#3 後追い月

 今日も退社が遅くなってしまった。

 会社では校了が近づいており、担当した記事の校正作業に追われていたためだ。政治経済やファッションなどではなく、手芸分野とはいえ、週刊誌の刊行は忙しい。

 その上、つい先月から在宅勤務を解除させてもらい、オフィス勤務に戻ったばかりである。今までの忙しさは同僚や後輩に負担してもらっていたのだから、文句は言えない。


(延長保育にならないように急がないと……)


 延長による課金は、地味に家計を圧迫する。共働きでないと暮らしていけない、というわけではないが、子どもにちゃんとした教育を受けさせるには、共働きが必要だ。

 最寄駅に着くと、誰よりも早く電車から降りて、駐輪場へと向かう。もう夕日はかなり傾いていて、東の空には夜の帳が降り始めている。


 こうして、自転車を走らせること10分。


「こんばんは、いつもギリギリですみません……!」

「あ、真弥まやちゃんママ! いえいえ、大丈夫ですよ。まだ延長保育の時間にはなってないですし」


 保育士さんはそう言ってくれるが、毎日のように真弥が一番遅くまで残ることになってしまっているので、小走りで真弥達の元へと向かった。真弥は「ママ、おしごとおつかれさま!」と言ってくれる。その言葉だけで、思わず頬が緩むのを自覚した。


「真弥ちゃん、今日も元気でしたよ。ミミちゃんと仲良く遊んで、お弁当も残さず食べて。……あ、今日は、平仮名の『ま』が正しく書けたんです。いつも鏡文字になっちゃうのに。『や』はもう書けるから、お名前正しく書けるんですよ。お家でも褒めてあげてください」

「え、すごい!……はい」


 保育士さんとの話を聞いていたのか、真弥は「まや」と大きく書かれた画用紙を自慢げに見せてきた。私は真弥の頭を何度も撫でる。撫でる時の頭の位置が、前よりも少しだけ、高くなったように感じた。


 あぁ、成長したんだな。


 あれから、彼女は、こんなにも。



「ママ、おうちかえろ?」


 真弥の言葉でハッと我に帰る。


「そうだね、帰ろうか」


 真弥の画用紙を記念に持ち帰ってもいいかと聞くと、保育士さんは快諾してくれた。喜ぶ真弥に画用紙を丸めさせてから、自転車を置いた場所へと手を繋いで歩いていく。自転車の後ろに真弥を乗せる時も、昨日より少し、重くなったような気がした。


 なんでだろう。

 なぜ、彼女の「成長」をこんなに細かく、今日は感じるんだろう。



「ママ、きょうどうしたの?」


 真弥は私の表情や行動の些細な変化にも、気づくようになった。


 今までちょっかいを出されていたミミちゃんを守って、自分の遊びに入れてから、ミミちゃんはちょっかいを出されなくなったという。

 これからもそうやって、人間の翳りにいち早く気づいて、手を差し伸べるのだろう。平仮名の「ま」が書けるようになった手で、これからも。


 そしてその成長を、これからも私が見届けていく。

 そう、


「なんでもないよ。……今日、『ま』が書けたの、すごいじゃない」


 自転車を走らせる。東の空に月が見える。辺りはすっかり暗くなっていた。月明かりがぼんやりと、私達を照らす。

 途中まで、いつも通り鼻歌を歌っていた真弥が、急に「わぁっ」と歓声をあげた。


「どうしたの?」

「おつきさまがついてくる!」


 右手に見える満月が、私の自転車に合わせるようにしてついてくる。


「ねぇママ、とまって」

「今?!」


 慌ててブレーキをかければ、そこには動きを止めた月。


「うわぁ、とまったよ。ママ、こんどはぜんそくりょく!」

「ぜ、全速力は無理だよ」

「じゃあ、なるべくはやく!」

「もう……」


 ペダルを漕ぐ速度を早めれば、さっきよりも早く月がついてきた。

 当たり前のことだけど、不思議だった。


 当たり前のことなのに、真弥がはしゃいでいる。


 当たり前のことなのに、私は怯えている。

 ハンドルを握る手が、震えそうになった。



 ついてくるんじゃないかって。

 私が足を止めれば、あの人も足を止め。

 私が速く走れば、あの人も速く走る。


 私に追いつくことはなくても、ついてくるんじゃないかって、不安が押し寄せる。




 もとを辿れば、全てを奪ったのは私なのだ。



 あの人から、夫と真弥を奪ったのは私。



 どうしても、彼と真弥が欲しかった。




 あの人が、不倫しているって、彼が言うから。

 だから私は、彼と恋をした。

 彼の奥さんが不倫をしているなら、自分達の恋は汚れてなんかいないって、思っていた。

 親権も、ネグレクトを疑われて夫が持つことになった。だから真弥は、私の所に来れば幸せになれると信じていた。


 自分には子どもができないと、分かっていた。そのせいで、前の夫に愛想を尽かされた。

 一方で今の夫は、「真弥を愛してくれるなら、これ以上の幸せはないよ」と言った。真弥のことを心から愛せば、正真正銘私と彼の子どもになると信じていた。


 でも真弥は最初、私に懐かなかった。

 私のことをおばさんと呼び、「ママのところにもどりたい」と、毎晩のように泣かれた。

 それから私は、おばさんと呼ぶことを禁じて、無理やりママと呼ばせた。おばさんと呼んだら、おもちゃを取り上げた。


 真弥はもう、私をおばさんとは呼ばない。おもちゃを取られたくない故の、葛藤だったのかもしれない。

 だけど真弥の心の中には、いつも本当のママがいる。



「ねぇっ、おつきさまがどこまでもついてくるね!」


 ——ほらね。


 本当のママ——美月みつきさんのことを、今でも忘れられないんだ、真弥は。


 声まで震えないように気をつけながら、口を開く。


「そうだね……ついてきて、不思議だね」

「うんっ!」



 あの人は、私のことをどう思っているんだろう。

 彼との離婚届を書く時、泣いていたらしい。「真弥だけは取らないで」と、泣き続けていたらしい。


 あの月は、真弥を追い続けているんじゃないだろうか。



 真弥に触れることはもうなくても、いつまでも、いつまでも。

 どこまでもずっと、ついてくる。



 そう思うと、背中がじっとりと汗ばんだ。


「ママ?」

「ん?……早く、帰ろっか」

「うん」


 ママと真弥から呼ばれることで、やっと正気を保てる気がした。

 早く、早く、月が見えない所に行かなくてはならない。

 もう真弥の成長を見られないあの人から、真弥を隠し続けなければいけないと、思った。


 真弥のママは私。私だけだから。

 もう月なんて、見ないで欲しい。


 ペダルを漕ぐスピードをさらに上げて、月から逃げた。家が遠く感じる。あの坂を上りきれば、家だ。


 真弥は誰にも渡さない。

 真弥にもう、あの人のことを思い出させない。


 明日からは、月がはっきりと見えない時間に、真弥を迎えに行こうと決めた。

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