第4話 ただ、願う。

 温羅うらがたった独りになって一ヶ月。息を潜ませて暮らしていたお蔭か、一度も五十狭斧彦や茨木に見付かることはなかった。

 それどころか、鬼たちは温羅以上に静かだ。阿曽媛あそひめによれば村へやって来ること自体がなくなったらしい。


「このまま、過ぎれば良いが」


 温羅の呟きは、独りで見上げる月に消えた。しかし、変わらず胸にある信じたい気持ちと疑う気持ちがせめぎ合う。

 これが嵐の前の静けさだ、と温羅は知っていたのだから。


「温羅、さま?」

「来たんだ、媛。こんばんは」

「こんばんは」


 ここ最近、阿曽媛は毎晩のように姿を見せるようになっていた。温羅が鬼ノ城を追い出されたことを彼女に話すと、心から温羅の身を案じてくれたのだ。

 想い人と共にいられる時間は、温羅にとって信じられない掛け替えのない時間だ。だからこそ、過去を繰り返すことが辛い。

 温羅は心の内を悟られないよう、蓋をした。


 いつものように言葉を交わし、笑い合う。何でもないような日々の些細な出来事が、ふたりの間では淡く輝く。

 しかし楽しい時間というものは、呆気なく終わってしまう。日が傾き、西の空は赤く染まっていた。

 そろそろ、阿曽媛を村に戻さなければ。秋口の夜は冷える。


「阿曽媛、そろそろ時間だよ」

「……」


 黙ったまま、阿曽媛は立ち上がらない。不思議に思った温羅が、もう一度帰宅を促そうと手を伸ばしかけた時のこと。

 阿曽媛が、そっと温羅の手に触れた。思わず引き抜きそうになる手を懸命に動かさず、温羅は媛を間近で見詰めた。

 阿曽媛の瞳は、真っ直ぐに温羅を見詰めている。美しい黒い瞳の中に、温羅の赤面した姿が映り込む。


「阿曽媛……?」


 囁くような温羅の問い掛けに、阿曽媛は応じるように細い手に力を籠めた。そして、溢れ出した言葉をそのままに溢れさせる。


「……帰りたくないって言ったら、あなたはわたしをさらって下さいますか?」

「阿曽、媛……っ」


 切なげに呟かれる媛の言葉に、温羅の喉が詰まる。なにを言われたのか理解するのに、長い時を要した。

 媛が紡いだ言葉の意味を頭と心が理解して、温羅の胸の奥が大きく音をたてる。二度目の経験であるにもかかわらず、うまく言葉が発せられない。


 温羅が困惑して迷惑に思っているのだと勘違いしたか、阿曽媛は辛そうに目を伏せた。そして踵を返し、無理をして出した明るい声と共に一歩村へと踏み出そうとする。


「ごめんなさい、出過ぎたことを言いました。……また、逢いま」


 駆け出そうとした阿曽媛の手を、温羅が掴んで引く。体の均衡を崩した阿曽媛は、すっぽりと温羅の腕の中に収まった。

 そんな彼女の耳元に、切ない青年の息が触れる。


「好きだ。きみのことが、阿曽媛のことが、ずっと」

「……っ!?」


 時間が止まる。


 阿曽媛は自分が背中から抱き締められているのだと、ゆっくりと理解した。頬が紅潮し、体の熱が上がる。


 温羅もまた、頭の中は真っ白だった。これが過去の繰り返しであることも、二度目の告白であることも、彼の頭の中からは消えてしまう。

 ただ、溢れ出す思いの丈を止めることなど出来なかった。

 この一瞬だけ、過去の温羅と未来の温羅が重なった。


「あ、う、温羅さまっ!?」

「ごめん、阿曽媛。きみが好きだ。始祖の血を引く鬼のわたしが人である媛に惹かれてはいけない、そう知っているのに、わかっているのに……」

「…………いえ、わたしもその禁忌を破っています。───

「阿曽媛?」


 媛の言う意味がわからず、温羅は腕の力を緩めた。その時、阿曽媛が振り返る。


「―――!」

「……お慕いしているのは、わたしの方です」


 目を見開いた温羅の視界いっぱいに、阿曽媛が映る。唇が重なり、ふたりは目を閉じた。


「……」

「……」


 あの時は、一度きりだった。けれど今、温羅と阿曽媛は二度、三度と深く唇を重ねる。

 まるで、二度と離れないよう互いを結びつけるように。心の奥、魂の糸が結び付いて離れないように。

 いつしか足の力は抜けて、その場に座り込む。


「──ん、ふあっ」

「はぁ、はぁ……」


 息が切れて自然と離れ、ふたりは息を整えた。そして、互いに真っ赤な顔を見詰めて笑い合う。

 小さなさざ波のような笑い声が途切れると、阿曽媛はそっと温羅の肩にしだれかかった。目を閉じ、温羅の胸の音に耳を傾ける。


「阿曽媛……」

「ずっと、この時が続けば良いのに。そう、思っていました。でも……運命とは残酷ですね」

「何を、言って……?」

「……」


 温羅の問いには答えず、阿曽媛は温羅の背に手を回した。全て覚えておこうとするように、決して忘れてなるものか、と懸命に。

 どうか、と泣きそうな声が温羅の耳朶じだを打つ。


「どうか、幸せに。生きて、ください……っ。どんなに凄惨な過去があったとしても、あなたには今、彼らがいますから」

って……! もしかして、きみは……」


 呆然とした温羅から体を離し、彼の頬に両手で触れた阿曽媛が微笑む。その笑みは、過去の彼女のものではない。

 涙に濡れた顔を、温羅は綺麗だと思ってしまった。


「きみは、阿曽の……」

「はい。……あなたを過去に送ってくれと頼んだのは、わたしです」

「どうして……?」


 魂を共有する阿曽の中で、眠っているはずの阿曽媛。彼女が須佐男と話せたことも驚きだが、それ以上に、温羅を過去にいざなった理由を知りたい。

 温羅の問いに、阿曽媛は頷いた。


「我儘な願いです。──もう一度、あなたに触れたかった。共に生きる夢を見たかった。そして……生きてと伝えたかったのです」

「生きる……」

「はい。あなたは、少し、自分をないがしろにして、他人を優先するところがありますから。優しすぎて、傷付くのでは、と」


 そんなことはない、と温羅は反論しようとした。しかし、泣き濡れて笑みを湛える阿曽媛を間近で見詰めていると、その気も失せてしまう。

 努力するよ、と温羅は呟いた。


「今は、きみの心を持つ阿曽もいる。須佐男と大蛇も、わたしの友だ。……だから、いつかきみのもとへ行くまでは、大丈夫」

「──はい」


 心底嬉しそうに、阿曽媛は微笑んだ。

 その時、温羅の頭に須佐男の声が響いた。


 ──温羅、時間だ。


「……わかった」


 未来にいる須佐男に返事をし、温羅は媛に悲しげに微笑む。


「もう、戻らなければ」

「ならばわたしも、再び眠りましょう」


 ふたりの影が、重なる。阿曽媛の柔らかく丈の長い衣がふわりと風にひるがえり、黒い髪をあおった。


 一時いっときの触れ合いの後、ふたりは離れる。名残惜しげに繋がったままの指先に、阿曽媛が不意に力を入れた。

 彼女の指先が震えていることに気付き、温羅は姿勢を低くして阿曽媛の顔を下から覗き込んだ。


「阿曽媛? どうし……」

「もう一つだけ、我儘を言います」

「……うん」

「──っ、わたしを」


 塞き止めていたはずの、我儘。もう伝え切ったと思っていたのに、阿曽媛の中にはもう一つだけ残っていた。

 これを伝えたら、重いかもしれない。嫌われるかもしれない。そうなったら、もう目覚めたくない。

 だとしても、もう閉じ込めていることは出来なかった。大切な、たった一人の愛する人に──


「──わたしを、忘れないでいてください。そして、生まれ変わったら、もう一度、あなたの傍に居させてください」

「……忘れないよ。忘れられるわけがない。そして、必ず来世でも、きみを見付けてみせる」

「───はいっ」


 あと一つ、そう思っていたはずなのに、阿曽媛の願いは二つに増えていた。増やしてしまったことで気恥ずかしくなり、阿曽媛は温羅の胸に顔を埋める。


 華奢な体を抱き締め、温羅は誓う。次に阿曽媛に会った時、彼女を笑顔にする一生を送ろう、と。

 そして必ず、何処にいても阿曽媛を見付けて想いを伝えようと。


「……時が、来たようですね」

「そうだね……」


 ふたりを、半透明な霧が包み込もうとしていた。森は消え失せ、いつの間にか白んだ世界にたたずんでいる。


 指を絡め、ふたりは世界の変容を見守った。徐々にそれぞれの体が透けていく様を見詰め、最期の挨拶を交わす。


「愛しています、温羅さま」

「わたしも、阿曽媛を愛してる。──必ず、きみを見付けるから」

「はいっ」


 どんな宝石よりも輝く笑顔を浮かべ、阿曽媛は消えた。頬を伝う何かを感じながら、温羅は意識を手離した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る