第8節(その2)

「来た」

 ユディスが短く呟いた。

「来たって……何が?」

 少尉の質問にユディスもベオナードも何も答えない。少尉自身も、何も本気で分からないから質問しているわけではなかった。

「その……彼女は」

 マティソンは震える声で問う。

「ええと、彼女、という言い方であっているとして、ここに来るんですか。どうして? いったい何をしに?」

「分からない」

「僕は今からでも逃げた方がいいですか? ここの管理人さんは? 他の部屋の住人は? 隣にもう一部屋ありましたよね?」

「お隣は空き部屋だから気にしないで大丈夫。無関係な者は襲わないと思う。でも現れたその場に居合わせたら、その限りかどうかはわからない」

 ユディスがそう説明したと当時に、強い風がごうと吹いて、窓ががたがたと耳障りに強く音を立てるのが分かった。

 マティソンは無言のまますがるようにユディスを見やり、次にベオナードを見やる。

 その時だった。玄関のドアを軽くノックする事が聞こえた。

「ユディス、大丈夫ですか? 急に天気が――」

「アンナマリー! 部屋に戻って鍵をかけて! 風が収まるまで絶対に出てきてはだめ!」

 戸口から聞こえてきた声に、ユディスは乱暴に怒鳴りかけると、大股で玄関に歩み寄り、ドアをあけた向こうに立つ老婦人に向かってもう一度同じ言葉をものすごい形相でまくし立てた。

「ユディス、一体何を……」

「早くッ! 言う通りにして、絶対に朝まで部屋を出ては駄目」

 面食らったアンナマリーが黙って引き下がったのは、ユディスの常軌を外れた態度のせいか、彼女が手に握りしめていた剣のせいだっただろうか。老婦人が引き下がっていくのもそこそこにユディスは後ろ手にドアを乱暴に閉めると、マティソン少尉をちらりと見やり、そしてベオナードをじっと見やる。

「俺は何もしてやれん。しっかりとやるんだぞ」

「分かっている」

 そういうとユディスは慎重に剣を抜き放つ。ベオナードの昔語りに散々言及された、血のように真っ赤な刀身が今この場であらわになった。

「何もしてやれないって……どうしてですか。なぜユディスが」

「いいから少尉、黙って見てなさい。……魔道士アドニス・アンバーソンの、その本当の最期の時を」

 もう一度風の音がごうと吹き付ける。いや、今度はその風の音に交じって、何とも名状しがたい、悲鳴に似た金切り声がどこかから響いてくるのが聞こえた。

 それは先ほどよりもずっと近いところから聞こえてきた――ように思えた。

 もはや誰も口をきかない。風の音はいよいよ耳障りに唸るような音色に変わり、窓枠が先ほどからカタカタと苛立たしげな騒音を鳴らし続けていた。それが次第にがたん、がたんと大きな音になっていったかと思うと、ほどなくしてまるで誰かが外から叩いてでもいるかのようなバンバンというけたたましい音に替わっていく。

 いや――。

 みれば本当に、窓の向こうに薄ぼんやりと人型の影が浮かんでいるのが見えた。

 ひっ、とマティソンは情けない悲鳴をもらす。

 次の瞬間――ばん、とひときわ大きな音がして、一拍間を置いたその次には、けたたましい音を立てて窓ガラスが破られたのだった。

 風が一挙に室内になだれ込んでくる。背後で雷鳴がとどろき、窓枠を何かの影がゆっくりと乗り越えてこちらに――三人のいる室内へと侵入してくるのだった。

 マティソンは二回目の悲鳴をどうにかしてぐっと飲み込んだ。そこに立っていたのは、そこまでに聞いた話にも合致しない、見た事もない異形の者だった。

 身にまとった白い布切れは死に装束だっただろうか。破れた袖口を風にひらひらと漂わせながら、幽鬼のごとくうっそりとした足取りでこちらに一歩近づいてくる。全身を覆うのはやはりうろこなのだろうか、えも言われぬ怪しげな光沢を放つ手足の表皮は雪のように真っ白だった。

 蛇のような細長い光彩の眼差しで、異形の怪物はこちらをじっと見つめていた。息をつめて見守るマティソンたちをまるで威嚇するように、目の前でこの世の終わりのような悲しげで、そしてけたたましい金切り声を上げる。それは長く長く響き渡って、目の前に立つ人々の心胆を奥底から震え上がらせるのだった。

 いや、恐れおののいて震えていたのはマディソン少尉ただ一人だったかも知れない。後ろに立つベオナードは悠然と構えていたし、先頭に立つユディスは血のように赤い剣をまっすぐに構えたまま、怯みもせずに怪物に真正面から相対するのだった。

 そんなユディスを威嚇するように、怪物はもう一回だけ金切り声をあげる。ユディスは固唾を呑み、おのれを奮い立たせてどうにかその場に踏みとどまる。

 傍目で見ていれば、彼女だって平然としているわけではなく、やはり内心では恐れを抱いていたのかも知れない。それでも彼女は泣きごとも言わず、剣を手に悪鬼に向かってじりじりと間合いを詰めていくのだった。

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