ハロゲン

三毛猫

ハロゲン

ハロゲン

 いろいろな出来事が起こっては終わって、考えても、あるいは記憶を思い起こしてみても、わからないこが多くて、いろんな人の誰の話を聞いてみても、どうにも分からない、判断のつかないことだらけだった。

 一日の終わり、家に帰って、ご飯を食べて、風呂に入り、眠る支度をする。そうしたそれらの時をゆっくりと噛みしても、心は何処かとてつもなく遠い世界を見ている。これから何をしようともなんだか違うとどこかで感じるのだろう。だが、それでも、そうした違和感を持って過ぎしていく日々に、無理やり終止符を打つ。良いと思えることだけを連ねて、なんら実態のない夢に憧れようとして努める。一人途方に暮れたむしゃくしゃした気分を、素晴らしい事だったと思わざるを得ない時が来る。

 長い時間を一個人の為でもなく、何らかの地に足もつかないような目的で動いてしまっていた。けれどもそれが人間なのかも知れないと思って納得するしかなく、ひとつひとつ整理して理解していくなどと言う事は出来なくなってしまったのだと実感する。もう何を学ぼうなんていう気持ちも、好奇心もないのだった。ただ当たり前の事だけをしながら淡々と過ぎていく時間を見つめて行くことしかこれからは出来なくなってしまう――。

 昨日一晩、眠れずにまた、ここに来てしまった。忙しかった日々をすべて終えても、冬の季節は終わらない。寒さに耐えながら日々を暮らすのにも、なんだか疲れを覚えて仕方がなくなっていた。終わっても名残だけが惜しくあって、真っさらになった部屋を見て、ずっと通って来たこの部屋ともお別れかと思いながら、重たいガラクタばかりを担いでここを出ていく。出て、廊下の端に並んでいるまたそれとは違ったガラクタを見ている。〈思い出〉とか、軽く口にしてしまうと、余にも形容は簡単で単純なものに聞こえる。

 そう言えばと我に返って、コセムラに行こうと思い到った。

 ハゴロモ、とは面白い名前である。風貌小さく、丸眼鏡、グレーのジャケットを着て、肩にはいつもカメラをぶら提げている。ハゴロモは名前だけではなく、その要望も態度も口ぶりも、なんだか人間をひとつ飛びぬけた存在を示しているような気がする。性格はしつこく、同じ事を何度も繰り返してして言う癖があって、それも育ちなのか、でも何だか其処に味があってまた面白い。ハゴロモはコセムラにいつもいる。

 部屋を訪ねて挨拶を交わすと、いつも快く返事してくれる。

 その日も部屋を訪ねると、今日もおんなじように快く挨拶をして引き入れてくれた。

 珈琲を入れてもらった。

 まだ明るいうちに訪れた所為か、ハゴロモは忙しなくあちこちに電話していた。手帳を見ながら彼は自分の行く末を書き記しているようだ。大型のモニターに向かってネットを開いて、電話をしながら手帳に何かを書き記している。ハゴロモも一緒に珈琲を飲んで、作業をしながらも少しばかり話をしてもらった。

 電話の先は図書館だったようである。求人を見て電話をしてみたらしい。他にもそれらしいことで幾つか電話をしていたが、ハゴロモはそれしか教えてくれなかった。他のみんな忙しくして、ここには二人しかいない。洒落た部屋は収納品の棚や箪笥も無表情にあるし、物ばかり大きく見えて窮屈である。古くなって埃をかぶった使えるのかどうかも分からないプロジェクターやら、撮影用の照明など、機材がごろごろ転がっていた。たくさんのハロゲンライトを収納した籠、たくさんの束になっている配線、抜け殻になったロッカーの数々、何に使ったかはわからない物干し竿みたいに組み立てられた木材、それらをひとつひとつ確かめながら話を聞く。ハゴロモは終わったことばかりを話していた。それには頷くだけの事しか出来ない。もう忘れてしまったことだ。

 しばらく話していると急に今度また外に飲み会に行くと誘われた。そうなのかと思わされてもなお、ハゴロモはそのまま話し続ける。みんなどんどん次のことにシフトしていかないと、もう新しいことは始まっている。とハゴロモは語った。と言うことは今度でみんな最後と言うことだった。追い出されるように寮を出なければならないと言ってハゴロモは嘆いている。新しい部屋を品川の方に見つけて引っ越さなければならないのだけれども、引越しの費用もそれからの暮らしにも困っている様子だった。部屋は近いうちに片づけなければいけないからと言い、加えて、今日は近くの豆腐屋にダンボールを貰いに行くのだと言うので、ハゴロモは一連の作業を終えたらしくそのダンボールを二人で貰いに行くことにした。

 事務室で台車を借りた。ひたすらのどかな真っ昼間の郊外を、台車をガラガラと押しながらアスファルトのゴツゴツとしている黒い道を歩いて行く。どうしても歩道の幅が台車の幅に足りないから、白い実線をまたいで車道にはみ出ないといけなかった。

 さほど車は通らない田舎道だけれども、それでも車が通ると迷惑そうに二人を避けて行く。それなのに、二人はそんなことには気にも留めずに、堂々と台車を押して豆腐屋の前まで行く。

 二人でこれはどれ位だとか、それはその位だ、とか言いながら結局全部持って行くことにした。こんな感じで二人して、ずっと能天気だった。ダンボールを寮の近くの小屋に仮置きして部屋に戻ると、もう一度珈琲を入れて一休みした。そしてハゴロモは一服した。もうだいぶ時間も経ち、空だけが紅く色づいている。

 突然福助がコセムラの部屋を訪れた。福助はおかしな奴だった。じっとしているところを見たことがない。座っていても身体を左右に振っている。こっちが黙っていてもオーシーットとか、マイメーンといつも言っている。英国で十八年暮らし、日本に帰ってきてコセムラで映像を学んでいた。

 ハゴロモはいきなり訪れた福助に反応して二人でしばらく話している。福助は横浜の実家を離れ、下北沢で一人暮らしをしている。最近は慣れない一人暮らしで浪費をしていて、いつも金がないと言っていた。ハゴロモはそれを案じていた。アルバイトの話とこれからの話を仕切りに話していた。やがて退屈になって、なんだか欠伸をした。お互い大丈夫とかずっと言っていて、その場はトレモロのような単調なリズムを刻みだして、煙草の煙と、夕焼けと珈琲と眠気とで、淡々と夢に満ちているようにも思えた。


      *


 目が覚めるといつの間にか一時間は経過してしまっていて、福助はもういなくなっていた。ハゴロモが言うには、福助も持物を持って出て言ったということだった。時間ばかりが急速に過ぎ去ってしまっているようだった。

 夕焼けの空が過ぎ去って、部屋も暗くなってモニターと大きな南の窓だけが異様に明るかった。

 ハゴロモはまた、煙草に火をつけて、南窓の傍にあるソファーにドカリと飛び込んだ。

「嗚呼、良い!」

 相槌を打つ。

 ハゴロモはソファーの背の南窓を、身体を捩りながら眺めて言った。夕焼けから空は暮色に彩られていた。部屋はそこらじゅう真っ暗になって、今まで見えていたものが何だったのか分からなくなっていた。ハゴロモはハロゲンを籠から、からまっているコンセントを一生懸命ほどいてひとつ取り出した。そして差し込み口を探している。

「ねぇ、それ、それ取って。」

 そばにあったたくさんの延長コードの束の山からひとつ、投げて渡した。ハゴロモは胸で受け取ると楽しそうにして跳ねながらソファーの横の円卓にハロゲンライトを設置して何処でもない所を照らした。そして部屋はスタジオみたいな空間になって、ハゴロモはマウスをいじり、パソコンからフィッシュマンズを流して合わせて歌い始めた。ハゴロモは暇になるといつも気持ち良さそうにしてダラッとしながら何かしら歌っていた。それを見ているといつも自然と笑いが込み上げた。

「嗚呼、良い! この空。ほら、見て。なんでこんなに青いんだろうね。雲、ひとつもないよ。向こうの森、真っ黒で、向こうの家の建物だけなんとなくわかるけど、空だけこんなに明るい! 綺麗だよ――。でも何でこんなに明るいんだろうね。 ほら! 見て! いいなぁ! いいなぁ!」

「お前は、最後まで面白い奴だな。」

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ハロゲン 三毛猫 @toshim430

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