第5話 開戦前(2)

至高神ユーリエ地母神マイラ

その子にして最も勇敢たる戦神ヴァレス

我を勝利の女神ニアのもとへと導きたまえ

聖王カナン・ロウたる我がいさおしを照覧あれ――


『聖王記』第六章「聖戦」より



   ***



 相対する敵の軍船の帆柱にラシード=ベグの軍旗が翻るのを見据えながら、ヴェクトールはエリティア人の策謀に嵌まって引きずり込まれたこの決戦に、はらわたが煮え繰り返るような激情を抑えていた。


(こうなれば勝つしかないが……この代償はいつか必ず払わせるぞ、エリティア人どもめ)


 エリティア艦隊司令ジルバーノは、総司令官ルイの許可を得て偵察に出した船隊を利用して敵船を拿捕し、その帆柱に生皮を剥いだ敵船の艦長を磔にして、さらに目を潰した捕虜を満載にして送り返すという凶行で、敵を決戦に引き出すための挑発行動に出たのである。


 即座にジルバーノの独断専行に抗議し、ルイにその処分を進言したヴェクトールだったが、これに対するルイの返答はまったく意想外のものであった。


「――ヴェクトール殿。貴殿は我が兄である聖王の宮廷にラーマン人の蛮王が送りつけてきた手紙を知っているか?」


 まったく違う話を返され戸惑うヴェクトールに、ルイが「その写しだ」と手渡した手紙は、カラマン朝の皇帝バルムット一世が聖王シャルル七世に対して、エリティアに対する援軍の撤退を無条件で要求する内容であった。


「このような紙切れ一枚で至高神ユーリエ正義カーの体現者である聖王の兵を退けようなど、東大陸の蛮族の長ごときが増長も甚だしい」


 このときヴェクトールは自身の顔が青ざめていくのを感じた。確認するようにルイに問い質す。


「この手紙をどこから?」


「数日前に到着した本国からの連絡船が伝えてきた」


 エリティア人の謀略だと直感した。カラマン朝の皇帝がこのような手紙をシャルル七世に送り付けてきたことはヴェクトールも独自の情報網で知っていたが、こんな内容の手紙の写しを前線に送付するなど、決戦にむけて指揮官の発奮を促す目的以外にないはずである。しかしシャルル七世は決戦を避けるよう命じている。そうなればこの手紙を何かしらの方法――恐らく関係者の買収――により紛れ込ませたのは、連合艦隊を決戦に引きずり込みたいエリティア人の策謀ということになる。


「ジルバーノ殿は、敵をラヴィネ湾あなぐらから引き出してくれるだろう」


 そうエリティア人の残虐な挑発行為を肯定したルイは、自らの決意を厳かな口調で告げた。


「この挑戦、聖王の弟として受けない選択はない」


 たぎる若者の情熱が青い瞳に爛々らんらんと燃えていた。ヴェクトールは雇い主であるシャルル七世の人選を恨んだ。清濁を併せ呑んで政治に徹するにはルイは若者に過ぎたのだ。ヴェクトールは半ば諦念に脱力しながら、それでもルイの覚悟を確認するために最後の質問をした。


「聖王陛下の御下命は如何とします?」


「聖王が名誉を失えば神聖同盟も力を失う。大局を話せば兄上も納得するだろう。利己のためとはいえ幸いにエリティア人の意気は盛んだ。それにここで借りを作れば、カルファ救援の帰路にレイザン攻略の提案をされても断ることはできまい。大いに聖王陛下の名誉のために戦ってもらおうではないか」


 理想と名誉に燃えながら聖王の命令を後回しにする点については兄弟の情に期待する甘さと決戦後の希望的観測に、ヴェクトールはこの若者の都合のよさに呆れてしまった。エリティア人を利用するように言いながら、その実は利用されているに過ぎないことがわからぬ訳でもないだろうに、その都合の悪さに目を逸らした発言は、どこか自身の功名心を満たしたい欲望が感じられ、到底信用のおける発言ではなかった。


 しかしここで強硬に反対したところでルイが意地を張り、ヴェクトールを退けて逆にジルバーノを重用すれば、より自分にとって収拾不能な事態を招くだろうことは容易に想像できた。ヴェクトールは内心にほぞを噛みながら理性で反論を控え、ルイの決断を支持した。


「ヴェクトール殿!」


 船首の艦橋に立つヴェクトールの目の前に、総司令官ルイを乗せた快速船が進んできた。ルイは銀色の甲冑に身を包んで右手に至高神ユーリエの横顔の描かれた聖王の軍旗を掲げている。兵を鼓舞するための決戦前の閲兵である。


「なんのために戦うか!?」


 呼びかけられたヴェクトールは長く息を吐き、そして決然と眼差しを上げ、毅然とした声で答えた。


「勝利のために! 戦神ヴァレスよ、勝利の女神ニアよ、聖王カナン・ロウの戦士たる、我らがいさおしを照覧あれ!」


 ここに両陣営の個々人の錯綜する思惑が、ラヴィネの海戦という史上に残る大海戦へと集束した。その思惑は、信仰であり、名誉であり、利益であり、野心であったであろう。しかし局面が血を流す戦いへと至ってしまえば、それらの思惑はすべて生死の渦に呑み込まれ、誰しもが望んだ結果を得られるとは限らないものである。


 ラヴィネの海戦もそのような戦いのひとつであった。

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