第3話 神聖同盟とエリティア人

父なる至高神ユーリエ

母なる地母神マイラ

その子らたる、この世に遍く八百八柱の神々よ

それぞれにオリーブの枝葉を持ち合いて

彼の王の聖誕を祝福せし


至高神ユーリエはオリーブの実を絞り

彼の王の額に秘跡の塗油を施し

地母神マイラは子らの集めたオリーブの枝葉を編んで

彼の王の頭上にオリーブの冠を戴く


至高神ユーリエは告げる「それ汝、正義カーを為せ」

地母神マイラは告げる「それ汝、慈愛サナンを示せ」

王は答える「正義カーを以て人を正し、慈悲サナンを以て人を愛さん」

両神が告げる「それ汝、至聖カナンなり」


ここに王は聖王カナン・ロウとなり万民を統べる

その正義カーは我らを導く太陽となり

その慈愛サナンは我らを潤す慈雨となろう

よみせよ、讃えよ、聖なる王カナン・ロウの聖誕を――


『聖王記』第三章「聖誕」より



   ***



 西大陸には聖王思想と呼ばれるものがある。古代において西大陸には数多いる神々の中で正義を司り天界を統べる神である至高神ユーリエとその妻である地母神マイラの神意を授かった聖王が現れて理想の政治を行い、西大陸全域を治めた栄光の時代があるとされ、その政治を引き継いだ者こそが神々に認められた正統にして正義なる統治者――『聖王カナン・ロウ』として西大陸を治めるべきであるとする思想である。


 しかし神々の神意は人の目に直接あきらかなものではない。そこで各国の王たちが聖王の地位に相応しい政治を行っているか判断し、至高神ユーリエ地母神マイラに代わって戴冠という儀式により聖王の称号の授与を行う組織が生まれた。『聖教会カナン・ホルム』である。この聖王思想と至高神ユーリエを筆頭とする神々を信仰し、『聖教会』の権威を認める者たちを『聖教徒カナン・ティル』と呼ぶ。


 聖教会はその時代ごとに西大陸で聖王を名乗るに相応しい王――つまり各時代の強国の支配者にその称号を与えた。それは聖王の理想の政治で最重要視されたことが「西大陸を外敵から守る」という攘夷思想にあったからである。このため聖王に即位した王たちは必ず自国を中心に諸国をまとめ、防衛同盟である『神聖同盟カナン・メードゥ』を形成した。


 この時代に聖王の称号を受け、神聖同盟の盟主となったのがヒムヤル王シャルル七世である。目下、彼の聖王としての務めは外敵――東大陸のカラマン朝の勢力拡大への対処となった。このためカラマン朝の攻勢を受けるエリティアに援軍を送ることは自然な成り行きに思えるが、実際にカルファ救援のために編成された神聖同盟の艦隊を率いる王弟ルイ=ヒムヤル=サヴォアと、ザーラ人の傭兵海将ヴェクトール=カーレンの二人に聖王シャルル七世が与えた命令は「カルファを見捨て、レイザンを攻略せよ」というものであった。


 この命令にヴェクトールは「これだから政治というものは」と内心に乾いた笑いを浮かべた。


「決戦あるのみだ! 敵はそこにいるのだぞ!」


 連合艦隊の旗艦の一室で開かれた軍議で、総司令官ルイを前にして、そうヴェクトールに罵声を浴びせたのはエリティア艦隊司令ジルバーノ=クリィーニであった。


「閣下、お忘れなきよう。我々の目的はカルファ救援であり、敵と正面から戦うことではありません」


「愚かだなヴェクトール。カルファを救うには敵の制海権を奪うのは必須だ。我々は敵を釣り出すことに成功した。これを撃滅することこそカルファ救援への最短の道だとわからぬかっ!?」


 ジルバーノは豊かな白髭を蓄えた老年の偉丈夫だった。七〇近い年齢ながら伸びた背筋に堂々たる体躯のジルバーノは、相手を恫喝するような大声で持論を主張する。これを受けるヴェクトールはジルバーノより頭ひとつ背の低い小太りで禿頭の男だった。しかし彼は軒昂なジルバーノの迫力に動じることなく、柔和な物腰を崩さずに反論を述べる。


「もちろんです閣下。ですが敵は目の前だけではありません。カルファを封鎖する艦隊も敵は備えている。しかし我々は損耗すれば次がない」


「知った上だ。勝利は味方に勢いを与え、敵からは奪う。つまり一度勝てば連戦など問題ではない。そして我々は勝つ。むしろ敵を避けるのに時間を使い、肝心のカルファ救援に間に合わなければ、我々は臆病者の名を背負って逃げ帰ることになる。それがわからぬヴェクトール殿ではあるまい?」


 このやり取りを沈黙のまま聞いているのが総司令官ルイである。金髪碧眼の美丈夫である弱冠二十歳の若き貴公子は、連合艦隊に半数近い戦力を提供する神聖同盟の盟主、聖王シャルル七世の末弟である。その身分は連合艦隊の総司令官を務めるのに十分な格を有していたが、その能力まで求めるには明らかに経験不足と見るのが衆目の見解だった。


 そこで補佐役としてシャルル七世に雇われたのがヴェクトールである。かつてエリティアと静海貿易の覇権を巡って抗争を繰り返した海港都市ザーラの名門貴族カーレン家は、一族の財力で大小一〇〇隻近くにもなる艦隊を所有し、その海軍力を諸侯に貸し出す傭兵業を生業としていた。つまり海戦の専門家であり、この面で未熟なルイの補佐を期待されたのである。


 しかし彼にはルイの補佐以上に重要な命令をシャルル七世から受けていた。それが今のジルバーノとの論争である。


(敵が同じであっても味方で騙し合うのが政治ではあるが――)


 ヴェクトールは決戦回避の論陣を張りながら心の中で自嘲する。王の命令は「カルファを見捨て、レイザンを攻略せよ」であった。このレイザンという街がこの命令の目的を理解する上で重要になる。


 カラマン朝は東大陸のエリティア人諸都市への攻勢を強めた同時期に、静海の北端、東西の大陸を繋ぐアザン地峡に進出し、その要衝のブーザの街を神聖同盟に属するダナ王国から奪取した。西大陸防衛を目的とする神聖同盟の盟主である聖王シャルル七世にとって、同盟国がカラマン朝から奪われた都市を奪還することは聖王としての使命であり、同時に無策は聖王としての権威の失墜を招く大問題であった。


 シャルル七世のブーザ奪還計画における障害は兵站であった。アザン地峡は狭小な山地であり兵站を陸路で繋ぐのは難しく海路の構築が必要だったが、神聖同盟諸国には内陸国が多く海軍力が不足していた。この難題に光明を与えたのがエリティアからのカルファ救援要請である。シャルル七世はカルファ救援のために結成する静海最強の海軍力を有するエリティアとの連合艦隊をブーザの外港レイザン攻略に利用する策略を思いつく。


 そのためにはカルファの陥落が必要であった。神聖同盟は外敵に対する防衛同盟である。カルファが陥落して目的を果たせなくなったからといって、一戦もせずに解散することは名誉の問題で許されない。そこで新たな攻撃目標としてレイザン攻略を提案するのである。つまり「カルファを見捨て、レイザンを攻略せよ」である。この密命を帯びたヴェクトールは、カルファが陥落するまで敵艦隊との決戦を回避する時間稼ぎを行うのが任務となった。


「精神論ですな。敵は一敗できますが、こちらはできない。浮足立った攻勢は慎むべきです」


「では、貴様にはどのような策がある!?」


 唾を飛ばして吠えるジルバーノに顔をしかめながら、ヴェクトールはエリティア人の傲慢を思った。同じ西大陸の民とはいえ、シャルル七世が聖王という地位にありながら彼らを利用して見捨てる方策を選んだのは、彼らの長年にわたる神聖同盟への態度を憎んだからである。


 今でこそカラマン朝の攻勢にさらされ窮地に立ったエリティアであったが、カルファ陥落の危機に至るまで神聖同盟に救援を求めたことはなかった。攻撃を受けている東大陸の植民都市は西大陸の外であるという理屈もあったが、それ以上に交易によって成り立ち、時には西大陸外の勢力との共存共栄も選択肢とするエリティアと、攘夷思想を掲げる排外的な連合体である神聖同盟は同じ聖教徒ながら本質的に対外姿勢が合わず、加盟によって自国の外交政策に制限を受けることを嫌ったからである。


 このためエリティアはこの二百年あまり神聖同盟から距離を取る姿勢を堅持してきた。このエリティアがカラマン朝の攻勢によって方針転換し、今更のように神聖同盟へ救援を求めてきたことは、聖王シャルル七世からすれば虫の良すぎる話でしかなかった。そもそもカルファを救ったところでエリティアの利権が守られるだけであり、神聖同盟からすれば勝利の名誉以外に得るものがない話である。


「――兵法書にあるように人気じんきを読むに如かず。このまま我々が動かなければ敵はこちらを臆病者と侮るでしょう。そこに弛緩が生ずれば大勝の勝機です」


「悠長に過ぎる! 先にこちらの戦意が尽きてしまうわ!」


「こちらには目の前の敵のむこうにカルファ救援という目的がありますが、敵の目的はこちらの足止めです。目的の達した状況が続けば、どちらが先に戦意を弱めるかは自明と思いますが……それともジルバーノ殿は、同胞の忍耐力が敵に劣るとお思いですか?」


「つまらん挑発を」


 苦虫を噛み潰したような顔でジルバーノが黙る。頭に上った血を冷ますためのようであったが、この隙を突いてヴェクトールは総司令官ルイに目をむけた。


「殿下はどう思われます?」


 ここまで沈黙を守っていたルイは、ヴェクトールとジルバーノ両名をそれぞれ見やると、その若さに似合わない重々しい声で告げた。


「……決戦は必要であるが、ヴェクトール殿の憂慮ももっともである。そもそも我々は敵の待ち受けるラヴィネの近海へと着いたばかりだ。速戦は避け、もう少し敵の様子を探るべきだと思うが、どうか?」


「ご深慮、もっともにございます」


 恭しく頭を垂れるヴェクトール。ルイも兄王からこの艦隊の最終目的地がレイザンであると言い渡されている。二人の役目はこのように口裏を合わせてジルバーノを抑え、カルファ陥落までの時間を稼ぐことである。


(しかし……)


 ヴェクトールは思う。エリティアとの決裂を避けるためジルバーノに一定の配慮を示す必要があるとはいえ、ルイの態度が中立に過ぎるのが気になった。艦隊の方針を決める軍議は何度と行われたが、その度に激しく意見を対立させるヴェクトールとジルバーノをよそにルイは沈黙を貫き、最後にこうして両者の意見を汲んだ折衷案を提示しては場を収めてきた。それは構わない。だがその繰り返しの結果、カルファまで順風に乗れば三日という距離のラヴィネの近海にまで艦隊を進めてきてしまったのは、シャルル七世の命令を考えれば失策であった。


「……ならば斥候は我らエリティアの精鋭から出させていただきたい。よろしいですかな殿下?」


 ルイの提案にジルバーノはそう答えた。これにルイがうなずく。


「よろしい。励むがいい」


「ありがたきお言葉」


 その巨躯に似合わない優雅な立礼を返しジルバーノが退室する。その後ろ姿を見送りながらヴェクトールはルイに訊ねる。


「よろしいのですか? 大人しく引き下がるような御仁ではないと存じますが……」


「ジルバーノ殿はエリティア人の中でも名のある勇将だ。多少の血抜きは必要だろう。それより軍議は終わりだ。ヴェクトール殿も今日はもう休むがいい」


 ルイは淡白にそう言って、そのまま自室へと帰ってしまった。


(はて、この若造……どこまで兄に飼われているか)


 取り残されたヴェクトールはルイの態度を思いながら、この疑念について真剣に考えねばなるまいと思い始める。そして彼のこの疑念は的中することになるのである。

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