第53話 おかぁにゃん

 


 流れてくる風が血の匂いを乗せ、漂わせながら鼻腔をかすめ通り過ぎていく。

 初めて人族の命を奪ったボクは不思議と、思考は落ち着いていた。いつかこんな日が来るんだろうなと心のどこかでずっと思っていたし、覚悟もしていた。


 瞳から光を失って絶望のまま命の灯を消され、蹂躙され続けられただろう人猫族の亡き骸を前にして怒り狂い……ボクは聖騎士たちに裁きの剣を振るったことに、微塵も後悔はなかったのだ。


 奪う覚悟を持たなければ、奪われてしまうんだ……全てを。この有り様を見ろよ、血の匂い、死の匂いが充満する凄惨な現状を……! 


 ……そうしてボクは聖騎士ライモンの血で汚れた魔剣を大きく振り落とすと、ふと空を見上げる。そこにはどこまでも深く、全てを飲み込むような赤黒い夜空が広がっていた。

 炎と黒煙が立ち上る人猫族の里の中心から見上げた空。それは月の光も星の輝きをも遮り、まるでボク自身の心の中を見ているようだった。人族の生命を初めて奪ったボクの心の熱を濁った夜空がゆっくりと冷ましていく。


 生命が理不尽に奪われる惨たらしさから憤り、燃え上がった怒りの炎が少しずつ小さくなるのをボクは感じていた。

 憑き物が一つ落ちたような、そんな思いだった。ボクの運命を狂わせた聖騎士の生命を奪ったからだろうか……?



「さよなら聖騎士ライモン……」



 小さくボクは呟いた。ゆっくりと我を取り戻していくと、バチバチと木々が音を立て裂ける音が聞こえてくる。燻る黒煙と人猫族の家屋を舐めている炎の中……蹂躙劇に興じた聖騎士たちの命は魔王軍の反撃により終局を迎え、阿鼻叫喚の地獄のような争乱はやがて静寂を取り戻していく。


 しかし誰も……そう、ボクとともに戦った魔王軍の戦士たちは聖騎士に勝利したからといって誰も歓喜の声を上げたりはしなかった。それは、同胞の死と悲しみがボクらを包み込んでいたからだ。辺りを見渡せば、人猫族の亡き骸を揺らめく炎が照らしていた……。




  ◇




 そしてボクは、少女に手を当てているファルルの方へと向きを変えて歩み寄る。


「う、にゃぁ……」


 大木の木の下で蒼白の少女の頭を膝に乗せ、ファルルが優しく頬を撫で下ろす。意識を朦朧とさせながら顔を顰めて嗚咽の声を漏らした少女に、ファルルは回復治癒の魔法を施していた。


 だけど……回復魔法を得意とするファルルはどこか狼狽えを隠せないようにボクは感じていた。


「ファルル、彼女は……」

「思ったより傷が深いけど大丈夫……必ず助けてみせるから」


 押し殺した声でボクが訊ねると、ファルルはさらに魔力を込めて両手を少女に翳す。すると、人猫族の少女を見守るような瞳で見ていたウルフィが声を出し、ウェドガーさんとロウアンが続けて口を開く。


「人猫族はオレたち人狼族とは仲が悪いけど……助かってほしいワン。……このままじゃこいつがかわいそうでならないワンよ……」


「まだ年端もいかぬ幼な子を斬りつけるなど、ヤツら人間はまったくどこまで卑劣なのだ! 許せぬ!」


「同感だな! 人間はよ、俺ら魔族が大人だろうが子供だろうがそんなの関係ねえんだ。ッたく反吐が出るぜ!」


 ロウアンが持っていた聖騎士のへし折れた剣を忌々しいとばかりに手から放り投げると、鈍い音を立てて地面を転がる。その掛け合いを無視するかのようにファルルは少女の治癒に集中すると、


「幸いなるは水の王……其の優しさで彼の者の傷を癒したまえ……生命の水ヒールウォーター


 ファルルは少女の傷口に手をあて、俯きながら小さく魔法をさらに唱えていた。

 彼女が唱えた魔法はボクも良く知っている。水属性の回復魔法で……ボクもかつて妹のエイナの怪我を癒やしたことがある。ファルルの手が青白く光ると少女の全身を優しく包み込んで……そして、焼けただれた箇所が健康的な状態へと戻っていく。



「水属性魔法……生命の水ヒールウォーター……」



 妹の顔がボクの頭に浮かび、ふと呟いた。それにファルルは僅かに頷き応えると、それからは少女を癒すことに魔力を集中し、暫くの間回復の魔法を当て続けた。


 彼女の回復治癒の魔法でやがて少女は目を覚ますだろうけど……その時に、ボクは何て声をかけたらいいのか……わからなかった。少女を見守る皆もそう考えていたと思う。



 しばらくすると、少女は朧げに目蓋を開く。

 悲しそうに、助けられた事に礼を言う前に少女はボクに向かって「おか……おかぁにゃんは……? み、みんにゃは……」と呟き、ボクは胸が締め付けられそうになった。


 そう、ボクは告げなければならなかったんだ。


 彼女の一族が滅び去り、母親が死んだ現実を……。




 ◇




 目を覚ました少女はヒクリ=スコッティアという名前だった。一族は彼女を残して死に絶え、「君のおかぁさんはもう……」とボクが彼女に告げた時、ヒクリは泣いた。


 これでもかというくらいに、「うにゃああんあんあん、うにゃあんああんあん」と悲痛な声で叫びながら母親の亡き骸に駆け寄ると、ぼろぼろと涙を流していた。


 母親に練りつき、突っ伏して慟哭する彼女を見下ろしながら……ボクは……助けられなかった自分の不甲斐無さに唇を噛んでいた。


 ボクがあの時……セルセレムで聖騎士ハンスを倒していたなら……ボクが、中途半端な覚悟でなかったなら彼女は涙を流すことはなかったのだ。


 と。

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