だとかそんなことはないだろうと思っていた。妻と娘も、私の生活はよくわかっているので、それもそうね、と笑って頷いた。


 翌日、ゆっくり昼食を済ませて、指定通りの時間に病院へ向かった。検診担当のいつもの看護師がこちらへどうぞと案内してくれたのは、いつもよりひとつ奥の区画にある診察室。静かで人の姿も少ない。

「先生、入りますよ」

 看護師が扉を開けると、検診の担当医である鴨下先生がいた。私が中へ入ると、看護師はすぐに戻ってしまい、先生とふたり、向かい合わせになる。

 一通り挨拶を済ませると、鴨下先生の表情が変わった。

「今回の通知なんですが、詳細がなく不安にさせてしまったでしょう。申し訳ありません」

 別に、命にかかわる大きな病気が見つかったとか、そういうわけではないんで安心して下さい、そう先生は続けた。

 あぁ、よかった。これでもし、あなたの余命はあと半年です、なんて言われたらどうしようかと思っていたところだ。

「ただ、あなたの今後の人生には大きくかかわることです」

 心して聞いて下さい。

 険しい表情だ。再び、私の全身に緊張が走る。

「あなたは明日から、唐揚げしか食べられなくなります」

「は?」

 思わず、間抜けな声が出てしまった。明日から、唐揚げしか食べられなくなる? なんだ、それは。

「どういうことですか?」

「詳しくはわかりません。大変申し訳ないのですが、医学的には説明し難いのです」

 冗談を言っているようには見えない。だとしたら、真実なのだろう。

 私は、明日から唐揚げしか食べられなくなる。


 先生はその後、詳しくはわからないと言いながらも説明してくれた。明日から私は、鶏の唐揚げ以外のものは食べる気がしなくなり、更にそれ以外は体が受け付けなくなるのだという。ただ身体に害はなく、鶏の唐揚げだけで生きていける体になるらしい。


 説明を受けた私は妙に落ち着いていた。

 先生は最後に、力になれなくて申し訳ありません、と頭を下げた。

「今日は好きなものを召し上がって下さい。今夜一晩経ったら、あなたはもう唐揚げしか食べられなくなってしまいますから」

 そう言って先生はもう一度頭を下げ、それで話は終わり、私は病院を出た。


 この後は休みになっている。今日はこのまま家に帰り、物置からファンヒーターを出す予定だ。娘と妻は家で心配しながら私からの連絡を待っているだろう。

 家に電話をかけると、三回のコール音の後、娘が出た。

「お父さん、どうだった? 何ともないって?」

 電話越しに聞くと、声が妻によく似てきたなぁと改めて感じる。

「大丈夫だったよ。お母さんはいるか?」

「よかったー。待っててね、呼んでくる」

 受話器の向こうから、お母さーん、と呼ぶ声がする。恐らく妻は、洗濯でもしているのだろう。

「もしもし?大丈夫なのね?よかったー」

 安堵した声に、明日からのことを伝えにくくなる。

 私は一呼吸置いてから、

「明日から、唐揚げしか食べられなくなると言われたよ」

と、伝えた。

 妻がどんな反応をしたのかはよくわからなかったが、私は先生に言われたことを説明した。妻は黙って聞いていたが、一通り話し終えると一言呟いた。

「今夜は何がいいかしら?」

 私が昼休みに電話すると、いつも聞いてくる言葉だった。


「そうだな、せっかくだから一番得意な手料理がいいなぁ」

 私は妻が初めて作ってくれた手料理のことを思い出して言った。昔から、得意料理は変わっていない。

「え?」

「昔、初めて作ってくれた手料理だよ。覚えてるだろう?」

 私が言うと、妻は戸惑いを見せた。

「もちろん覚えてるわよ。でも、あなた、それじゃあ」

「いいんだよ。最後に食べたいんだ」

 しばらく間があってから、妻はわかった、と言った。

「今からたくさんお買い物してくるわね」

 苦笑する妻の顔が浮かんだ。


 電話を切ると、そのまま家路につく。よく通った洋食屋や、残業明けに世話になった定食屋、サンドイッチの美味しい喫茶店。帰り道にあるどの店のどのメニューもよく覚えている。

 明日からは食べられなくなってしまう。それでも私は真っ直ぐに家へ向かった。


 家に帰ると、予定通り物置をあさってファンヒーターを出した。妻はキッチンでせっせと夕飯を作っていて、娘も珍しく手伝っているようだ。ファンヒーターは埃で調子が悪く、夕飯の時間になるまで庭でひとり掃除をしていた。


「できたよ、お父さん」

 暗くなり始めた頃、娘が呼びにきた。ちょうどファンヒーターの掃除も終わり、ついでに居間に運び込む。

 手を洗って居間に戻ると、夕飯のメインのおかずがテーブルの真ん中にどっさりと盛られていた。

 それは、妻が初めて作ってくれた手料理。

 妻の一番の得意料理。


 鶏の唐揚げ。


 明日からはきっと、唐揚げが美味しいとは感じなくなってしまうだろう。それしか食べられなくて、いつか味覚も衰えてしまう。そうなる前に、最後にこの唐揚げが食べたかった。


「こっちのちょっと形が悪くて揚げすぎちゃったのは、あたしが作ったの」

 娘が照れ臭そうに指す先には、なるほど、大きさも揚がり具合もバラバラな唐揚げがいくつかあった。

「初めてだな、お前が作ってくれるのは」

「昔バレンタインにケーキあげたじゃん」

 娘が口を尖らせる。あぁ、そういえばそうだったなと思い出す。あれも美味しかったなぁ。


 明日から私は、唐揚げしか食べられなくなる。


 最後の最後にひとつだけ口にできるとしたら、あなただったら何を選びますか。

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