幼馴染みの死

月浦影ノ介

幼馴染みの死




 関東某県のとある地方都市で、小さな電気店を営む秋山さんが体験した話である。


 秋山さんの家の隣に、保治やすじさんという人が住んでいた。同い年の幼馴染みである。高校は違ったが、卒業後も二人は地元を離れることはなく、仲の良い友人関係は変わらず続いていた。

 

 保治さんは四人家族だった。左官業の父親と病気がちな母親、三歳上の兄がいた。父親は普段はおとなしく真面目だが、酒癖が悪く、酔っぱらうと家族に暴力を振るうのが常だった。暴れる物音や怒鳴り声が近所中に響き、見かねた秋山さんの父親が止めに入ることも度々だった。

 保治さんの兄は、そんな父親を嫌って高校在学中に家を飛び出し、そのまま戻って来なかった。

 保治さんも家を出たかったが、自分がいなくなることで父親の暴力が身体の弱い母親に集中するのを怖れ、高校を卒業して地元の会社に就職してからも実家に住み続けていた。

 

 秋山さんは高校卒業後、家業である電気店を手伝い、やがて父親の後を継ぎ、結婚して一男一女を儲けた。その一方、保治さんは独身のままだった。

 

 やがて月日は流れ、保治さんの母親が亡くなった。父親は十年ほど前に癌で他界している。働きながら病気がちな母親の面倒をずっと見ていた保治さんは、古くて小さな平屋建ての家に一人暮らしとなった。年齢はすでに五十を越していた。

 一人暮らしになってから、保治さんは秋山さんを頻繁に飲みに誘うようになった。それまでは母親の介護で、自由に飲み歩くことが出来なかった。独身の寂しさを紛らわしたかったのかも知れない。酔いが回ると、保治さんは決まって口癖のように「お前は良いなぁ、女房と子供がいて。俺には何もないよ」と自嘲気味に呟いた。

 それに対して秋山さんが「家庭なんてそんなに良いもんじゃないぞ。子供らはだんだん生意気になるし、女房に逆らうと後が怖いし、独り身の方が自由で気楽じゃないか」と冗談めかして答えると、保治さんはいつも複雑そうな表情で笑うのだった。


 そんなある日、保治さんが脳梗塞で倒れた。幸い命に別状はなかったものの、半身に麻痺が残り、働くことが困難になった。役所に相談し、保治さんは生活保護を受けて暮らし始めた。

 秋山さんはそんな保治さんを心配して、ときどき奥さんに料理を作って貰い、それを保治さんに届けていたという。


 ある日のこと、秋山さんはいつものように奥さんに手料理をタッパーに詰めて貰い、保治さんの家を訪ねた。

 だが、いくら呼び鈴を押しても、保治さんが出て来る気配がない。ドアノブを回したが玄関はしっかりと施錠されている。

 身体が不自由な保治さんは普段、外出することはほとんどない。買い物は主にヘルパーさんに頼んでいる。秋山さんが代わりに買い物を引き受けることもある。外出はせいぜいバスに乗って病院へ行くときぐらいのものだ。

 妙だなと思った秋山さんは庭先へ回った。建て付けの悪いガラス戸には鍵が掛かっていた。部屋の電気は付いているので在宅しているはずだ。

 何度か戸を叩いて呼びかけたが、やはり応答がない。縁側に上がってガラス戸を覗くと、薄いカーテン越しに家の中が僅かに透けて見えた。

 

 と、そのとき秋山さんは、床の上に倒れている人影に気付いた。うつ伏せで顔は見えないが、保治さんに間違いない。

 慌ててガラス戸を叩き大声で呼び掛けたが、保治さんは身じろぎ一つしなかった。ただならぬ様子に秋山さんは携帯電話を取り出し、急いで救急車を呼んだ。

 それから間もなく救急車が到着したが、保治さんはすでに死亡していた。警察が来て現場検証が行われ、保治さんの遺体は警察が搬送して行った。

 検視の結果、保治さんの死因は脳梗塞の再発によるものと断定された。死亡推定時刻は昨夜の十時頃。誰にも看取られることのない、孤独で寂しい最期だった。


 保治さんのただ一人の肉親である兄は、家出してからずっと消息不明で、どこにいるのか分からない。

 保治さんの遺体は、従兄弟に当たるという男性が引き取ることになった。葬儀は行われず、荼毘にしてお墓に入れるという。

 主を失った古い一軒家は、空き家となって取り残された。


 

 それから三ヶ月ほど経ったある夜のことである。

 秋山さんの奥さんが少し不審そうに、こんなことを話した。

 今日の昼頃、庭で花壇の手入れをしていると、隣の保治さんの家から物音がしたという。なんだろうと思って覗き込むと、保治さんの家の窓に誰かが横切る影が映った。

 それは一瞬のことで、薄手のカーテンに阻まれ顔や服装までは分からない。だが、誰かが家の中にいるのは間違いなかった。

 無人の空き家に泥棒でもあるまいが、無断で入り込んでいる者がいるのかも知れない。奥さんの話を聞いた秋山さんは、明日の朝にでも保治さんの家の様子を見に行くことにした。


 翌朝、秋山さんは保治さんの家へと向かった。玄関扉はしっかりと施錠されている。庭へ回ってガラス戸から家の中を覗き込んだ。薄手のカーテン越しに透かし見るだけだが、屋内に特に変わった様子はない。

 念のため家の裏手に回ると、いつも閉まっているはずの勝手口のドアがほんの僅かに開いていた。

 不審に思った秋山さんは、ゆっくりとドアを開けて中を覗いた。家の中はしんと静まり返っていて、床にはうっすらと埃が積もっている。人が歩いた形跡はない。「誰かいるか!」と大声で呼び掛けたが、ひっそりとした静寂が返ってくるだけだった。

 秋山さんは靴を脱いで家に上がった。辺りを慎重に見回しながら台所を抜け、居間へと入る。保治さんはこの居間で倒れ、そのまま亡くなったのだった。

 秋山さんは、保治さんが倒れていた辺りに手を合わせて瞑目した。

 それから保治さんが寝室に使っていた隣の部屋の襖を開ける。部屋を覗き込むと、秋山さんはギョッとして思わず身を引いた。


 目に飛び込んで来たのは部屋の隅に設置された仏壇だったが、驚いたのはそれが理由ではない。

 仏壇の前に、保治さんの位牌と骨壺を納めた桐箱が置き去りにされていたのだ。

 位牌と骨壺は保治さんの従兄弟が引き取ったはずではなかったのか。それが何故この家に放置されたままなのか?

 あまりの無責任さに、驚きと憤りが同時に湧き上がった。保治さんの従兄弟に連絡しようにも、秋山さんはその連絡先を聞いていなかった。

 このままでは保治さんがあまりに可哀相だ。とりあえず役所に相談した方が良いだろうか? 

 そう思案していると、背後でふと床を踏む足音がした。

 

 その瞬間、全身に一気に鳥肌が立った。


 誰かが後ろににいる。身体が硬直して動けなかったが、それだけは確かに分かった。嫌な汗が全身から吹き出して、握り締めた拳が小さく震える。

 

 それでも秋山さんは、勇気を振り絞って後ろを振り返った。しかし予想に反して、そこには誰の姿もなかった。思わずホッとして、身体中から力が抜ける。つい、その場にへたり込みそうになった。

 安堵してふと仏壇の方へ顔を向けると、秋山さんは今度こそ驚愕した。

 仏壇の前に誰かが、こちらを向いて座っている。正座して背中を丸め、頭をうなだれた姿で。それは紛れもなく、死んだはずの保治さんだった。

 思わず腰が抜けて、秋山さんはその場に尻餅を付いた。驚きのあまり声も出せない。

 保治さんは僅かに頭を持ち上げると、虚ろな表情で秋山さんを見つめた。何か物言いたげだが、唇は固く結ばれ無言であった。

 

 秋山さんが声も出せずに固まっていると、やがて保治さんは空気中に溶けるように、すうっ・・・・と姿を消した。

 幽霊など見たのは生まれて初めてのことだ。秋山さんは唖然として暫くその場に座り込んでいたが、やがて我に返り、慌てて外へ飛び出した。


 その後、保治さんの従兄弟とは何とか連絡が着いた。お骨にはしたものの、寺の墓に納める費用を誰が負担するのかで親戚間で揉めてしまい、それが決まるまではあのまま置いているのだという。

 思わず呆れたが、他人である秋山さんにそれ以上の口出しは出来ず、とにかく早くお墓に入れてやってくださいとお願いするのが精一杯だった。


 

 それから数日後のことである。

 妙に寝苦しい夜で、秋山さんは布団の中で何度か寝返りを打ち、ようやくウトウトし始めた頃、ふいに全身が金縛りになった。

 目だけはかろうじて開くものの、全身が固まって身動き一つ取れず、声も出せない。隣の布団では、奥さんが安らかな寝息を立てている。

 と、秋山さんは自分の枕元に誰かが立っているのに気付いた。

 暗闇の中にぼんやりと立つ人影が、ぐうっと上体を折り曲げて秋山さんの顔を逆さに覗き込む。

 

 ───保治さんだった。

 死んだはずの保治さんが虚ろな眼差しで、秋山さんをじいっ・・・・と見つめている。

 「お前は良いなぁ、女房と子供がいて。俺には何もないよ・・・・」

 酔っ払ったときの保治さんの口癖が、秋山さんの頭の中にふいに響いた。

 「すまない、保治。俺には何もしてやれないんだ。頼むから成仏してくれ・・・・」

 逆さに覗き込む保治さんに、秋山さんは心の中でそう繰り返し念じ続けた。

 それが通じたのか、やがて金縛りがふっと解けた。秋山さんは咄嗟に飛び起きて辺りを見回したが、すでに保治さんの姿は影も形もなかった。


 それから数ヶ月が過ぎ、そろそろ朝晩の冷え込みも厳しくなって来た頃だった。

 秋山さんの家を、五十代後半とおぼしき男性が訪ねて来た。

 面影がすっかり変わって分からなかったが、それは高校在学中に家出して以来、消息不明になっている保治さんの三歳上の兄だった。

 あれからずっと東京にいて、現在は新宿で小さなバーを営んでいる。偶然再会した地元の同級生から、弟が亡くなったことを知らされ、その位牌とお骨を引き取りに来たのだという。

 暴力を振るう父親もそれに逆らわない母親も嫌になって家を飛び出したが、結果として弟一人に後のことを全て押し付けてしまった。せめてもの罪滅ぼしに、弟の供養は自分が引き受けたいのだと、保治さんの兄はそう話した。


 こうして保治さんの位牌とお骨は、彼の兄が無事に引き取って行った。

 保治さんの家は暫く空き家のまま放置されていたが、それから数年して取り壊された。

 更地になった跡地は売りに出されたが、今も買い手が付かないままだという。



                 (了)



 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 

 

 


 

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