さよなら花緑青

ここのえ栞

花に嵐のたとえもあるさ



 窓硝子越しの淡い光が、廊下に四角い陽だまりを作っていた。

 見慣れた校舎に着慣れた制服。ブレザーの胸元を誇らしげに飾るコサージュと、証書の収まった黒い筒だけが真新しい。歩く度にスカートがはらりと揺れる。髪がからかうように頬をくすぐる。

 青い喧騒が遠く聞こえた。三年間履き潰した上靴の音は、人気のない廊下によく響いた。


 二階の端、まだ私たちの余韻が残る教室を目指して歩く。彼がそこにいると聞いたから。願わくば彼が一人でいてほしいと、そんなことを思いながら。

 晴らしておきたい、心残りがあった。

 柔らかそうな髪が春風に揺れ、細められた瞳が光を呑み、すきとおるように煌めくのを見た、三年前のあの日。きれいだと思った。世界で一番。彼のことを、もっと知りたいと思った。

 指先で簡単に摘み取ってしまえそうな、双葉のように頼りない想いだった。しかし、それは時間とともに私を蝕んだ。苗はどんどん背丈を伸ばして、やがて大きな木となった。

 実を結ばなくたっていい。期待はしていない。ただ、最後に一つだけ、伝えたいことがあった。


 立ち止まって、ポケットから手鏡とリップクリームを取り出す。唇にふわりと薄紅色を移せば、ほんの少しだけ春になじめるような気がした。風に乱された髪を手櫛でとかす。式で散々泣いたせいで頭が痛い。

 指先が微かに震える。桜の花びらが、いつもよりゆっくりと春のひざしを泳いでいた。



 *



 開けっ放しのドアから様子をうかがうと、カーテンの裏で誰かが話していた。

 教室に淡く溶ける二つの声。橙色に浮かび上がる二つの影。その大きなベージュの布地からは、スラックスを履いた長い足と、スカートから伸びた白い足が二本ずつのぞいていた。一人は、間違いなく彼だ。

 もう一人はきっとあの子だろう。彼の幼なじみだという、隣のクラスの女の子。直接話したことはないけれど、彼の隣で軽やかに笑う姿を何度も見かけたことがある。

 羨ましかった。あんな風になれたらと思った。

 けれど、そう思うことすら躊躇ってしまうほど、あの子はきれいだった。


 あはは、と。

 彼のやわらかな笑い声に思わず肩が跳ねる。

 会話の内容までは聞き取れない。それでも、彼の声に滲む想いは私まで届いた。届いてしまった。こころの中でピンと張り詰めていた糸が唐突に緩み、足から力が抜け、そのままずるずると座り込む。冷たい床の無機質な感触が、指先から体温を奪っていく。

 ふいに、このまま全てを諦めてしまいたくなった。

 どうせ三年も経てば私はこの想いを忘れられる。指の隙間から砂が零れていくように、苦くて青い日々の記憶がいつしか色褪せてしまうことを、十八歳の私は知っている。例え彩度や温度が消えてしまっても、それがどれだけ悲しくても、繋ぎ止めておく方法はない。

 どうせ実を結ぶことのない木なのだし、わざわざ自分から傷つきにいく理由も、ない。


 それでも。

 ブレザーのポケットに隠した一本のペンに、縋るように指先で触れる。鮮やかなエメラルドグリーンのインクを気に入って、少し背伸びをして買ったボールペンだ。三年前、隣の席に座っていた彼は、私が落としたこのペンを、そっと拾って手渡してくれた。

 ありがとうと小さな声で言った私に、彼はふわりと微笑んだ。開け放たれた窓から春風が舞い込んで、彼の柔らかそうな髪を音もなく揺らした。優しげに細められた瞳は、教室でまどろむ光を呑み、すきとおるように脆く煌めいた。

 温かい硝子細工のようだと思った。

 せかいでいちばん綺麗だと思った。

 確かに私は、あの瞬間、彼に恋をしたのだ。


 何度も練習した四文字の言葉を、舌の上で小さく転がす。一人静かに忘れ去るには、この想いは大きく育ちすぎてしまった。心臓に根を張り、四肢に幹を通し、指先にまで枝を伸ばしてしまった。

 だから、どうか、大好きな君に、この春を終わらせる手伝いをしてほしい。

 震える足で教室の入口に立ち、彼の名前を呼ぼうと小さく息を吸う。



 その瞬間、いたずらな春風が窓から吹き込んだ。

 柔らかな日差しが降り注ぐ教室。ふわりと浮かび上がるカーテン。透き通る青空。舞い込む桜花。少年。少女。────重なった唇。


 大人になろうと背伸びをするあの子の、そのかがやきに目を奪われる。

 淡い光を織り込んだ髪と、それを束ねた真紅のリボンが軽やかに揺れていた。眩しげに細められた瞳の中で、春の欠片がぱちぱちと瞬いていた。

 まるく緩んだ頬は、肌の下に流れる恋の色を透かしていた。小さくて頼りない左手は、彼のブレザーに縋っていた。白い上靴のかかとは、床を離れていた。

 そんなあの子を、彼は抱きしめていた。


 一瞬の出来事がやけにゆっくりと網膜に焼きつく。

 陽光を透かしたカーテンはウェディングベールのようで、寄り添う二人は誓いのキスをしているようで。足元に舞い降りた薄紅の花びらに、お前も祝えと言われているような気がした。

 この小さなチャペルの中で、私だけが場違いな存在だった。



 春風が止み、唇を離してはにかむ二人をカーテンがまた覆い隠す。

 ここから離れなければと思った。祝福できないのなら、少しでも遠くへと、その一心で廊下を歩き出した。頭の中を白く焼く、フラッシュのような衝撃にくらりと目眩がして、それでも指先は妙に冷えていた。

 歩幅が広がる。歩調が速くなる。いつの間にか、逃げるように全力で走っていた。スカートが不安定にひらめく。次々に零れる涙が後ろへと流れ落ちていく。

 実らなくてもいい、なんて嘘だ。

 彼が抱きしめるのは私が良かったし、彼がキスをするのは私が良かった。彼が好きだった。付き合ってくださいという私の言葉に、もしかしたら頷いてくれるかもしれないと期待していた。

 それでも、あの一瞬で思い知らされてしまった。私がずっと彼のことを見ていたのと同じように、彼はずっとあの子のことを見ていたのだと。

 三年前のあの日、私が好きになった、あのすきとおるように煌めく瞳で。


 階段を駆け上がり、長い廊下を走る。校舎には誰もいなかった。青い喧騒があまりにも遠い。自分の呼吸だけが荒い。

 息が苦しくなって立ち止まると、堪えきれずに涙が溢れ出した。嗚咽を殺してしゃがみこむ。ぎゅっと力を入れて目を閉じても、瞼の裏には唇を重ねる二人の姿が焼き付いたままだった。真紅のリボンが幸福を滲ませて揺れる様を、皮肉なほど鮮明に覚えていた。

 ぐちゃぐちゃに掻き乱された意識の中で、縋りつくように指先をポケットへ伸ばす。そして浅く息を吐いた。確かにそこにあったはずのボールペンは、いつの間にか夢のように消えていた。走っている時に落としたのだろうか。

 密やかな絶望が体内を食い荒らす。どくどくと耳元で鳴る心臓の音が怖くて、自分を守るように膝を抱えたまま、動けなくなった。


 彼を見つめるあの子の姿が脳裏を過る。きっと、あの瞳を焦がすような、真紅の恋情こそが本物なのだろう。

 それに比べて私の執着は花緑青だ。人の手で作られた偽物の色、真紅とは正反対の色。春風に溶けたボールペンの色。それでもこの毒があの子を殺してしまうことは決してない。

 だって、今日は最後の日だったのだから。


 心臓に根を張り、四肢に幹を通し、指先にまで枝を伸ばしてしまった花緑青の恋心が、瞳から花を咲かせる。あの綺麗な真紅になりたくて、でもなれなかった、出来損ないの薄紅の花びらをはらはらと零す。

 本当はずっと気づいていた。傷つきたくなくて目を逸らしていただけだった。冷えた春風を憎むことは傲慢で、落ちた花弁を悼むことは愚鈍だと、頭では分かっていた。

 それなのに、どうして、花は咲くことをやめないのだろう。




 泣き止む頃には、両目につけていたはずのコンタクトレンズが手の上でぺしゃりと歪んでいた。

 瞬きをしながらゆっくりと立ち上がる。ぼやけた世界は何となく居心地が悪い。春風にふわりと髪をさらわれて、ふと窓の外を見ると、空と桜の境界線が柔らかく滲んでいた。

 輪郭のないまま浮かび上がる淡い色彩をぼんやりと眺める。厚いレンズを透さない桜は、春色の雲のように見えた。三年間を共に過ごした黒い額縁を置いていくのも、代わりのプラスチック片を目に入れるのも怖かったけれど、それでも最後だからと、震える声で自分に言い聞かせたのは今朝のこと。

 硝子に映った自分は想像以上に酷い顔をしていた。目の周りと鼻先は赤く、涙の余韻が頬に残っている。乱れた髪を整える気力もなくて、首筋に流れる髪をはらいながら、やっぱりいつも通り結んでくるべきだったと後悔した。

 一瞬でよかった。ほんの一瞬、彼が私を見てくれたなら、私はこの一瞬のためにがんばったのだと、そう思えたのに。


 残された木の幹に、爪で小さな傷をつける。指先で簡単に摘み取ってしまえるような、双葉であり続けてくれたならどれほど良かったか。

 春は終わらなかった。それでも、時は等しく私達を呑み込んでいく。

 いつかこの薄紅の花は命尽きるだろう。残された木は夏にみずみずしい青葉をつけ、秋は鮮やかな深紅に染まり、冬は銀雪と共に眠るのだろう。そうしていつかこの木が朽ちた時、また心臓から新しい芽が出るかもしれない。


 全部ここに置いていってしまいたかった。それなのに、彼の横顔が、声が、やさしさが、頭に焼きついて離れない。覚えておくにはあまりに哀しく、忘れ去るにはあまりに愛しい。彼のことが好きだった。今も、まだ。

 けれど今日は卒業の日。

 せめて、形だけでもお別れをしよう。


 花が咲き、緑の芽吹く、青い春よ。

 どうか、どうか、最後は笑って!




 ふいに、名前を呼ばれた。

 驚いて左を向くと誰かが立っていた。視界がぼやけていてよく見えないけれど、多分、クラスメイトだった男の子。

 彼が一歩、二歩と近づいてくる。距離が縮まるにつれて、輪郭が鮮明になっていく。歩き方が何だかぎこちない。頬が、赤い。


 彼は小さく息を吸い、私に告げた。



「──────」











 さよなら、花緑青。

 いつかこの恋がうつくしく色褪せる日を夢見て。













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さよなら花緑青 ここのえ栞 @shiori_0425

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