第16話 お酒は二十歳になってから

「おかえりお兄ちゃん。莉奈にする? 莉奈とする? それとも莉奈でする?」


 浮ついた気持ちで玄関のドアを開けるとミニスカにエプロン姿といった装いの妹にそんな頭の悪い質問を聞かれた。


「新婚ごっこがやりたいならせめて選択肢にご飯と風呂を用意してから出直してこい」


 朝の別れ際にこの部屋の合鍵スペアキーを渡したせいか妹は御満悦な様子だった。


「やだお兄ちゃん。新婚ごっことか、妄想が捗りすぎて莉奈我慢できなくなっちゃうよ」

「何を妄想してるのか知らんけど俺はとりあえず着替えるからお前は向こうに行ってろ」

「ちなみに妄想シチュは台所プレイだよ」

「聞いてねえよ」


 海水に濡れた後の身体はなんだかベタベタして気持ちが悪かった。なんなら妹の態度もキモい。とりあえず今すぐ風呂に入りたい。


「んん? お兄ちゃん何か生臭くない?」

「せめて磯臭いって言え。海に落ちたんだよ」

「何でまた海なんかに?」

「ちょっとな」

「ふーん」


 俺に近付いて犬みたいにクンクンと鼻を鳴らす妹。


「……あれ、他の女の匂いがする」

「本当に匂いで分かったのなら恐怖しかねーわ」

「でも誰かとは一緒だったんでしょ?」

「誰でもいいだろ。つーか早くあっちに行け」

「はーい」


 部屋の奥に向かう妹の背中を見送ってバスルームの前にある洗濯機のフタを開ける。


 そこにはまだ洗っていない妹の服が乱雑にぶち込まれていた。しかもカラフルな下着だけやたら目立つ位置に置いてある。


 ジーっ。


 舐め回す様な視線を肌で感じ気配のする方に視線を向けると……そこには目を細めて俺の動向を見守る妹の姿があった。


「……ムラムラした?」

「下着は見えない様に工夫しろ」

「はーい」


 返事はするものの妹はその場から一ミリも動こうとはしなかった。


「つーか、何でそこにいる?」

「気にしないで。莉奈はお兄ちゃんの生着替えを見てるだけだから」

「年頃の女子高生が覗きなんてすんなや」

「お兄ちゃんの裸、すごくムラムラする」

「クソうぜえ」


 俺はとにかく一人になって考える時間が欲しかった。


 これから変化する小虎との関係とか。色々と考えた上で改めて実感したかった。


 小虎と恋仲になれる可能性とその先の未来をもう一度。


 なのに──


「お兄ちゃん。勝負しよ?」


 妹がそれを許してくれない。


「後にしてくれ。俺は今から風呂に入る」

「じゃあ、莉奈も一緒に入る」

「ふざけるな。昨日言ったことを忘れるんじゃねーよ」

「お兄ちゃんこそ。莉奈との約束ちゃんと守ってよ」

「…………」

「…………」


 ああ言えばこう言う。これじゃガキの口喧嘩と何も変わらない。


「風呂に入って来たら、どうなるか分かってるよな?」

「…………」


 無言で俺を見詰める妹の顔を一瞥いちべつしてバスルームの扉を開ける。


「……大丈夫だよ。お兄ちゃんは何があっても莉奈のことは絶対に無視できないから」


 扉を閉める時に聞こえた妹の不穏な言葉に妙な寒気を感じた。


 また何かするつもりなのか?

 昨日みたいなことがあったらいよいよ本気で妹を追い出すことを考えないといけない。


 いや、俺が曖昧な態度を取っているから逆に妹も意固地になっているのか?


 それかいっそ完全に無視すれば良いんじゃないのか?


 俺が下手に反応するから妹も過激な行動に出ているのかもしれない。半分面白がって。


 とりあえず何があっても妹を風呂には入れない。たとえ何かの勝負に負けたとしても。


「お兄ちゃん。もうお風呂には入った?」


 曇りガラスになっているバスルームの扉。その扉に妹のシルエットがぼんやりと浮かび上がっていた。


「絶対に入って来くなよ」


 ネタ振りではなく明確な拒絶の意思を妹に伝える。入って来た時は俺も強引な手段に出るつもりだった。


「大丈夫だよ中には入らないから」


 しかし、俺の予想に反して妹は扉の前に立つだけでそれ以上は何もしてこなかった。


 流石に無茶なことはしないか。


「けど、お兄ちゃんが出てくるまで退屈だからお酒でも飲んで待ってるね」


 は?

 アイツ今なんて言った?


「へー。このお酒ストロング○ロって名前なんだ。何か強そう」


 それは小虎がいつも愛飲しているアルコール度数が高い缶チューハイだ。しかも買うのはいつもロング缶の方。


 そういえば小虎の置き土産に缶チューハイが何本か入っていたような……いや待て。


「ねーねーお兄ちゃん。アルコール度数9%って飲むとどれくらい酔っ払うの? 莉奈お酒飲んだことないからよく分かんないよ」


 本気で飲むつもりなのか?

 いや、ハッタリに決まっている。流石にアイツでも物事の分別くらいは──


 プシュ、と。炭酸の抜ける音が扉の向こうから聞こえてきた。


 妹のシルエットが何かを持って上を向いた。


「うぇ、にっが。レモンの味全然しないじゃん。何これ全然美味しくないよお兄ちゃん」


 昨日の今日だからハッタリじゃない可能性の方が高い。


「お兄ちゃん。勝負の内容を説明するね。今回は我慢くらべの形式で勝負するから」


 俺の気も知らないで妹はまた理不尽な勝負を仕掛けてきた。


「莉奈がお酒で潰れるのが先かお兄ちゃんがお風呂でのぼせるのが先か。先にギブアップした方が負けだから」


 ルールの上では圧倒的に俺が有利。だけど、俺の勝利は妹の非行を見逃すことに繋がる。


 出れば妹の思い通り、出て止めなければ兄失格。


 どちらを選択しても悪い結果に繋がるのは明白だった。


「じゃあ、勝負スタート」


 妹の一方的な開戦の合図に俺は行動の選択に悩んでいた。


 もしかしたらブラフの可能性もある。そのわずかな可能性を突ければ不正行為を理由に妹を糾弾出来る。


「んー。お酒だけだと何かしんどいから『オカズ』になるやつないかなー」


 ゴソゴソとわざとらしく物音をたてる妹。直に目視で様子をうかがえないから飲酒の認否も今の段階では定かではない。


「おっ、これにしよ。お兄ちゃんが着てた服とパンツ。ちょっと生臭いけど莉奈的にはこれはこれでアリかな」


 酒のあてを探していたはずの妹は何故か俺の衣類に目を付けていた。


「くんくん。ふぁ……お兄ちゃんの匂いしゅごい。莉奈なんだかお酒のせいで身体まで熱くなってきた」


 オカズってそっちかい!


 無視を決めるつもりだった俺は心の中でそうツッコミを入れてしまった。


 というか何だこの勝負は? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。


 そうか、分かった。俺がいちいちかまうから、反応するから妹も調子に乗るんだよな。

 無視を続ければ飽きてそのうち止めるだろ。

 無視無視、スルーして後で普通に出て来て「お前何一人で盛り上がってるの?」って馬鹿にして笑えばいいんだ。


 俺は大人だから妹の思い通りになんてならないからな!


「……んにぁ♡」


 変な声。甘ったるい様な艶っぽい様な。


 それが気になってガラス張りの扉を注視すると妹のシルエットが床に座り込んで大股を開いている様に見えた。


「んぁ………らめぇ、気持ちよくて指止まらない。お兄ちゃん、莉奈の恥ずかしい音ちゃんと聞いてくれてる?」


 くちゅくちゅくちゅ。水っ気のある粘っこい感じの音。それが妙に風呂場の中に響いてきた。


「お兄ちゃん好き、好き好き、お兄ちゃん大好き!」


 よく見えないから余計に想像を掻き立てられる。


「イク、イクイク、イっちゃう〜」


 妹は扉の向こうで何をしているのだろう。

 気になって。気になって仕方が無くて。


 ガチャリ。


「はい、莉奈の勝ち。お兄ちゃんってば何を想像してたのかなー?」


 扉を開けるとそこには挽肉の入ったボールを片手に持ち勝ち誇った様子の妹の姿があった。


「…………」


 騙されたっ。

 畜生、俺は一体、何と戦っていたんだ!


「お前、何してる?」

「夜ご飯のハンバーグ作ってた」

「いや、そうじゃなくて……」

「ところでお兄ちゃん」

「はい」

「……その元気なフランクフルトを隠さないと莉奈も流石に反応に困るというか、なんていうか……」


 赤面している妹はフッと目を伏せた。

 フランクフルト? そんなの買った記憶はないんだが──


「お兄ちゃんのおっきしたおち○ちんって間近で見ると結構グロいね……」


 それは俺が再び敗北を喫した瞬間であり同時に一生消えない傷跡のような醜態を晒した瞬間だった。


「見ないでエッチ!」

「それはお兄ちゃんが言っても萌えないと思うよ?」

「つーか誰得だよこの勝負。マジで意味分からん」

「莉奈は得したけどね。お兄ちゃんのお──」

「とりあえず風呂上がるまで大人しくしてろ。いや、してて下さいお願いします」

「はーい。ハンバーグ出来るまでには上がってね」

「善処はする」

「ところでお兄ちゃん」

「今度は何だ?」

「莉奈を遠ざけても何も変わらないからね?」

「……ああ、何か悪かった」


 風呂を上がると食卓の上にはハート形のハンバーグと飲み掛けの缶チューハイがあった。


「お前、これマジで飲んだのか?」

「うん。不味いから残りはお兄ちゃんにあげる」

「そうか、俺も強い方じゃないからあんまり飲めないんだけどな」

「お酒飲んだ事は怒らないの?」

「いや、もう何か色々と疲れた」

「そっか。じゃあ今夜はぐっすり寝れるね」


 ペロリ、と。妹が食事中に唇を舐める仕草をしたのはきっと口にハンバーグのソースが付いていたからなのだろう。なんつーか、もう色々と考えるのが面倒臭い。


 食事の合間に残った缶チューハイを飲むと倦怠感けんたいかんに支配された身体が余計にだるく感じた。


「やった。間接キス成功」

「すまん。グラスか何か貸してくれ」

「ブブー。洗い物が増えるから却下」

「まぁ、いいか。今更間接キス程度で恥ずかしがる事もねーわな」

「…………っ」

「いや、お前の方が照れるんかい」


 そして。何かと精神をすり減らした俺は食事の後に猛烈な睡魔に襲われた。おそらく少量とはいえ飲酒をしたせいだろう。


 この数時間後に妹と俺が半分こにして飲んだ缶チューハイが原因でもう一波乱起きるのだが……そんな事を深く考えられるほどの精神的に余裕があるわけもなく俺はだらしなく身体を横にしてくつろいでいた。


「にゃは、にゃはははは……」


 お笑い番組を見る妹の笑いが妙にテンション高めなのはきっと漫才がツボに入ったからなのだろう。


 それにしても、やけに顔が赤いな。

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