傘や龍神

葛野鹿乃子

第1話 天門昇華

 よく人から天女の生まれ変わりに違いないといわれる。

 村人たちには妙に優しくされるし、老人たちには拝むように扱われたこともある。

 悪意がないのはわかる。むしろ畏敬の念すら感じる。それでも村人の態度には閉口する。天女だ生まれ変わりだと言われても、自分にそんな自覚も過去もない。

 よく、村の外れに行ってひとりで過ごす。

 祥姫(しょうき)というひとりの人間として過ごせる場所が、村の中には少ないからだ。

 養い親が作った白い傘を差し、ぬかるんだ地面を滑らないようにして歩く。

 この周辺の土地は、いつどこへ行っても雨が降っている。この雨は封印された龍神の力そのものらしい。吸い取った龍の力が、雨となって降り注ぐのだという。

 水滴が傘紙や枝葉を叩いた。湿った土と木の匂い、そして雨の匂いが満ちている。森のすべてを洗うように雨が降っている。

 周囲は家か木ばかりだ。村は森の中に埋もれるようにして、川に沿って家々がぽつぽつと建つ。人気はない。

 村人たちはこの時季、川を下って魚を釣りに行く。雨が多すぎるので作物を育てられないのだ。村人の生計は川に依っている。祥姫は天女に祀り上げられているから、仕事を手伝わなくてもいいとよくいわれ、川に近づいても追い払われてしまう。

 養い親は好きにしていていいと言うのだが、宙ぶらりんのような感覚がして落ち着かない。

 何かをしたくて無理に村の仕事を手伝うこともあるが、人の中にいたくないときは、今日のようにこっそりと村から離れることにしていた。村の外れに向かう。

 土に、葉に、雨水が染み込む音さえ聞こえそうだ。枝葉は吸い尽くせない緑色の雨粒を滴らせ、ひとり歩く祥姫の傘が雨粒をぱたぱたと受ける。このままどこまでも歩いて、ひとり雨に閉ざされた世界にずっと浸っていたくなる。

 軽い足取りで村を外れて森の方へ分け入っていく。裸足に下駄をつっかけただけの足が水溜まりを思いきり踏んで、水が跳ねた。足が下駄ごと泥水を被る。祥姫を村に繋ぎ止める足を洗うようで、今はこの感触すら心地よい。

 森の中に一軒の小さな庵があった。こんな外れに家があっただろうか。

 家の傍には濃い桃色の花がたくさん咲いている。

 誰の家だろうと眺めていると、中から紫色の傘を差して人が出てきた。白い着物姿だ。顔は傘に隠れて見えなかった。その人は傘を差したまま、庭先の花の様子を窺っているらしい。

 ふと、その人は傘紙を上げた。水のような淡い色の瞳と目が合う。

 長い黒髪に切れ長の目の男が、花の向こうに立っている。知らない顔だった。

「確か、祥姫といったか」

 男は、低いがよく通る声を発した。

「何で、わたしの名前……」

「村の連中が騒いでいたじゃないか。天女の生まれ変わりだとか何とか」

 祥姫はつい俯く。どこへ行っても天女の伝説を通して見られる。誰も、目の前にいる祥姫を見てくれない。雨が祥姫の頭上の傘を叩く。

「まあ、馬鹿馬鹿しい話だ」

 祥姫は頭を上げた。男は口の端を笑ませた。

「何だ、変な顔をして。だってそうじゃないか。天女はあの龍退治の後、天へ帰ったのだろう? その天女がどうやって、地上で生まれ変わるっていうんだ。また下天したとでもいうのか」

 男はそう説いた。捲し立てるような勢いだが、男の声色が沈着なためか整然と理を説かれたように思えた。この人は、村がこぞって信仰する天女や伝説とは一線を隔して暮らしているらしい。

 祥姫は男に近づいた。花を挟んで、男と向かい合う。

「森の中に、天門があるのは知ってる?」

「天界に通じているとかいわれている門だったな」

 祥姫は頷いた。

「わたしは、幼い頃にあそこを通ってやってきたんだって」

 決して開くことのない、石造りの大きな門。門の前後にはただ森があるだけで、遠くから見るとただの古い石の壁が立っているように見える。それが天界に通じていると村では信じられている門で、伝説の天女と付人はその門から現れ、村を苦しめる悪龍を討ったといわれている。

 開かないはずの門が開いて、祥姫はその中から光とともに現れたという。

 そのときのことを祥姫は覚えていない。目を覚ますと村人たちが「あなたは天女の生まれ変わりだ」と言って祥姫を拝んでいた。

 祥姫は、名前以外は何も思い出せなかった。どこから来たのか、どうやって門を通ったのかも、それ以前のことを何ひとつ思い出せなかった。七つくらいのときのことだ。以来、祥姫は養い親に引き取られて我が子のように育てられてきた。

 祥姫は村の中でずっとひとりだった。どこへ行く当てもなく、帰る場所も知らず、祥姫はここで天女の生まれ変わりとして生きることしかできないのだろうか。祥姫は祥姫という人間でしかないというのに。

「そうか、天門から……」

 男は祥姫が天女の生まれ変わりといわれていることに納得がいったように何度も頷いた。

「あなたは、それでもわたしを天女の生まれ変わりだと信じない?」

「私の名は翠(すい)だ」

「翠」

 言葉にした途端、何だかとても懐かしい気がした。発した音の余韻が胸にじんわり温かく広がるようだった。

「さっきの問いだが、私は信じないよ。お前が天女の生まれ変わりなどと」

「どうして? どこで生まれて、何をしてきたのかも自分ではわからないし。何で門の傍で倒れていたのかも、誰もわからないのに」

 翠は祥姫を見て目を細め笑った。

「私にはひとつだけ知っていることがある。あそこは天界へ通じる門などではない。あの門は望む者を過去へ誘うものだ。ただし、人生で一度きりしか使えないらしいがな」

 祥姫は翠の言葉を反芻した。それは、望みさえすれば過去に戻れると、そういう門だという意味なのか。そう問うと、翠はそうだと答えた。

 信じられない。悪龍伝説でさえ半信半疑だというのに、そのうえ過去に戻ることができる門があるなんて。

「お前は何かがあって、過去へ戻ってきたのかもしれないな」

 まあ私のようにただの行き倒れかもしれない、と翠は愉快そうに笑った。

 ようやく祥姫は合点した。行き倒れでこの村の生まれではなかったから、伝説や信仰と一線を隔しているように感じたのだ。この村の信奉は外から来た者には異質に映るのかもしれない。

「ねえ、翠」

「何だ」

「またここに遊びに来てもいい?」

「構わんが、こんな村外れまでか。物理的にも心証的にも、この村と私には距離がある。そんな私と付き合いを持っていいのか?」

「わたしを祥姫として見てくれるのは、きっと翠と父だけだから」

 翠に懇願するような視線を向ける。翠はあまり悩まず、何故か寂しそうに笑った。

「好きにするといい」

 翠は目の前にある花をひとつ手折って、祥姫に差し出してくれた。

「あげよう。といっても、私の花ではないがね」

 祥姫は、受け取った花を両手で包むように持った。

「ありがとう、翠」

 手を振りながら家へと帰る。

 座敷では、父の仕事道具が散乱していた。

 その中心に座り、傘の骨組みを糸で結ぶ作業を続けていた。

「ただいま、士季(しき)」

「おかえり、祥姫」

 若々しい青年がこちらを振り返り、にっこり微笑む。穏やかな人だけれど、芯のある人だ。

 天女の生まれ変わりだと言いながらも、村人は誰も祥姫を引き取ろうとしなかった。そんな中、祥姫を引き取って育てると、村人の中で宣言したのが士季だった。

 祥姫は士季の作り途中の傘を壊さないように座敷に入って士季に飛びついた。士季は座ったまま祥姫を抱き留めてくれる。祥姫は貰った花を彼に見せた。

「ねえ、見て見て。翠っていう村はずれに住んでいる人に貰ったのよ」

「村はずれの翠?」

 士季ははっと真顔になったが、すぐに笑顔に戻った。

「知っているの、翠のこと」

「まあ、少し前に行き倒れていたって有名だったから。きれいな月季(げっき)だね」

 士季は取り繕うように言った。少し気になる態度だけれど、今は翠と出会えた喜びの方が勝っていた。思い返してみても不思議な人だった。村の信仰や村人の態度など、そうしたものに囚われずに、雲のようにゆったりと流れているような。

 またあの人に会いに行ってみよう。士季の傍以外にも、祥姫が祥姫らしくいられる場所ができたのだ。祥姫は降りしきる雨の音に耳をそばたてながら、濡れた月季の花を見下ろした。

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