ナイゼル・アッシュマンの告解

芦田直人

第1章 騎士ナイゼル・アッシュマン

第1章(その1)



 森林地方の昼なお暗い一本道が、夜になっていよいよ漆黒の闇に塗り込められるに至って、アルサスは本気でおのが判断の過ちを後悔し始めていた。

 そもそも事の最初から、気乗りのしない旅だった。今現在の自身の職務そのものがまるで気乗りのしないものであるところに、旅から旅の身の上というのも、その肩書き故にまったく楽しめるものではありはしなかった。

 それに加えて、今日現在のこの状況だ。

「まったく……どうして僕が、こんな目に……」

 一人不平をつぶやいてみたところで、誰かが助けに現れるわけでも、当面目指している宿場町が見えてくるわけでも、その方角を示すような道標が見つかるわけでもなく……ひたすら、どこへ続くかも知れぬ山道を進んでいくしかなかった。

 そもそも、本来ならば数名の従者が随伴しているはずだったのだ。なのに彼らは待ち合わせをしていた宿場町に、期日になってもいっこうに姿を現す事はなかった。そのままアルサスは宿場町に足を止め、二日待って、三日待って、四日待っていよいよ旅立たねば目的地であるワルスタットには到底期日までにたどり着けぬ、というところまで馬鹿正直にぎりぎりまで待っていたのだ。

 だが、誰も来ない。仕方なく、彼は一人で出立する事になったのである。

 とは言えそれも正しい判断とは言い難かった。元来の育ちのよさも相まってまったく旅慣れてなどいないアルサスだったから、これまでも道中の委細すべては従者たちに任せきりであった。僧侶の旅回りとあれば、従者など手配せずとも旅の商人なり何なりが進んでお役目に名乗り出てきても、本来は少しもおかしくはないはずだった。

 だがそれも……その僧侶の肩書きが、異端審問官ともなれば話は別だった。

 誰だって多少の不心得が皆無であるとは言えないし、何も好きこのんでそのような揚げ足を取られたいと思う者はいない。だからアルサスの旅はいつも違う道連れと一緒で、それも王都から渋々派遣されてくる、熱心ならざる者達ばかりだったのだ。よもやとは思うが、道連れがいやで示し合わせて逐電でもしたというのだろうか――。

 ともあれ、もしそうだとしたらそのような者を手配した者の不手際というものである。どうせ異端審問などという楽しくもない事は先延ばしにしても構わないのではないか。アルサスも律儀に刻限を守らずに、そういう次第であるからというのを言い訳にしていったん王都まで戻ってもよかったのかも知れなかった。……山道で一人、そのように今更悔やんだところで、あとの祭りではあったが。

 ワルスタットへ向かうには、広大な森林地帯を抜けて行かなければならない。峻険な細い山道ばかりの続く、それなりの難所であった。アルサスのように僧学校を出たばかりの貴族の九男坊という、いかにも世慣れしていない若僧が一人歩きするにはいささか無謀とも言えたかも知れない。こうしている今現在も、日が落ちる前には次の宿場町にたどり着けるはずだ、という目算が見事に外れて、街道筋の暗い山道をうろうろとする羽目に陥っている真っ最中であった。

 こんな僻地でも、街道を外れたところに民家が点在しているという話であったから、森というよりは人の手が入って整備された林道のたぐいではあったのだろう。こういうところまで狼などの獣のたぐいが足を伸ばすことはそう頻繁にあることではない……と話だけは聞き及んでいたが、暗がりに何が潜んでいるものやら、分かったものではなかった。

 現に、先ほどから何やら見張られているような、じっと観察されているような、そんな嫌な気配をアルサスはずっと感じ取っていたのだった。

 別段どのような根拠があるわけではない。ただただ、そのように感じるというだけのことだった。どこに何がどのように潜んでいるものか、言い当てる事も難しく、声をあげてわっと走り去っていけばそれで危機を抜けられるようにも思えたし、そうではないようにも思えた。知らないうちにあとをつけられて、走り疲れて立ち止まったところを襲われないと、どうして言い切れる?

 懐には、一応自衛のための刃物も忍ばせてある。僧職にある身でそれをむやみに振り回すのもどうかとは思うが、どのみち家督を継げるはずもない九男坊が家名の威光にすがってどうにか得られた食い扶持なのだ。もとより信心深さに疑いの余地があるのは否めない。

 異端審問官などと仰々しい役職ではあるが、別に自身が何をするでもなく、実際の審問を執り行うのは大半の場合はその土地土地の僧職の者達であった。その異端審問の委細を監督し承認するという事で、彼の仕事は実質的にはそれらをただぼんやりと見ているだけだったのだ。

 時には神への忠誠の言葉を無理矢理に引き出すため、あるいは悪魔への関与を白状させるために、あの手この手で尋問し痛めつける事もままあった。そういったむごたらしい事が神に仕える身であっても許されるのであれば、けもの相手におのが身を守る事くらい、どれほどのものだというのだろうか。

 まあそうは言っても、アルサス自身そのようなものをうまく振りかざして身を守れるような剣技を体得しているわけでもない。そういった心得の乏しさが、ことさらに無用な不安を呼び起こすのだった。

 ふいに、がさりと耳障りに鳴った葉擦れの音に、びくりとして思わず足を止めてしまった。

 ゆっくりと、木々の向こう側を振り返ってみる。夜空には満月が煌々と照っていたが、森の枝葉がそれを覆い隠し、周囲はまったくの暗がりの中にあった。

 そのくらやみの中に――アルサスはふと、何か動くものの影をみたような気がした。

 確実に、はっきりとそこに何かいたというのを見てとったわけではなかったが……不確かであるがゆえに、不安は無用に高まっていく。そんな不安に突き動かされるままに、アルサスは小走りに駆け出していた。

 この辺りの山道も一応は主要な街道筋として整備の手が入っていたはずだが、遠い昔に敷き詰められた石畳は年月の経つうちにそこかしこにほころびや傷みが目立ってきており、先を急ぐアルサスも幾度となく足を取られそうになる。そんなアルサスの不安をことさらにあおり立てるのは、なにやら不自然な葉擦れの音が、彼の歩足にあわせるかのように、さっきから一緒に付いてくるという事実だった。

 そこへ来て、アルサスの内心の不安は確実なものに変わった。

 ――間違いない。何者かが自分のあとをつけてきている!

 外套の下で、懐刀をぎゅっと握りしめる。いざという時にちゃんと扱える自信はまるでなかったが、今のところ迫る身の危険に抗するにはそれにすがるしかなかった。

 アルサスは意を決して――もしくは思いあまって、急にその場で足を止め、葉擦れの音のする方角をはっと振り返った。外套の内に隠した懐刀を、いつでも抜き放てるようにしつつ。

 アルサスが振り返ると、葉擦れの音もすぐ間近で、ピタリと止んだ。

 相変わらずの闇の中、何も見えはしなかったがそこに何かいる事だけは確かだった。その正体をどうにか見極めようと、アルサスは懸命に闇に向かって目をこらす。

 やがて、そんな闇に彼の目が慣れてきたのか――。

 それとも、追っ手が自ら、彼に対して正体を垣間見せようとしたのか。

 薄ぼんやりとではあったが、木々の向こう側に、こちらをじっと見つめている二つの目があるのに、アルサスは気付いた。

「――!」

 彼は思わず、はっと息を呑んだ。

 そんな彼をからかいでもするかのように、次の瞬間、葉擦れの音が瞬間的にアルサスの眼前を左から右へと横切っていく。彼が慌ててきょろきょろと振り返ると、葉擦れの音はそのまま背後に回り込んで、彼の周りをぐるぐると何度も回りこむのだった。

 果たして自分はどのような怪異に遭遇しつつあるのか――アルサスはいてもたっても居られずに、その場から足早に駆け出した。

 時折後ろを振り返りながらも、突き動かされるままに彼は走り続けた。一刻も早く、その場から立ち去りたかった。

 そんな折だった。ふと見やった道の先に、ぼんやりと明かりがあるのが分かった。

 先ほどの怪異の続きか、風のさざめきか、遠くで木の葉のさざめきが響いてくる。明かりの場所に何が待っているか知れたものではないが、用心よりも先に、そこに居る誰かしらに助けを求める事が出来るのでは、という淡い期待の方が勝った。

 アルサスは意を決して、その明かりの方に歩み寄っていく。歩速を落として様子を窺う程度の用心はまだ彼の中にあった。

 見れば、道はその明かりの方に向かってゆっくりと下りの斜面になっている。丁度その明かりの場所が、すり鉢状に多少ひらけた場所になっているのだった。

 恐らくは街道を行く旅人の誰かが、そこで野宿でもしているらしかった。実際、見えているのはたき火の明かりで、火の側に確かに人影があった。

 駆け寄ってくるアルサスに気付いたのだろう。その人影は、火の側からすっくと立ち上がると、ゆっくりと道の先――つまりはアルサスの方を振り向いた。

 彼の方もまた、このような夜更けにいきなり現れたアルサスに、多少なりとも警戒はしていただろう。だがその立ち姿からは怯えた気配は感じ取れなかった。まっすぐ背筋を伸ばした姿勢のまま、アルサスをじっと見据えている。

 そんな彼を見返すアルサスの背後を、怪しげな葉擦れの音がざざっと横切っていくのが聞こえた。彼のあとをついてきた怪異が、すぐそこまで追いすがってきているというのか。

 目の前の旅人にその異変を告げねば、とアルサスが何事か口を開こうとしたその時だった。旅人は手にしていた杖のようなもので、がつんと力強く地面の石畳を穿った。

 その音は、意外に大きく森に響きわたった。まるでそれが合図だったかのように、アルサスにまとわりついていた怪しげな気配は、ざざっと耳障りな葉擦れの音を最後に残して、一瞬のうちにどこかへ消え去ってしまった。

 急におとずれた静けさに、アルサスは呆然としたまま斜面の途中に立ち尽くしてしまった。振り返っても、そこには何者の気配も感じられない。

 改めて、前方の旅人の方を振り返った。月明かりの下、見れば彼が手にしていたのは杖ではなく、鞘に収められた細身の刀剣であった。暗がりの中で人相ははっきりとは見て取れないが、凛とした立ち姿にどことなく気品のようなものが感じられたので、武器のたぐいを手にしているのをみても、不思議と身の危険は感じられなかった。恐らくは、旅の騎士か何かではなかろうか。

 アルサスは意を決して、言葉を投げかけた。

「……決して怪しいものではありません。僕は旅の僧侶で、アルサスと申します。よろしければ、火にあたらせては貰えませんか」

 彼のその言葉に……旅の騎士はしばし探るような目で彼を見ていたかと思うと、そのままくるりと振り返って火の方に戻っていった。

「好きにするといい。このような往来ですれ違った者同士、拒む所以があるわけでもない」

 決して歓迎している口調ではなかったが……事実ここは街道筋、地形的に多少ひらけた形状になっているとはいえ厳密には道の真ん中であるのだ。誰と誰がすれ違ってはならぬという法があるわけでもない。その言葉に甘え、アルサスは火の元へとおずおずと歩み寄っていった。

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