第8節(その3)

 そんなユディスを威嚇するように、怪物はもう一回だけ金切り声をあげる。ユディスは固唾を呑み、おのれを奮い立たせてどうにかその場に踏みとどまる。

 傍目で見ていれば、彼女だって平然としているわけではなく、やはり内心では恐れを抱いていたのかも知れない。それでも彼女は泣きごとも言わず、剣を手に悪鬼に向かってじりじりと間合いを詰めていくのだった。

 そうやって両者はしばしにらみ合う。先ほどまでの話を聞いていなければ……いや、聞いていたとしても、それが元々は化け物などではない、普通の人間の成れの果てなのだとまるで想像だに出来なかっただろう。次の瞬間、怪物は爪をふるって、一挙に間合いを詰めてくる。

 ユディスはさっと横に身をひるがえし、一歩脇に引いた。狙った獲物が視界からそれたかと思うと、怪物が次に見定めたのはとっさのことに泡を食い、立ちすくんだままのマティソン少尉だった。あっという間に間合いを詰められると、少尉はものすごい膂力で思い切り横殴りに殴りかかられ、床に投げ出されてしまうのだった。

 その爪が、床に倒れ伏したマティソンにさらなる一撃を繰り出そうと振り上げられたとき、ユディスが間に割って入り、化け物の眼前に剣をかざした。

 化け物はユディスとの間合いを詰めようとするが、やはり剣に怯えているのか、どう接近したものか考えあぐねている様子であった。

 だが、ただ黙って手をこまねているだけではなかった。ユディスもすぐには気付かなかったが、いつの間にか白い悪鬼は、その口を動かして、しゃりしゃりと金属片をこすり合わせるような不快な声で低くうなるように何事かをつぶやいていたのだった。

 悪鬼の両手が、青白くぼんやりとした光を放ち始める。

「まさか、呪文を詠唱した――!?」

 ユディスが慌てて引き下がろうとするが、化け物が一歩踏み出してくる方が早かった。化け物は青白く光る手でひとおもいにユディスの剣に掴みかかり、脇へ押しやったかと思うと、空いたもう一方の手を、手刀のようにしてユディスの右腕に振り下ろしてきたのだった。

 固い棒切れで殴られたかのような重い鈍痛が走って、ユディスは思わず剣を取り落としてしまう。彼女が身を守る武器を手放してしまったとみるや、悪鬼は両腕でユディスの首に掴みかかって来たのだった。

 掴まれた勢いのままユディスは後ずさったかと思うと、部屋の柱に背中から押し付けられた。そのままものすごい膂力で締め上げられると、彼女はそれを振り払うべく、無駄を承知で悪鬼の両腕を掴んだ。そもそもが冷たいうろこに覆われた表皮を無造作に素手で掴んでよいものか抵抗はあったが、そのまま首を絞められるに任せておくいわれもない。ユディスにはどうにかして悪鬼の腕をこじ開ける必要があった。

 無論、彼女とて鍛え上げた屈強な戦士ではないから、必至に力を込めたところで限界はあった。それでも表情を苦悶にゆがめながら懸命にあらがおうとする中、いつの間にか今度はユディスの手がほのかに輝きを放ち始めるのだった。

 ユディスが両手にそっと力を込めて悪鬼の腕をおのれの首から引き剥がす。それまで相当な膂力で締め上げられていたのに、ひどくあっさりと脇に押しやることが出来た。

 ユディス自身も半信半疑だったが、悪鬼は押しやられた腕をだらりと下げたまま、悪鬼は無防備に直立した状態となった。

 やすやすと拘束を解いたその次には、ユディスは右手をまっすぐ前方に伸ばし、相手の胸部をとらえる。かろうじて人間の乳房を想起させるようななだらかな隆起の、その少し上の辺りの表皮のうろこをそっと指先で押すと、彼女の指先が胸部にめり込んでいく。

 それはまるで泥細工の中に腕を突き入れるような――いや、それよりもなお抵抗なく、すっと指先は差し入れられていくのだった。それはまるで水の中から何かを掬い上げるように、ユディスは指先に触れたかたまりをそっと掴んで、自分の側に手繰り寄せた。

 彼女が悪鬼の身体からひきあげたもの……それは、心臓であっただろうか。

 そこに至ってユディスの腕はいよいよ赤く輝いて、手にしたかたまりもまた次の瞬間真っ赤な炎に包まれる。傍目で見ている分にはそれは溶けた硝子細工のようにどろりとしており、肉のかたまりのような生々しさは微塵もなかった。やがてそれが彼女の指の間からとろりとこぼれ出したかと思うと、しずくになって床に落ちるより前に、さらさらとした砂のようなものになって崩れていく。

 ユディスが手にしたかたまりのみならず、悪鬼自身も、彼女ににえぐられた胸部の穴から順に、徐々に灰になってぼろぼろと崩れ落ちていくのだった。

 やがて、その全身がさらさらと崩れ落ちていくまでにどれほどの時間もかからなかった。すっかり形を失った頃、ようやくユディスは、気が抜けたようにその場にへたり込んだ。

 悪鬼の姿はもうどこにもなかった。一連の成り行きの中で、ベオナードは自身が言った通り結局傍観を決め込んでいたばかりで、何の手出しをすることなく終わってしまった。彼はただ、静かに泣き崩れるユディスの背中を黙って見守るだけだった。

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