さくら

小林研輔

第1話


 カリカリ、カリカリと。鉛筆が走る無機質な音が部屋に響く。

 絵を描いていたのは、小柄な少年だった。不健康そうで全体的に身体の線が細く、車椅子に乗っていることも含めて、如何にも『病人』だと主張しているかのようだった。

 少年は狭い病室の中で、鉛筆で薄く下書きを行っていた。

 暫く無言で鉛筆を走らせていたが――、ふと何か思い悩んだような顔で指を止めた。


「…………はあ」

 

 溜め息ひとつ。鉛筆を下ろし、紙の中間あたりを両手で持って、描いていた下書きごと紙を破こうとした。

 しかし、白黒の絵が真っ二つになる事はなかった。


「え、やめちゃうの?」

 

 背後からの銀鈴の声で、ぴたりと少年の動きは静止した。女性らしい高めの声だった。

 

「?」


 声のした方向へ上体を曲げると、そこには見知らぬ少女が少年をじっと見つめながら立っていた。可愛らしい顔に意外そうな表情を浮かべている。

 黒を基調とした制服を着て鞄を肩にかけていた。ここら辺ではあまり見ない制服だ。そして矢張り彼女には全く見覚えがなかった。 


「……えっと、どちら様ですか?」


「あ、ごめんなさい。勝手に観ちゃって。何かイヤだった?」


「いえ、そういう訳ではないのですが……」

 

 一応敬語で喋る少年に、恐らく初対面の相手にフランクにため口で返す少女。

 

「まあ私の事より、これ、何で途中でやめちゃうの? 綺麗な桜じゃん」

 

 これ、と下書きを少年の手元から勝手に奪って眺める少女。彼女は如何やら気に入っているらしいが、少年本人は不評だった。

 少女の顔から視線を落とし、自虐のように口を開いた。

 

「……別に、上手いとか下手とかそういう話じゃないんです」


「じゃあ何でやめちゃうの?」


「僕はあまり桜を見たことがないので」

 

 素っ気なく告げる。同時に、この人は一体何なんだろうという疑問が今更ながら湧いてきた。

 やや不審者に対するような心境を知って知らずか、少女はグイグイ言葉を重ねた。

 

「桜を見たことないの? 何で? ――ああ、まあ確かにここら辺じゃあんまり見ないか。全然桜植えてないもんね」


「まあ、見たことがないというか……、小学生ぐらいの時に一度母に連れていってもらったぐらいです。それ以降、一度も桜は見ていません」


「ああ、そういうこと。ん? じゃあ何で見てないものを描こうとしたの? しかも、もう桜散ってる時期だけど」

 

 当然の疑問を口にする少女。


「ああ、今日は母の命日だったんです。一度だけ桜を見せてくれた母に桜の絵を描こうと思ったのですが……、なんとなく納得できなくて」


「ふーん、そうだったんだ」 


「ところで、貴女は誰ですか?」


「私? 私は風花ふうか


「ここの病院の人ではないですよね。どっから来たんですか?」


「私はここら辺に住んでる訳じゃないんだけど、おばあちゃんが入院してるの。度々ここに来てるんだ。偶々きみの絵が目に入って見ちゃった。ごめんね」


「もういいですよ。盗み見は感心しませんが」


「ごめんって。――ね、きみの名前は?」


 そう言えば名乗ってなかったな、と隠す事もなく話した。


「僕は春哉はるやです」


 名前を聞くと、風花はふわりと花が綻ぶように笑った。 


「そっか。よろしく、春哉」

 

 風花から手を差し出される。その手を握ると、彼女はまた一段は愛らしい笑顔を浮かべた。

 こうして、春哉と風花の交流は始まった。




 ――――――――



 

「春哉はどうして絵を描いてるの?」


「母が絵を描いていたので、その影響です。昔から病院での生活でしたので、ただ暇つぶしにやってみると、思いの外はまってしまって」


 風花は週に一回ほどのペースで春哉の病室を訪れた。彼女は現役高校三年生らしく、電車でここまで通っていると聞いた。定期券があるので金銭面はあまり負担になってないようだ。


「ねえ春哉、これ見て」


 風花は病室で会う度に何やら色々なものを持ってきた。飴玉だったり、漫画だったり、ゲーム機だったり、或いは雪や葉っぱなど、季節を運んでくれる。


「ね、春哉。絵描いてよ。絵」


 何故か時々、彼女は春哉に絵をねだった。三つ年上の女子高生が甘えるような声と仕草をするのは妙に違和感があった。

 特に断る理由もなく、春哉は桜以外の絵を描いた。

 ――ある時は夏の快晴を。

 ――ある時は雪の積もった冬の木々を。

 ――ある時は秋の紅葉を。

 春以外の絵を、描いた。

 普段は騒がしいとまではいかずとも、春哉に比べれば随分と爛漫とした風花が、絵を描く時だけは嘘のように沈黙しており、何も聞かず何も言わずじっと筆を動かす春哉を見つめていた。

 仕上がった絵を渡すと、嬉しそうにしながらも、どこか困ったような顔をしていた。

 その表情が胸につっかえて、もやもやとした気分になった。

 ある日、そんな春哉の胸中が伝わったか、気紛れか、風花はかつての夢を語り聞かせてくれた。


「春哉。私ね、昔画家になりたかったんだ。でも才能なくてすぐやめちゃった」


 初耳だった。というか、あまり彼女は自分のことを語ろうとしなかった。

 

「才能なくてって……」


「まあ元々ちょっと先生やクラスメイトに褒められて始めただけだから、特に未練とかはなかったんだ。だけど、やっぱり絵は好きだった。春哉の絵を見てると、そんな気持ちが沸々と湧き上がってくる。好きだけど、その才能がちょっと羨ましい」


「…………」


「ごめんね。こんな話聞かせて」


 そう言って風花は珍しくくしゃりと苦笑いした。

 自分の絵が彼女にそんな影響を与えていたなんて、全く知らなかった。いや、知っていた所で、それでも春哉は絵を描いていただろう。春哉もまた、絵が好きだから。

 それに対し春哉が何か言葉を重ねる前に――、先に風花が切り出した。 


「諦めて、もう絵は描かないって決めてた……。春哉に会うまでは」


「僕に……?」


「うん。春哉は病気でここから出られない。それでも自分が出来る事を必死に探してる。春哉に比べれば、私はなんて贅沢なんだろうって思うようなったんだ」


「…………僕は、別に、ただ絵が好きだから描いてるだけで……」


「春哉がそうでも私はそう思った」


 ベッドに手を置き、ぐいっと身を乗り出して春哉の眼前に迫った。


「春哉。私もう一回夢を追いかける事にした」


「画家の夢を……?」


「うん。美大に行く事にしたんだ」


 右手をすっと春哉の頬に伸ばし、薄い硝子細工に触るようにそっと撫でた。


「ありがとう、春哉。きみのお陰で私はまた夢を追える」


 彼我の顔がキスまであと五秒、といった距離まで近づき、春哉が顔を反らして両手で風花の顔を物理的に制した。

 紅潮した顔を見られないように。


「……や、やめて下さい」


 そういうと、存外彼女はあっさりと身を引いて微笑んだ。揶揄っていたのか、本気だったのか、真偽は不明だ。

 拗ねたようにシーツに包まってベッドに潜り込む春哉。すると、風花は、


「ねえ春哉。次の春、一緒に桜を見に行こうよ」


 と急に話題を切り替えた。もぞもぞっと小動物のようにシーツから顔をだした春哉は、「何ですか、突然」と若干まだ照れの混じった表情で返した。


「春哉、一回桜を見たことないんでしょ? じゃあ私が見せてあげる。美大の受験に受かったら、二人で見に行きましょ。約束」


「…………ありがとう、ございます。でも気を遣わなくていいですよ」


「一緒に行きたいの。春哉と二人で」


 そう言って、彼女は病室を後にした。

 風花が扉を閉めて、完全に姿を消した所で、春哉は彼女の歩いて行った方向を見つめて微笑んだ。 


「――そうですね。僕も貴女と行きたい」




 ――四ヶ月後。風花は死んだ。





 ――――――――



 その日、風花は午前中の講義だけ受けて、春哉と共に花見をする約束をしていた。

 そして帰り道、居眠り運転していたトラックにはねられて死んだ。

 即死だった。

 そのニュースを見た春哉は、普段からは考えられない必死の形相で走り出していた。結果、十歩も歩けずに看護師から捕らえられて病室に戻された。

 無理が祟って病態がやや悪化したが、それでも春哉の命に別条はなかった。いっそこのまま、とは思ったが、看護師や医者の前でそんな事は言えなかった。

 被害者の顔写真がネットに報道されていた。もう、今更関係なかった。


「僕の、せいだ……」


 ぽつりと。唇から水滴のように言葉が伝って消えた。


「僕が絵なんて描くから……」


 ――絵を描かなければ。

 風花は美大に行くことなんてなかった。どこか別の大学に行って、平穏無事の暮らしを送っていた筈だ。

 いや、そもそも。


「僕と出会わなければよかった……。夢を夢のままで終わらせればよかったんだ……」


 ぽろぽろとしょっぱい後悔の味をした涙が零れ落ちる。

 どうしようもない、覆しようのない過去が春哉を蝕んでいく。

 絶望と後悔の狭間で揺れる春哉に――ふと、ふわりと風が撫でた。

 まるで、あの日自分を撫でてくれた風花の手のように。


「……風花さん?」


 開けた覚えのない窓が開いていた。そして、棚の上に置いていた飴玉がことりと床に落ちた。

 風花から貰った飴玉だ。


「…………」


 飴玉が指差すように一番下の引き出しの近くに落ちていた。

 のそりとベッドから降りて引き出しを開けた。


「――――――――」


 そこにあったのは、一枚の絵だった。

 春哉が途中まで下書きして、そしてやめた――あの白黒の絵。風花に奪われたままだった、あの絵。

 いや、もう白黒ではない。


 ピンク色の絵の具で、色鮮やかに桜の花が描かれていた。


 春哉に比べれば少し拙くて、不器用な線で――それでも桜が描かれていた。


 ――そうか。


「う、ううっ……」


 ――約束は……守られていたのか。


「うああああああ…………」


 その場に崩れ落ちて、泣きじゃくった。心から涙が溢れて溢れて止められなかった。泣く以外に、この感情の表し方を知らなかった。

 泣いて、泣いて、泣いて――また、春を知らせる花信風が春哉を包むように吹いた。

 

 


 桜が咲いている。

 大きく風に揺れて、花束になるぐらい桜が散っていき、大空へと舞い上がった。

 飛んでいけ、飛んでいけ。遠く遠くの小さな彼の下へ。

 私の春の下へ。

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さくら 小林研輔 @kobayashi6015

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