魔法使いの右腕

若き科学者と魔女 第２話

アッシュが操るブイトールは、アルテミスシティの天井近くで旋回すると再びハイヤーエリアを目指して移動を始める。

　気づけば空は夕方になろうとしていた。ライトの投げる少し焼けた色の光に、街もうつむいたみたいな影を落としてる。

　なぞって遠くへ視線を向けたなら、見えてきたのは泡のドームの天井にぽっかり空いた大きな穴だった。そこがハイヤーエリアに続く入り口だと分かったのは、ちょうどと上から同じようなブイトールが下りてきたせい。

「どうやらポリスらしいね」

　アッシュが見送りながら呟く。とたんドキリとあたしの心臓は跳ね上がった。

「もしかして、あたしを探してるのかしら」

「ハイヤーエリアへお嬢さんを？　それはちょっと考え過ぎだと思うけどね。てことでお嬢さん」

　さらりとかわしたアッシュは口調を変える。

「お嬢さんたちはここから先、俺の引き連れる取材クルー、ってことでついてきてもらうつもりだ」

「それってあたしに嘘をつけ、ってこと？」

　あたしは思わず眉をひそめ返す。だけどアッシュは、大丈夫、大丈夫、なんて呑気なもので、振った指で天井に空けられた穴へブイトールを上昇させていった。潜り抜ければもう一つ、連なるドームに囲われハイヤーエリアは月面に生えたキノコみたいに現われる。そんなドームの外には冷ややかと、暗く宇宙が貼りついてた。つまり宙に浮かんだエリアに地面なんてない。代りにドームの端と端をつないで橋が、幾重にも交差し積み重なって渡されてる。様子はまるでキノコの傘を支える支柱のようで、やがて橋の上に衝突防止のランプを灯した建物は姿を現した。

　かわして橋と橋の隙間をぬいながら、アッシュはブイトールをさらに上昇させてゆく。ときに降りてくる機体とすれ違いもした。かと思えばあたしたちを追い抜き上がってくブイトールもいて、気付けばドームは金魚鉢みたい。あたしたちはそこに漂う魚となる。

「おお、このような場所もあるのでございますねぇ」

　窓にはりついたきりのロボもすっかり感心していた。

　背にアッシュは、ブイトールの着陸場所を確保してる。

「それではワッツ技師、指定しましたブイトールパーキングへ侵入下さい」

　まもなく通信から聞こえてきたのは、同じ魔法使いの声。互いに転写御魔法で声を呼び寄せ合っているのだから間違いい。同時に橋のひとところでランプは点滅を始め、向かってブイトールで近づいてゆけば、橋こそ車庫が一列に並んで出来たものだとわかった。

　そのひとつへアッシュは静かにブイトールを滑り込ませてゆく。

　中は、サバサンドが似合うアルテミスシティとは天と地くらいの場所だった。

　シーのお屋敷に装飾品を置けばこんな感じじゃないかしら。吊られたシャンデリアに絵画や彫刻。光沢がしなやかなカウチに、ウエルカムドリンクまでもがサイドテーブルに置かれてる。手荷物を預ける無人クラークも備わっていたなら、もう車庫で寝泊まりできそうなほどの豪華さだった。

　見回し過ぎてあたしはアッシュにぶつかりそうになる。どうにか車庫を抜け出すと、高価そうなロイヤルブルーのカーペットを踏みしめ橋の上へ出るエレベータへ向かった。

　その吊り革は手触りのいい木製、ってどういうこと。

　掴んで空中散歩を楽しむこと数分。きっとどこかに小鳥が舞っているに違いないと思えてならない。噴水が弧を描く「緑」あふれる空中庭園の真ん中に、あたしは足を着けていた。

　そう、足は、橋の上で自然に地面へ着いてる。つまりこのエリアには地球と変わらない重力が備えられてるってことで、維持しているのは魔法使いに違いなかった。じゃあ昼夜を問わず働いているんだわ、ってあたしの脳裏に姿は過る。その贅沢さに、感心どころかいっとき放心さえしてしまっていた。

「……すごい」　

「あのホテルだ」

　アッシュの示す方向へ顔を上げる。天辺をつまんでひと捻りさせたようなのっぽのビルは、起こした重力に逆らい建っていた。

「あたしたち、ぜったいまわりから浮いているわよね」

　そのロビーは黒が基調でとびきりモダンな造りがクールを極めてる。だけどあたしたちはといえばその中を、ピンクのシャツにシマの体操着姿でガラクタロボットを引き連れ歩いてた。

「だから堂々とするってもんさ」

　言い切るアッシュは魔法技師労者組合（マギユニオン）を盾に、タイソン女史の取材にやって来た、なんてさんざん嘘をついてる。あたしはもう、その神経にもついてけない。

「お客様」

　と、声はかけられてた。

「こちらを落とされたようですが」

　あたしとアッシュはぎくっ、て言わんばかり足を止める。どうにか振り返ってゆけば、正装に身を包んだホテルマンはそんなあたしたちの前へ古びたネジを差し出してみせていた。

「おやおや、これはご親切に」

　なんて受け取れるのはロボの他に誰がいるつていうの。

「まったく重力のせいでございますね。ありがとうございました」

　ヒザへねじ込み、仕上げと手のひらで叩きつける。ロビーにガサツな音は響き渡って、くつろいでいたみんながあたしたちへをじっと見た。だからこそ「あらいやだ」で、あたしは笑う。「こりゃどうも」でアッシュがそんなあたしとロボの背を押し出した。ままに歩いていたのは最初、数歩だけ。残りはダッシュよ。エレベータへ一目散に走る。

「もう、びっくりしたっ」

　吐き出せたのは、ちょうどと降りてきたその中でのこと。

「まったく。やはり一流のホテルはお気遣いが違っておりますね」

「そっちじゃないわよっ」

　悦に入るロボはわかってない。

　そこでずっと上昇を続けていたエレベータは、扉を開いていた。

　静けさの気品が違うわ。匂いだってそう。馴染めないせいで足取りは泥棒みたいになるしかなくて、あたしたちはアッシュに連れられ人っ子一人いない廊下を進む。やがて「１００７」のプレートが光を灯すドア前に辿り着くとアッシュは、向かってここだ、と頭を傾げて知らせてみせた。その手で呼び鈴を押し込む。

　音は外へも微かに漏れて聞こえていた。耳を澄ませながらあたしたちはドアが開くのを息を押し殺してただ待ち続ける。

　けれど誰も出て来ない。

　アッシュがノックを繰り出してた。

　やっぱりシン、としたままなのは、もうタイソン女史は地球へ帰ってしまったからなんじゃないかしら。考えてることはアッシュも同じ様子で、渋い面持ちの目と目が合う。ドアはその時、ふいに壁から浮き上がってた。

「突然で畏れ入ります。ジュナー・タイソン女史」

　見逃すことなく身をひるがえすアッシの動きは早い。それ以上に驚いちゃうのは冗談みたいな丁寧さの方。

「昨日の件でぜひお聞きしたいことがありまして、今日は……」

　けれどドアはわずかに壁から浮いたところで止まると、それ以上、開く気配はない。

「お話なら先ほど申し上げた通りです。誰かの見間違いに過ぎません。どうかもう、お引き取りください」

　向こうから声だけが放たれる。その冷ややかな響きだけを残して再び閉じられようとした。

「ちょっと待った」

　すかさずアッシュが靴を挟み込み拒む。

「まだ何も話してないんだけどね」

　押し止めてパチン、と指もまた鳴らした。

「もしかして君、ポリスと勘違いしてるのかな。さっき空ですれ違ったからね。来るならここしかないと思ってたところさ」

　紙切れはあのときのように宙に現れて、つまんで部屋の中へアッシュは差し出す。ドアの向こうで受け取ったタイソン女史の、気配が微かに搖れ動くのが感じ取れた。

「……魔法技師労働（マギ）、……組合（ユニオン）？」

「そう、ポリスじゃない。魔法使いの労働条件に関わることで、昨日の出来事についてどうしても聞きたいことがあって寄らせてもらった。協力してもらえると働く多くの魔法使いたちが助かると思うんだ」

　もちろん用件はそれだけじゃない。じれったくなってあたしはアッシュの後ろで飛び跳ねる。けどじゃまで、話せないどころか見えもしない。ちょっとどいてよ。

「いえ、わたしにお話することは何もありません。それにもうすぐ地球へ帰る船が出る時刻なので」

　ドアが再び閉められようと引き寄せられてた。

「まさか。昨日、君はドラゴンに襲われそうになっていたはずだ」

　アッシュが突きつけた瞬間、タイソン女史の声は廊下に響き渡る。

「だからそれは見間違いだと言いましたっ」

　どういうこと？

　あたしはたまらずアッシュの脇へ頭を潜り込ませてた。

「本当でしょうかっ、タイソン女史」

　とたん、「あっ」と声を上げたのはタイソン女史だ。それってつまり、あの時のことを覚えているからで、だからあたしもヒザを折って返す。

「ご無事で何よりでした。このようなご無礼をお許しください。わたくしはあのとき助けに参った魔法使いのオーキュ・ハンドレッドでございます。今日はどうしてもお力添えを頂きたく、失礼を承知でご訪問させていただきました」

　見つめる女史の顔が見る間に青ざめていった。小刻みに震えたかと思うとわっ、とそれきり両手で顔を覆ってしまう。