自殺志願者と絵描きの彼

海ノ10

自殺志願者は絵描きと笑う


 昔からずっと孤独感に苛まれてきた。

 クラスメイトと話していても、どこか自分だけ違う世界で生きているような、そんな感覚。

 小さい頃は母親がわたしのことを何でも理解してくれていたが、小学3年の時に亡くなってからはずっと一人だった。

 もちろん、クラスで話す、所謂友人といえる人は居たが、一緒にいても疲れるばかりで楽しくなかった。なんとか普通でいようとしたけど、どうもうまくいかなくて。高校に入ってからは普通でいることに疲れるようになって、最終的には誰とも話さない日々になってしまった。

 父親は仕事でなかなか帰って来ないし、最近声帯を動かすことといえば、授業で当てられた時くらいのものだ。


 ……人は、孤独に苛まれると心を病むと聞いたことがある。

 わたしもそうなのかもしれない。

 そうでなかったら、こうして死のうとはしないだろうから。


 家の近くにある高台。ベンチやあずまやなどが置いてある小さな公園になっていて、見晴らしがいいため花火大会の日などはそこそこの人が賑わうスポットになっている。

 しかし、今は一月の半ばで、しかも深夜。月も出ていない夜は暗く、人は誰もいない。

 まさに絶好の自殺日和だった。


 もう少し躊躇うものかと思っていたが、意外とそんなことはなく、簡単に手すりに片足をかけることに成功する。

 そのままの勢いでもう片足も手すりに乗せ、身を投げようかと思ったのだが――


「えっ」


 と、間抜けな声が後ろから聞こえて来て、驚きのあまり振り返ってしまった。

 そこに居たのは、おそらく男性であろう一人の人物。見た感じ体は細く、身長はそれほど高くないが、低いというわけでもない、普通といった感じ。

 顔までは暗くてよく見えなかったが、茶色を基調としたアシンメトリーのコートを着ていて、どことなく変わり者と言った雰囲気があった。


「あー……取り込み中?」


 気まずい沈黙に耐えかねてか、それとも別の理由からかはわからないが、彼は困った声色でそう言うと、一歩後ずさる。

 その反応を見て、わたしは何と言おうか迷っていた。正直に「自殺しようとしていた」と言うのも変な話だし、かと言って誤魔化すのも無理がある。孤独を拗らせてコミュニケーション能力の下がっているわたしでは、都合のいい言葉が思いつかなかった。


 何も言わないわたしを見て何を思ったか、彼はさらに続ける。


「あー、そりゃ取り込み中だよね。うん。見たらわかるよ。この時間にこんな場所に人来るとは思わないもんね。ごめんごめん。僕が悪かった。

 ……僕は帰るから続きをどうぞ?」

「え、ちょ、いやいや、え?」


 そのまま普通に帰ろうとする様子を見て、わたしは思わず声をかけてしまう。

 いや、普通帰ろうとする? 生きる素晴らしさとか、死ぬデメリットについて説教臭く語ったりするのが普通じゃないの?


「え、帰る? え?」

「あ、帰らないほうがよかった? 見届けろって言うなら居てもいいけど……見られながら死ぬの嫌じゃない?」

「なんで止めるという選択肢がない!?」

「え、止めて欲しいの? ならそう言ってもらわないと困るよ。

 でも、うーん……困ったな。自殺志願者を説得する言葉なんて僕は持ってないんだけど……

 あー、なんだろう。とりあえず、生きてれば色々あるよね、うん」


 ……間違いない。こいつ変人だ。それも、生半可な変人じゃない。筋金入りの天然モノの変人だ。


「ねぇ、こういう時なんて言ったらいいと思う?」

「え、それわたしに聞く……?

 とりあえず、今手すりにかけてる足を下ろせとか、死んでもいいことないって説得する……とか?」

「なるほど。その手があったか。

 じゃあ、危ないからその足下ろしたほうがいいよ?」

「…………」


 なんだろう。既に死ぬ気分じゃなくなってるのは確かなんだけど、こいつにこの軽い調子で言われて、言われた通りに足を下ろすのはすごく癪だ。


「……帰る」

「え?」


 しかし、寒い時期だしずっとこうしているのもつらい。

 わたしは観念して手すりから足を下ろすと、彼の横をスタスタと通り抜けていき、家へと向かう。


「あ、その、風邪ひかないようにね?」


 自殺しようとしていた人間にかける言葉がそれかよ。

 そうツッコミを入れたくなったが、関わるのも面倒そうなのでそのまま通り過ぎることにした。




☆ ★ ☆




「あ、ども」

「…………」


 気を取り直して翌日……は流石に死ぬ気にならなかったので、ふと死にたくなった翌々日、再び同じ時間に高台に足を運ぶと、今度はベンチに腰掛けている彼と遭遇した。

 一昨日と同じ、ふんわりとして掴みどころがない声に調子が崩されて、挨拶を返すこともできなかった。


「風邪ひかなかった?」

「……真っ先に心配するところそこかよ」

「だって死ななかったのは見てればわかるし」


 それはそうなのだけれど、そんな月曜日に学校で友人と会ったみたいなテンションで話しかけられても困る。こっちは咄嗟に敬語も出ないほど混乱しているというのに。


「まぁいいや。隣座りなよ。どうせ死ぬなら生者の話に付き合うのも悪くないと思わない?」

「メリットないしやだ。帰る」

「えー、なんでさ! 絶対に死にたくなる話考えてきたのに!」


 いや、死にたくなくなる話じゃなくて、死にたくなる話なのかよ。自殺志願者には釈迦に説法じゃないのか、それ。

 ……とはいえ、悔しいことに少し興味が湧いてしまったのも事実。

 わたしは大人しく彼の隣に座ると、その顔を観察してみる。

 一昨日は暗かったし距離もあったし見る気もあまりなかったので見ていなかったが、なかなかに整った顔をしている。

 歳は同じくらいだろうか。男らしさをあまり感じさせない顔はどちらかと言えば中性的で、声の柔らかさと相まって相手に警戒心を持たせにくそうだ。

 髪は特に整えている形跡もなく、目にかかるくらいの黒い髪が無造作にされたままだった。


「で、死にたくなる話って?」

「ほら、人間って細かい細胞でできてるでしょ?

 その細胞って、1日にすごい数死んでるんだよ」


 俗に言う代謝というやつだろう。わたしだって義務教育は終了しているのだ。それくらい知っている。


「生きるだけですごい数の細胞が死んでるんだから、別に体ひとつ分同時に死んだってそんなに変わらなくない?」

「……え、終わり?」

「うん。終わり。どう? 死にたくなった?」

「つまらなすぎて死にそうだった。帰る」

「あ、そう。じゃあ、またね」

「もう会わないし……」


 流石に次死にたくなった時には居ないだろう。

 そう思ってのその言葉だったが、ふととある疑問が浮かんでくる。

 一昨日も今日も、彼は何故ここに居たのだろうか?

 聞いてみようとも思ったが、一度背中を向けた手前、何となく聞きづらくてそのまま高台を立ち去ったのだった。




☆ ★ ☆




 次に死にたくなったのは3日後だった。

 3日前と同じ時間に高台へ向かうと、残念と言うべきか、やはりと言うべきか、今日も彼はそこにいた。


「……この前も今日も、なんでここに?」

「あ、いつかの自殺志願者さん」


 いや、たしかに自殺志願者で間違いないのだが、本人に向かってその呼び方はいかがなものか。オブラートに包むということを知らないらしい。

 とはいえ、あまり長話をする気もないので、呼び方に関しては気にしないで、先にした質問の答えを催促することにした。


「どうも。で、なんでここに?」

「ここいい構図が浮かぶんだよね。だから、結構前から行き詰まったら来るようにしてる」

「構図?」

「そ、構図。実は僕絵描きでさ、毎夜描く前にこうして景色を眺めているというわけだよ」

「絵描き……え、歳は?」

「歳? え、いくつだったかな。えっと……17、かなぁ?」

「まさかの同い年……」


 色々と衝撃的なことが判明した。というか、高校生で絵描き? いろいろと訳がわからない。


「え、高校とかどうしてるの? というか、稼げてるの?」

「死にたい割にはやけに質問してくるね……?

 まぁいいけどさ。で、高校だっけ? 美術コースのあるところに通ってるよ。そのためにこっちに引っ越してきたわけだし。

 稼げてるかどうかは……よくわからない。気にしたことないし」

「気にしたことないって?」

「描いた絵を渡すといつのまにか振り込まれてる」

「いやでもいくら振り込まれてるのかは確認するでしょ?」

「面倒だからしない」


 ……やっぱこいつおかしい。


「こっちからも質問していい?」

「え?」

「なんで死にたいの?」

「……それ、聞くかなぁ?」

「見た感じ同い年くらいの女の子が自殺しようとしてたら気になるじゃん」

「気になっても普通は聞かないんだよ……」


 デリカシーが足りないと怒ってもいいのだろうが、相手に悪気がなさそうなので怒る気が起きない。

 ……死にたい理由、か。


「……なんとなく、一人でいるのがツラいから」

「ふぅん」

「聞いといてその反応は流石に怒りそうになる」

「いや、微妙にわかるようなわからないような、そんな感じだったから」


 と少年は言うと、「何か奢るよ」と言って近くの自販機まで歩いて行く。

 自分の分だろうか。温かいブラックコーヒーを押すと、こちらに視線を送ってくる。

 ……大人しく奢られるのは少し癪だったが、財布を持ってきていなかったので、仕方なく奢られることにした。


「同じの」

「おっけー」


 ぶっきらぼうな言い方になってしまったが、彼は気にした様子もなく、硬貨を入れてコーヒーのボタンを押す。

 出てきたコーヒーを、お礼を言いながら受け取る。


「……本当は死にたくないんじゃないの?」


 ベンチに腰掛け、コーヒーに息を吹きかけながらちびちびと飲んでいると、まだプルタブを開けてすらいない彼が、明後日の方向を見ながらそう言った。


「あなたが居るから死ねないだけ」

「別に違う場所だって死ねるでしょ」


 それはそうだ。死ぬだけなら別に家で首を吊ってもいいし、電車に飛び込んでもいい。少し遠くに行って海に身を投げるのもいいだろう。

 でも、わたしにはここで死にたい理由があった。


「……お母さんが体の弱い人でね。わたしと散歩するときに、いつもここのベンチで休憩してたの。

 だから、ここは何というか思い入れがあって」

「それはここがいい理由でしょ?」

「だから、あなたが居ると死ねないって話で──」

「ここがいい理由はわかったよ。でも、本当に死にたいかどうかは答えてないじゃん」

「そんなの──」


 ──死にたいに決まっている。

 そう答えようとして、何故か言葉が続かなかった。


 本当に、わたしは死にたいのだろうか?


 ふと、そんな疑問が頭をもたげる。

 ……いや、わたしは死にたいはずだ。そうでなければ、寒い中こうしてここにわざわざ来るわけがない。


「──当たり前でしょ? 死にたいからここにきてる」

「そっか。まぁ、好きにしたら?」

「言われなくても……というか、あなたがいなければいいんだけど」

「僕がいない日に来ればいいのに」

「わたしだってあなたがいる日に来たくて来てるわけじゃないし……飲み物、ありがと」

「別に気にしないでよ。じゃ、また会うかは知らないけど」


 立ち上がったわたしを見て、帰ると理解したのだろう。彼は手をひらひらと振ると、軽い調子でそう言う。

 わたしはそれに、「会わないことを祈るけど」と返して、空き缶を自動販売機の横のゴミ箱に捨ててから家路に着いた。



☆ ★ ☆



 その2日後、またそこを訪れると案の定あいつはそこにいた。

 話しかけられたので少し話をして、帰ろうかと思ったタイミングでまた「何か奢ろうか?」と言われたが、そんな気分にはならなかったので丁寧に断って帰った。



☆ ★ ☆



 次はその翌日。

 またあいつがいて、案の定話しかけられたので、少しだけ話をしてから帰った。



☆ ★ ☆



 翌日。さすがにいないだろうと思って行ったら、何故かあいつはまたそこにいた。

 それに何故かイラッときて、文句を言ってやったのだが、「まぁまぁ、話なら何か飲みながらでもいいんじゃない?」と言い、さらに奢ろうとしてきたので、それを断って自分の財布からお金を出してコーヒーを買った。



☆ ★ ☆



 その3日後。

 雪の降る今日は流石に寒すぎるのでいないと思ったが、何故かそいつはいた。

 雪のついたフードを被ってぼんやりとしているその後ろ姿に、「雪降ってるのに馬鹿みたい」と言ったら、「雪降ってるのに来るそっちも馬鹿みたい」と返された。



☆ ★ ☆



 翌日……は雪が降っていたので止めて、翌々日。案の定いつもの場所にあいつはいた。

 コーヒーを買って、そういえば前に一方的に奢ってもらった返しをしてなかったと思い、2本コーヒーを買って一本渡す。

 彼は少し遠慮したものの、こちらが押し付ければそれ以上抵抗はせず、大人しく受け取って飲み始めた。

 前にコーヒーを買った時よりも、少し飲み切るのに時間がかかったかもしれない。



☆ ★ ☆



 そして、翌日も、そのまた翌日も、次に行った時も、あいつは変わらない様子でそこにいて、もはや何かの幽霊か妖精なんじゃないかと疑ったりもしたが、「あはは、そんなのいるわけないじゃないか」と笑い飛ばされた。


 そんな調子で、わたしが自殺しようとするたびにあいつは何故かそこにいて、話しかけられるものだからついこちらも応じてしまう。

 少しずつコーヒーが減る速度が遅くなっていって、飲み終わる頃には冷めきっている、なんてことも起こるようになってきた。



 そして、2月も半ばに差し掛かってきた頃、あいつは「寒い中外で話すのもつらいし、僕の家に来ない?」などど言ってきた。

 わたしも一応乙女の1人なので警戒したものの、結局『こんな変人はどんな家に住んでいるのか』という好奇心に負けて、ついていくことにした。


「ほら、ここが僕の家だよ」


 そう案内されたのは、公園からほど近いところにある一軒家。

 一軒家の中では敷地が狭い方だが、話を聞く限り一人暮らしをしているそうなので、住人の数にしては十分な広さがあった。

 家の中に入ると、途端に美術室のような香りが鼻に広がる。絵の具の匂い、とでも言うのだろうか。


「あそこがリビング。あんまり使うことないから物置がわりになってるけど。

 で、2階に寝室とかあるんだ」

「アトリエは?」

「そこだけど見せないよ」


 と、アトリエは見せてくれなかった(ご丁寧に鍵までかけられていた)が、その代わりにリビングに通された後、いくつか完成した作品を見せてもらえた。

 夜空に浮かぶ星の絵とか、羽ばたく鳥の絵とか。写実的でありながら、独特さも併せ持つ、不思議な魅力があった。


「何というか……すごい」


 と、我ながら子どもじみた感想だとは思うが、芸術に明るくないわたしにはそうとしか言えなかった。もちろん、その絵に魅力はとても感じたが、それを表現するだけの語彙は持ち合わせていなかった。


「あはは、なんというか、難しい言葉を使った感想よりも、そっちの方が嬉しいな」


 と言っていたので、語彙力が無い方が正解なのかもしれない。



◆ ◇ ◆



 あいつの家に行った翌日(厳密には、あいつの家に行った時には日付を跨いでいたので今日)、学校でよくノートを見せてもらう美香みかちゃんと、世間話をしていると、自分があるイベントの存在を忘れていたことに気がついた。


 元はあまり美香ちゃんと話すことはなかったが、最近毎日のように深夜あいつと話しているせいで昼間の授業が耳に入ってこないわたしは、恥を忍んで隣の席の美香ちゃんにノートを写させてもらっているのだ。

 その過程で、こうしてノートとは関係のない話もすることになった。


「バレンタイン……あー、そんなのもあったね〜」

「えー、明日だよ!? 花の女子高生なんだから、覚えとかないと。ほら、気になってる人とかいるでしょ? そういう人に渡しなよ〜」

「そんな人いないよ〜」

「えー、居そうな感じがするんだけどなー。

 まぁ、居ないならあたしに作ってくれてもいいよ?」

「考えとく」

「それしないやつ〜」


 そんな会話をしながら、2人分くらいなら作ってもいいかな、なんて思った。



 そして、その日の夜。

 いつも通りの時間にいつもの場所に行くと、いつも通りあいつはベンチに座っていた。

 だから、時計をチラチラ見ながら話をして、日付が変わったのを確認して鞄からチョコを取り出すと、話が途切れたタイミングを見計らってチョコを押し付ける。


「……これは?」

「チョコ。バレンタインだから。友達にチョコあげるから、ついでに。義理で悪いけど」

「ああ、いや……その、ありがとう。

 嬉しい、です」


 無性に恥ずかしくなって、目を逸らしながら渡したそれ。

 だが、相手の返答がどうもおかしい。

 そう思って顔を上げてみると──珍しく、わたしにもわかるくらい顔を真っ赤にしている姿が見た。


「……そんな変な反応するなっ!」

「だって、貰えると思ってなかったし……」

「っ!! 帰る!!」

「あ、うん。またね」


 なんかゾワゾワしてきて、それに耐えきれなくなったわたしは半ば逃げるようにその場を立ち去った。



☆ ★ ☆



 それから、いつもの場所でいつもの時間に会って、たまにあいつの家に行ってお茶をしながら話をする。

 そんな生活が続く日々の中で、わたしは自覚せざるを得なくなった。


 ……わたしは、名前も知らないあの変わり者の絵描きに、どうも恋をしてしまっているらしいと。


 どうもおかしいなと思っていて、ある時勇気を振り絞って美香ちゃんに具体的な話などをぼかしながら説明してみたところ、


「それは間違いなく恋だよ!」


 と言われた。

 そして、腑に落ちた。それと同時に、「自殺志願者のわたしが恋だなんて、すごい冗談だ」とも思った。

 でも、たしかにわたしの彼に対するその想いは、恋と表現するにふさわしいものだった。


「……どうしたら、いいかな?」

「告白したらいいと思うよ」

「でも、向こうには別に好きな人がいるかもしれないし……」


 わたしとは違う学校に通っているわけだし、わたしが知らないだけで彼女がいる可能性も十分ある。

 そう言うと、「ビビってたら何も進まないぞ〜? どっちにしろ、どうせ砕けるなら当たって砕けろ!」と言われた。



☆ ★ ☆



 告白する勇気なんて出るはずもなく、ただ月日だけが流れていき、寒かった時期も終わりそろそろコートも必要が無くなってくるかという時期。

 土曜日の公園で、今日も今日とてあいつと2人きり深夜の公園で話をしていた。


「──でさ、今日中には出来そうなんだよ」

「ずっと描いてたって言ってたやつ?」

「そうそう。ほとんどあの絵描くためにここに来てるようなものだから」

「そんなにすごい絵なら見せてくれてもいいのに」

「だめ。描き終わっても見せてあげない」

「えー、ケチ」


 もはや、わたしの中に死にたいなんて気持ちは無くなっていて、ただ好きな人と話をするためだけにここに来ているだけだった。

 だから──今の話の中にある、一つの可能性に言及しないわけにはいかなかった。


「ねぇ、その絵を描くためにここに来てるってことはさ、その絵できたらもうここには来ないの?」

「いや、そんなことはないよ。むしろ、その絵ができたらここにくるって決めてる」

「……それって、」

「ねぇ、そんなことよりあそこの自販機なんだけど、なんか新作のコーヒーがさ──」


 その横顔に何か不穏なものを感じて、わたしは尋ねようとしたのだけれど、次の話題に移ってしまってそのタイミングを逃した。



☆ ★ ☆



『通話なんて珍しいね。どうしたの?』


 翌日の夜。

 散々悩んだ挙句、わたしは美香ちゃんに通話をかけていた。

 本当はもう1時間前にかけていたのだけれど、向こうが風呂に入らなくてはいけないというので、1時間ずらしてのスタートだった。


「いや、ちょっと相談があって。

 わたしとその……好きな彼って、たまたまある場所で出会って、それが惰性的に続いてるって話したじゃん?」

『してたねぇ』

「その彼が、その場所に来る意味なくなったって言うの。意味なくなっても来てくれるとは言ってたけど、不安で……」


 と、具体的な内容には触れず、相談したい内容を伝える。

 通話の向こうからうーんと唸るような声が聞こえてきた後、すぐに楽天的ないつも通りの声に変わる。


『大丈夫じゃない?』

「でもっ!」

『だって、2人で同じ場所に定期的に行く用事があったってことは、2人の用事って同じなんじゃないの? だったら、共通の話題があるだろうし、連絡先さえ交換できれば──』

「いや、用事が同じってわけじゃなく……」


 と、そこまで言ってから、それ・・に気がついてしまった。

 もし、本当の彼の目的が、わたしと同じだったとしたら?

 背筋が粟立つのを感じて、急いで通話を切るとコートを適当に羽織って家から飛び出す。

 既に時間は10時を周っているので、人気はほとんどない。


 息を切らしながら公園に着くと、何か人影が柵の方に近づいて行くのが見えた。


「ちょっと待って!」


 息は上がっているし足は疲れているしで、躓きながらも近づいていくと、その人が振り返ってこちらを見る。

 その顔は一瞬驚いたものになるが、すぐにいつも通りに戻る。


「どうしたの? 自殺志願者さん」

「それは、あなたじゃ、ないの?」


 はぁ、はぁ、と息を切らしながらもそう言ってやる。


「どうして?」

「昨日のあなたの表情、なんか知ってる気がするって思ったんだけど、わかった。自殺しようとしてた頃のわたしの表情そっくりなんだ」

「そんなの、気のせい──」

「それに、わたし思い出したの。会って3回目の頃に、あなたが吐いた嘘。

 『ここいい構図が浮かぶから、結構前から行き詰まったら来るようにしてる』って言ったの。でもね、それはたぶん嘘。

 だって、わたし、あの日よりも前から2日に1回はここに来てるんだもん」


 ここならお母さんが見てくれるような気がして。また会えるような気がして、寂しい夜にはつい足を運んでしまうのだ。


「でも、あなたには一回も会ってない。

 いつからここに来るようにしてたのかは知らないけど、わたしがあなたを見かけてないのはたまたま会ってないだけだとは思えない。

 そもそもあなたは、初めて会った日にしかここに来てない。違う?」

「……少し違うよ。前に一回だけ来たことがあるんだ。その時に、ここから見える星空が綺麗だと思って、絵を描いた。

 そして、描き終わって、死のうかと思った。

 でも、そこに君が来て少し興味が出てきちゃって、話をするために毎日ここに来るようになって、そのうちに絵を描きたくなって、今日出来上がったんだ。

 そして──」


 ──死のうと思った。


 そう、何の迷いもなく、それが彼にとっての当然であるかのように言う。


「……どうして? どうして、絵ができあがったら死のうと思うの?」

「絵が書き上がったらじゃないよ。

 僕はね、芸術家っていうのは、常に最高のものを、昔の自分を超えるものを作らなくてはいけないと思ってるんだ。

 でもね……もうあれより美しいものは、僕じゃ見つけられないと思う。僕の絵のスタイルじゃ、美しいものを見つけられないんじゃ美しい絵も描けるわけがない。

 だから、もう終わりにするんだ。最高傑作を作って、それで最後にする。これは、芸術家としての矜持」

「じゃあ、あなたが今回描いた美しいものってのは、何だったの?」


 そう問いかけるわたしに、しかし返って来たのは、笑顔だけ。

 これから死のうとしてるのに笑うその精神性が少し怖くて、それと同時に、その笑顔を見てどうしようもない気持ちになる。

 だから、わたしはそのどうしようもない気持ちに、身を任せてみようと思った。


「……最初は、何だこいつって思ってた」


 急に語り始めたわたしに目を丸くしながらも、途中で飛び降りる気はないようで、静かに聞く姿勢に入った。


「でも、話してるうちにだんだん、楽しく──そう、楽しくなっていったの」


 少し前の自分なら絶対認めなかっただろうその言葉。

 「死にたいのに邪魔な人と話してるだけで、楽しくなんかない」と言っていただろうけど、そんなのは本心から目を逸らしてるだけで。あの頃にはもう死ぬ気なんてなくて。


「そして、あなたが好きになった」


 きょとんと、何を言われたのかわからない様子の彼。

 でも、わたしを置いて死のうとしてる人に、相手が理解できるまで言葉を待ってやる義理なんてどこにもない。


「あなたのことが気になって仕方がないって、もっと話したいって思った。

 夜に会うだけじゃなくて、昼間にカフェで何か飲んだり、ゆっくり絵を描くのを見てみたり、ただぼんやり話をしたり、とにかくいろんなことがしてみたくなったの。

 わたしの知らないあなたを知りたくて。

 わたしのこともっと知って欲しくて。


 時間なんていくらあっても足りないから、もっと一緒に居たい。いろんなものを見て回りたい。


 だから──付き合ってください。死なないでください。生きて、ください。


 わたしが言えたことじゃないけど、そんなことしないで。わたしが、あなたの見つけた以上の美しいものを見つけるから。だから、どうか信じて、死なないでいて」


 そんな、わたしのわがままに、彼は驚いた表情をした後──



「──あれより美しい景色を見せてくれる人がいるとすれば、君くらいしかいないよ。

 だから──こちらこそ、よろしくお願い、します」



 ……一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 だが、それを理解し始めた途端、どんどん嬉しさが湧き上がってきて──


 ──気がつくと、抱きついていた。



☆ ★ ☆



「そういえば、一昨日描き終わった絵って、どんな絵なの?」


 付き合うことになってから2日後。

 彼の家でのお家デート中、ふと疑問に思ってそう尋ねてみると、彼は分かりやすく狼狽える。


「……拒否権を行使」

「だめー」

「見せないものは見せないよ!」


 と、そんな問答を続けた末、彼の方が押し負けて、見せてもらえることになった。

 で、それを見たわたしは多分人生で一番顔を赤くしたと思う。


 ──そこに描かれていたのは、夜の公園のベンチに腰掛けて左手でコーヒーの缶を手に持ちながら、右手を口元に当てて笑う、わたしの姿だった。


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自殺志願者と絵描きの彼 海ノ10 @umino10

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