涙色の世界

第1話

「今日は、世界が終わるかな?」

 午前十時。幼馴染のルイの元を訪れた僕は、挨拶もなしに彼女にそう問いかけた。

 空は青く澄み渡り、遠くには入道雲が見える。外から聞こえてくる子供の笑い声と足音が軽やかに音を響かせて、僕は閉じられていたままの窓を開けた。外から吹いてくる風は温く、小さな蝉の鳴き声を連れてくる。窓枠に背を預け僕はルイの方を振り返った。小さな頃から見慣れている彼女の呆れたような柔らかい笑顔が僕に向けられていて、無性に目を逸らしたくなる。

「終わらないよ。まだ。終わるとすれば一週間は後だ」

「そう」

「まあ、君の世界は終わらないけどね。ずっと続いていく」

 女子高生にしては落ち着いた、けれど明るい声がそう続ける。彼女の声は夏によく似ていた。明るくて、爽やかで、それなのに一抹の不安と寂しさを感じさせる。途切れた会話を繋ごうともせず、僕は彼女を見つめていた。腰まである真っ直ぐな黒髪、硝子のように透き通った瞳、服の袖から覗く、力を込めたら簡単に折れてしまいそうなくらいにほっそりとした白い腕。

「……ルイ、その服って」

「似合っているだろう?私の好きな色だよ」

 口角を上げて笑顔を作った彼女が身に纏うのは、薄手の水色の服。確かに彼女には明るい色が似合うけれど、この服は少し違うな、と思った。もっと深い海のような青のほうがきっとよく似合う。そう考えながら、それを口に出すことはなく僕は曖昧に頷いた。彼女の服装に文句をつけるつもりなんて、初めから欠片も無い。

 それから僕らは、一時間くらい話をしていた。今思えば彼女とは幼い頃から他愛もない話をしてばかりだ。小学生の自己紹介のような話から、好きな映画や、好きな言葉の話まで。何年も前に彼女が『誰かのことを知りたければ、好きなものだけじゃなく嫌いなものも知るべきだ。そうしてようやく人は他人のことを理解出来る』と話していたのをふと思い出して、嫌いな食べものについて聞いてみたり。

「私は小説と童話どちらが好きだと思う?」

「どちらかというと小説。でも一番好きなのは絵本」

「よく分かったな」

「ルイは昔から変わらないよね、幼馴染の僕が知らないことってほとんどないんじゃない?」

 彼女と二人、こんなくだらない話をしている時間が僕は好きだった。時計の針がゆっくりと進んで、一秒一秒を刻み込んでいるように大切に感じる時間は、けれどあっという間に過ぎていく。壁にかけられた時計を見て、僕は椅子から立ち上がった。

「そろそろ行くよ」

「ああ」

「……じゃあ、また」

 彼女に背を向けて、僕は外へと向かう。一枚のドアが僕と彼女を隔てたとき、どうしようもない寂しさを感じて、僕はそれを振り払うように足早に外へ出る。まだ明るい空がこの場にそぐわないくらいに青く晴れ渡っていた。



 三日ほど開けて、僕はまた彼女の部屋を訪れた。ベッドに座って大きな本を開いていた彼女の細い腕が揺れて、僕はそれに手を振り返す。 昨夜から振り続けている雨がまだ止まず、扉を叩くように窓にぶつかっては雫は下に落ちていく。イラストで描かれる涙に似た形をしたそれは妙な物悲しさを誘ってくるようで、僕は座ることも窓枠にもたれかかることもなくしばらくの間黙り込んでいた。けれど、やがて彼女がほんから顔を上げて僕のほうをじっと見ていることに気がついて、部屋に落ちた静寂を破るように僕は言葉を投げかける。

「今日は、世界が終わるかな」

「……きっと終わらないよ」

「そう。何を読んでいるの?」

 彼女が本を持ち上げて、表紙を見せてくれる。『世界の石図鑑』。すぐに腕を下ろして再び読み始めた彼女を見つめて数分が経っても、ページをめくる気配がない。不自然にならないように少しだけ体を動かして彼女が開いているページを見ると、どうやらずっと読んでいるのはパパラチアサファイアのページらしい。ピンクに近い色合いの綺麗な石で、数多の宝石の中でも硬く希少なものだ。パパラチアには蓮の花という意味があって、泥中で咲く蓮のように美しく輝く。

 彼女は黙り込んで図鑑を見つめ、僕は目だけを動かして部屋を見回す。ベッドサイドのテーブルには花の図鑑が置かれているのが見えた。石言葉や花言葉、数え切れないほど沢山の物に意味が与えられているのは素敵で面白いのだといつか言っていたはずだ。図鑑の中に僕の名前を見つけた、と嬉しそうに教えてくれたこともある。

 彼女は同じページを開き続けて、僕は窓と彼女を交互に見つめる。あまりに静かなこの部屋は、ひとつの小さな世界のように閉じられている。

 まるで、世界の終わりのように静かな日だった。



 前回から随分時間が空いてしまって、再び彼女を訪れたのは一週間後だった。変わらない時間にドアをノックしても返事はなく、出来る限り音を立てないよう静かにドアを横に引く。外と隔絶されたような静けさの中で、彼女は眠っていた。テーブルに突っ伏すようにして目を閉じていて、傍にはメモ帳が、その手には見覚えのあるボールペンが握られている。

「ルイ」

 肩をそっと叩くと、小さく声を漏らしながらルイがゆっくりと瞼を開く。体を起こし数回瞬きをして、欠伸をしながら僕の方を見る。まだ眠そうな目をしている彼女は、僕を認識しているのかいないのかぼんやりとした声で呟いた。

「……映画を見ていたんだ。つい夜更かしをしてしまった。その映画で、世界は跡形もなく滅んでいた」

 ひとつのことに打ち込み始めると止まらない彼女のことだから、真夜中までずっと見ていたのだろう。何かを考え込むように黙り込んでしまった彼女に、少し間を開けて返事をする。

「なら今日、世界が終わるのかな」

「どうしてだろうね、君のその問いを肯定してはいけないような気がするんだ」

 首を横に振って、彼女は諦めの滲む表情を見せた。どうしてか分からないまま、きっと彼女は僕の問いかけを否定し続ける。彼女の言葉になんと言えばいいか思いつかず僕はひとつ頷く。否定でも肯定でもなく、ただ空っぽな間を埋めるためだけのもの。

「その、メモ帳。何を書いてるの?」

「これに書くものなんて決まってるだろう?ただのメモだよ。取るに足らない、忘れてしまってもいいもの」

「……わざわざ書くのなら、忘れたくないものなんじゃないかな」

 忘れてしまってもいいのなら、人は何かを書いたりしないだろう。物語を書き、人の一生を書き、石について、花について詳細を書き、それは全て覚えておくためだ。あるいは自分はこんなことを知っていたんだ、と後の誰かに知ってもらうためだ。

 メモ帳とボールペンを放り込んだ引き出しを閉めようとした手を一瞬止めて、彼女が僕を見上げる。

「そう思うか?」

「眠気を堪えながら書いていたのなら、きっと」

 少なくとも僕の知る彼女はどうでもいいことをメモするような性格はしていなかった。少し逡巡したあと、彼女は引き出しから手を離して口を開く。

「……君は」

「なに?」

「……いや、いい。何でもない」

 首を横に振って、それきり何も言おうとしない彼女に言葉の意味を問いかけることはせず、僕は他愛のない話を持ちかける。今日の天気。ニュースの話。家の近くに住む野良猫のこと。どれも明日には忘れてしまうような話ばかりだ。メモをする必要も、脳に置いておく必要も無い話。しばらくすると彼女が備え付けのテレビで映画をつけて、一時間と少しの間、僕らはじっと黙り込んでいた。



 翌日僕は、ある連絡を受けて彼女のもとに向かっていた。焦る心を抑えられず、いつになく早足で。空はどんよりと重く、いつ雨が降ってもおかしくないような天気に気が滅入りそうになる。どうせ嫌な気分なら晴れている方がまだましだったかもしれない。

 一か月前よりも痩せた彼女の姿が、まるで小さな少女のようだった。部屋に一人ベッドの上に座り込んで、僕が扉を開けて彼女のそばに駆け寄ってもこちらを見ようとはしない。曇天をじっと見上げたまま、やがて口を開く。

「……私は、恐らく今日死ぬ。だから、君に聞きたいことがあるんだよ」

「うん」


「君は、誰だ」


 一瞬、息が詰まる。

 けれど。けれど、彼女がこう言ったのも当然だ。彼女からすれば僕らは赤の他人なのだから。彼女は、何も覚えていないから。


 彼女の、水色の入院服。

 彼女の、痩せこけた力のない腕。

 彼女の、欠けた記憶。


 どれもこれも、一ヶ月前にはなかったものだ。彼女が今日の午後に手術をするのだと知らせてくれたルイの母親と一ヶ月前に交わした会話を思い返す。

『あの子は記憶喪失になってしまったの。けれど、お願い、今と同じ関係で、恋人のままで、いてくれないかしら。あの子がいちばん望むかたちで』

 彼女は言った。恋人のままでいてくれ、と。

 ルイは僕の幼馴染だ。ルイは、僕の恋人だ。だから僕は彼女のことをなんだって知っている。好きな食べ物も、音楽も、言葉も、自分自身のことを嫌っていることだって、知っている。

 だから、彼女がいちばん望むかたちも、分かっているつもりだった。

『ルイは昔から変わらないよね、幼馴染の僕が知らないことってほとんどないんじゃない?』

『……ああ。そうかもしれないな』

 恋人ではなく、幼馴染として。空っぽな彼女にその関係を定義したのは紛れもない僕自身だ。恋人であると伝えてしまえば、僕はきっと彼女に触れてしまった。警戒心の強い彼女がそれを嫌うのを知っていても、きっと止められなかった。

 だから、嘘をついたのだ。彼女のために。ルイが、いちばん望む関係のために。

 ぼくの、ために。

 そう、だから、彼女の口からこんな言葉を聞く日が来ることだって理解していた。初めから、ずっと。

彼女の声が、好きだ。夏のようなその声が、心の底から愛おしい。その声に恐れと警戒が滲むのが嫌で、僕は僕が浮かべられるいちばん誠実な笑顔で答えた。

「友達だよ。初めまして、ルイ。ずっと挨拶しなくてごめんね」

 にこりと笑って、彼女と視線を合わせる。僕を見つめる彼女の頬に涙が乗っているのが見えた。窓から差し込む光がきらきらと輝かせて、けれどなぜ彼女が泣いているのか分からない。何も覚えていないルイからすれば、僕の言葉は意味の分からない戯言のはずなのに。

「どうして、泣いているの」

「分からない。分からない、けれど、でも」

 忘れてはいけなかった気がするんだ、と細くかすれた声で言われて、僕は無意識のうちに彼女の手を握った。そんな声を出さないで、悲しい声は君には似合わないから。そう言いたくて、代わりににこりと微笑む。心の内で暴れる感情を抑えるための、取り繕ったような笑顔に見えていなければいい。

「大丈夫。もう一度覚えてくれたらいいよ。前にも言ったかもしれないけど、僕らは幼馴染なんだ」

「本当に?」

「うん。本当に」

 望みすぎてはいけない。願いすぎてはいけない。きっとあのとき、僕は僕自身の手で彼女との大切な関係を捨てたのだから。

「……そういえば、君の世界は、どうして終わるんだ?出会った日からずっと、そんなことを言っていただろう?」

「君に言われたんだよ」

 彼女の病について、初めて話を聞いたときのことだ。記憶に障害を持つかもしれないと告げられたのも同じとき。まるでなんでもないことのように、淡々と余命を告げる彼女に僕が何も言えなくなって、それなのに彼女は笑顔さえ浮かべてみせた。

『まるで世界の終わりのような顔をするんだな、お前は』

『―――私の余命が、あと一ヶ月だからって』

 そう言われて、唐突に納得したのだ。僕の世界は終わるのだと。彼女が死んだとき、この世界は砂の城のように崩れ落ちて、跡形もなく消えてしまうのだと、そう思ったのだ。だから僕は、彼女に向かって続けた。

「君がいないと、僕は世界の終わりみたいな顔をするらしい。だからきっと、世界は君と一緒に終わってしまう」

 僕との記憶を失ってしまった彼女には、僕の言葉のほんの一割でさえ理解できないだろう。それでよかった。もし彼女が何もかも覚えていて、僕のことを何でも知っている彼女だったら、女々しいやつ、なんて笑われてしまっただろうから。分かって貰えない方が、そのほうがずっと楽だった。そうあるべきだった。

 なのに。

 それなのに。

「……君も、泣いているじゃないか」

 彼女が苦笑いをしながら、涙の滲んだ瞳を和らげて僕の頬に手を添えた。涙を拭うように優しく手を動かして、知らない僕のことをぎゅっと抱きしめてくる。

「大丈夫。君の世界は終わらない。私がどうなっても、明日は始まって、君は生きていく」

 大丈夫、と僕が彼女に掛けた言葉を繰り返してルイはそう言った。明日が始まって、僕は生きていく。朝が来ることを拒んでいた僕が、たった一人、ルイのいない朝を迎える。それはまるで嘘のように現実味の無い話で、それなのに、きっとそうなるのだろうと思ってしまうことが心の底から悲しくて、僕は彼女の背に腕を回した。

「大丈夫、大丈夫。思い出せなくたって分かる。君は私の大切な人だ。強くて、優しくて、大好きだよ」

 微かな寂しさと慈しみの滲むその声に、彼女の瞳を真正面から見つめる。愛しい人。世界で一番、大切な君。

「ルイ」

 ずっと言いたくて言えなかった言葉を、君に伝えたい。

「ずっと、愛してる」

「私も、君を愛している。死ぬまでずっと」

 涙とともに彼女の笑顔が綻んで、僕らはようやく、大切な関係を取り戻せたような気がした。



 彼女が亡くなり、あっという間に葬儀が終わった。強かで、それでいて弱かった彼女がもうこの世界にいないことを受け入れるのは難しく、ただ呆然としている僕をよそ目に地球は回り続ける。知らぬ間に夏が終わって、秋が近づいていた。僕が彼女の死を受け入れられるようになるのは、きっともう少し後のことだろう。今はまだ、実感が湧かない。幼い頃からずっと近くにいてくれた存在がどこにもいないという事実が少しずつ僕の胸を巣食って、ぽっかりとした穴を開ける。

 そんな僕が彼女の部屋を訪れたのは、名前の付けられない喪失感を抱えてから数週間が経った頃だった。朝のうちに彼女の家に向かい、部屋に入らせてもらう。綺麗に整頓された部屋には図鑑や彼女の私物が置かれていた。彼女の母親が開けたのだろう、窓からは朝の涼しい風が吹き込んでくる。

 ベッドサイドのメモ帳が風に煽られてめくれ、最後のページに辿り着く。一番弱い筆跡で綴られた花の名前が、ふわり、風に揺られる。それは、大切なもの。覚えていてほしいもの。自分が覚えていたことを示すためのもの。

 忘れたくない、もの。

「……ルイのばか」

 そのメモ帳にそっと触れて、僕は目を閉じる。思い返すのは彼女との大切な思い出ばかりだ。話したこと。遊んだこと。喧嘩したこと。恋人になったこと。全てが、何にも変え難い思い出だ。

 死んだ世界で、僕はきっと明日も目を覚ます。何も変わらない朝だ。外からは鳥の鳴き声と車の走る音が聞こえて、布団に潜り込めばスマホのアラームが時間を知らせて、それを無視すれば母が扉を叩きにくる。そうしてまた新しい一日が始まる。単調な一日がずっと繰り返されていく。

「……おはよう、涙香」

 この涙ひとつあるだけで、世界は容易に生き返る。

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