第2話

 夜が朝に流された。何時なのか分からない。今日はバイトも無い。稽古も無い。台詞を声に出して朗読してみる。転換が多くスタッフが忙しいだろう一幕、実際は小道具の配置、スポットの明かりを変える程度の転換になるのだろうか。その辺りは演出陣のかんがえることだが。それが終わると銀河鉄道の車内に舞台は移る。ここからはジョバンニが、その夢から現に戻されるまで舞台の転換は無い。つまり、暗転は存在しない。役者の腕が試される所だ。

 西山の良い所は、と薫さんが言った。役者の可能性を信じている所なんだ。

 役者を信じること、そういえば聞こえは良いが、登場人物の人間性を役者に依存しすぎているような気もする。相沢が良い例だ。あえてそうしているのかは分からないが、西山の脚本では登場人物の性質は読み取れないことが多い。せいぜい役割語の差異があるくらいで、感情のノリも定められていない。だから役者が役作りの過程で、脚本の中の人物を補完しなければいけないのだ。私は今日も脚本にジョバンニを書き込む。自分の人格に焼き付ける。そうして私はジョバンニになっていく。稽古はまだだが、初めから終わりまでの情景、台詞はもう頭で再生できるようになっていた。あとは各所のジョバンニの心の揺れ動きに、私が過去の体験を関連させていく。

 メソッド演技……。私はそれに向いている。らしい。自分ではよく分からないけれど。私にとっては、薫さんがメソッド・アクターだった。それだけが理由なのだが。


 私は朝風呂に入ったあと、どうでもいいテレビニュースを流して、いつの間にか朝十時を回っていた。私は<アトール>に向かった。


 <アトール>は相変わらず客が少なく、無愛想なウェイトレスと虚空を見つめ続けるマスターがいた。意外だったのは、奥のカウンター席に西山がいたことだ。たばこを唇で挟みながら、ノートパソコンのキーを夢中で叩いている。そういえば先日、津田が西山を訪ねにこの辺りを歩いていた。もしかしたら、西山の家もここらなのかもしれない。

 ドアベルを聞いた西山は私の方を一瞬横目で見て、視線をノートパソコンに戻した。その後もう一度こっちを見て「おまえ!」と叫んだ。火の付いたタバコが彼のふとももに落ちた。

「パンダみたいだぞ。一瞬気づかなかった」彼はふとももに落ちたタバコを鬱陶しそうに唇で挟み直した。

 パンダ? ……ああ、目の周りの隈か。

「おはようございます。西山さん。劇団以外で出会うなんて珍しい」私は軽く頭を下げたあと、入り口近くのテーブル席、西山に向かう方に座った。画面を消したスマートフォンで自分の顔を見てみると、確かに目の辺りが落ち窪んでパンダみたいになっている。「はあ」

「なんだなんだ。公演近い主演役者が夜更かしか。おい。体調管理はしっかりしてくれよ」と言いながらもキーボードを叩く手を休めない。「まあ、俺がここを利用するのは平日の午前中だからな。客がいない時間を狙っているんだ」

 いつもいないだろ。マスターは虚空を見つめ続けている。

 私は水を持ってきたウェイトレスにマンデリンを注文した。彼女は呪文のようなことをぶつぶつ言った。よく分からないので、曖昧な返事をすると、奥に引っ込んだ。

「砂糖とミルクが要るか聞いていたんだよ」と西山が言った。

 西山にはウェイトレスが何を言っているのか分かるのか?

「西山さん、何しているんですか」と尋ねた。

「脚本直してるんだよ。カムパネルラの周り」

「ええ、今更ですか」私は腕を組んだ。

「本番まで妥協は無しだ」

「私、脚本に随分書き込みしちゃったんだけどなあ」そう口に出してみると、私の中に西山をいじめる欲求が湧いた。「それに、結局相沢さんにコンセンサスは取ったのですか」

「そんなもん、後で取れば良かろう」西山はキーボードを叩き続ける。「それに、カムパネルラの性別が変わった所で脚本に大きな変化は無い。せいぜい役割語、目的語が変化する程度だ」

「では何故性別を変えるんです」

「そうした方が」乾いた打鍵音が聞こえた。エンターキーを叩いたらしい。「相沢は良い演技ができる。カムパネルラは光る」

「ふうん……」私は西山なりの、演出家なりの論理があることを示されて、しばし攻撃の手段を失った。西山は自信に満ちていたのだ。そのうちにマンデリンがソーサーに載ってやってきた。マンデリンは無事ブラックだった。

 私はカップを手に持って、席を立ち、西山の背中越しに編集中のパソコンの画面を覗いた。銀河鉄道を降りたジョバンニが、カムパネルラを探して街を走り回るところだ。彼はカムパネルラとほんとうのしあわせを探すつもりでいる。そこで、子供が河に落ちた!という誰かの叫び声が聞こえる。ジョバンニは舞台中央で呆然とする。そこで終幕。

「悲劇ですね」と私は言った。

「ああ、悲劇だ」と西山は言った。「だけど、これは全ての人間に必要な物語になるはずだ」

 私はマンデリンを啜った。

 西山もカップから何かを啜った。

「だから、書いた」

「ふうん……」

 ドキュメントフォルダの中には各年度のフォルダが六年前から今年の分まである。

「これ、今までの脚本入っているんですか」

「そうだ。殆ど落書きみたいなものだけどな」

 西山は二○一九のフォルダを開いた。

「この、銀河鉄道、一、二と並んでいるのは……幕? ですか」

「プロット版だ」

 銀河鉄道一を開く。初めから最後まで書かれた銀河鉄道の脚本だ。しかし、よくみると台詞や展開が違う。

「少し違うものを、二つも三つも書くんですか?」

「津田やなんかに読ませてから決定稿を決めているからな」

「ははぁ……」

 おそらく、「なんか」にはかつて薫さんが入っていたのだろう。<西山劇場>の創設メンバーは役者上がりで脚本家になった西山、学生時代から裏方を専門に切り盛りしていた津田、それに演劇サークルの花形だった薫さんで、それ以外はそれぞれの伝手を辿って外部からスタッフを集めたと聞いたことがある。そこで、ふと思い至った。

「西山さんは、大学の頃から津田さんや薫さんと舞台やってたんですよね」

「おう」西山は咥えていたタバコを灰皿に押しつけて、新しいタバコを取り出した。

「じゃあ、羽佐間、知っているんですか」

 西山はライター構えて、そのまま少し停止した。見えないハエを追っているように目をぐるりと動かす。

「知らんな」タバコに火を付けた。

「薫さんの同期ですよ」私は少し苛立った。

「おい、歌川は俺や津田の一つ後輩なんだぜ。後輩の同期なんて知らないよ」西山は、はざま、はざまとぼやいた。「演劇やってた奴か?」

「それは分かりません、けど。こう、目鼻立ちがはっきりしててえ、ロングの黒い髪が肩まで」私はカップをカウンターに置いて身振り手振りで説明するが、西山はさっぱり要領を得ないような顔をしている。「美人で背が高い。一七五、くらい」

「さっぱり分からん」西山は段々面白そうな顔をしてきた。「気になってきたな。どんな奴なんだよ」

「私の新しい同居人ですよ」

「へえ。早い……じゃない。演技してみろよ。エチュード」西山はカウンターに肘を掛けて体を私の方に向けた。

「……」

 エチュードとは即興演技のことである。即興演技は即興で設定、演じる人格を決めて、ハイ!の合図で演技を始めることである。それは私が最も嫌悪する馬鹿みたいな演技の練習方法である。

 そう思いながらも頭の中で演技プランを組み立てている私がいる。演出家を前にした役者の悲しい性か。それに、西山は笑ってはいたが、役者に挑戦するときの目つきになっていた。

 私は早朝、駅へ行く前にタバコを吸っていた彼女を思い出し、家の中での彼女を思い出し、最後に「かもめ」で医者を演じていた初老の男を思い出した。彼女は口数は多くないが、明瞭ではっきりした声を出し、語尾が鼻にかかる癖がある。ミステリアスで、人を食った態度を取る。それに、姿勢というか、体幹が良い。

 羽佐間は演劇経験者だったのか?

 タバコを吸い終えた西山が「ハイ」と言った。私は頭の中でスイッチを切り替える。

 私は、大柄の髭男から一つ空けてカウンター席に座って、コーヒーを一口飲み、カウンターの上に右腕を置き、左肘をついて、顎を左手で弄りながら少し考え事をした。そこで何気なく隣の空き席のカウンターに視線を落としていたら、視界の端にタバコの煙が揺れていた。

「タバコ」私は視線を固めたまま、誰にとも無く――実際には視界の端の男に――喋り掛けた。「吸えるんだ」

「お、ああ」と男が言った。

「この席、灰皿がないけど」言いながら、私はジャケットを弄ってタバコのパッケージを探す。ぼーっとしていたマスターがさりげなく灰皿を寄越してくれた。「ありがとう」

 ジャケットの右の内ポケットにタバコのパッケージがあったが、切らしていた。私は顔をしかめた。そこで、大柄の男に尋ねた。

「一本頂けない。切らしてて」

 大柄の男はパッケージから一本伸ばして私に差し出してくれた。私はそれを引き抜いて、親指と人差し指と中指で支えて、口に咥える。ポケットからライターを取り出して、火を付けた。

 ここで、私はエチュードの流れを掴んだ。

「ねえ」私は横目で大柄の男に視線を向ける。「さっき書いていたのは何? ちらっと見えた感じだと小説か何かに見えたけど」

「なんだ、盗み見るなんて失礼なやつだな」

「失礼ねえ」私は声を飛ばして笑ってやった。「礼儀だなんて、古い習慣だなあ。私たちが今どこに向かっていると思っているの」

 大柄な男は怪訝な顔をした。私は目の前にある虚空を見つめて、間を置いた。

 しばしの沈黙が場に流れる。しかし大柄な男は何も言わなかった。

「私たちは、死出の旅路にいる……」躁から鬱へ気分を転換させて、言った。

 ……西山は一瞬ハッとしたような表情を見せた……

 背もたれの無い椅子の上で私は前後転換し、両肘をカウンターで支えた。「ほら、食堂車の車窓をみてみなよ」左手に持っていたタバコを唇に近づけた。「こんなに暗い……」

「あんたは何でこの鉄道に乗った?」

 西山が本格的に演技に乗ってきたらしい。

「ガス爆発で。研究者だったんだあ。私」

「研究者か。頭が良かったんだな。何の研究だ?」

 エチュードの難しさはここにある。いかに相手役(存在すれば)からのアプローチを受けて自分の演技を構築していくか。

「イーハトーブの火山の麓で地殻運動の研究をしていたの。来る日も来る日もミミズみたいなデータを眺めてね」

 私は窓を見ていた。

「この世の神秘は、森や土にあると思っていたのに」立ち上がる。窓に寄って縁に手を掛けた。「空も悪くないね。気づかなかったなあ」

「なあ、あんた……」大柄の男がまた口を開いたところで、それを制した。

「そろそろ時間みたい」私はタバコを深く吸った。もちろん、タバコに火は付いていない。ここは銀河鉄道の中でもない。私は窓を背後に、その縁に寄りかかった。「楽しかったよ」

 そこで、喫茶店の掛け時計が十二時のベルを鳴らした。終幕。


 役者のスイッチを切ったのが西山に伝わったらしい。新しいタバコを取り出して、彼は本当に火を付けて一服し始めた。なんとなく、態度で彼の挑戦に十分応えることができたという手応えがあった。ウェイトレスとマスターは不意に終わった演技に少し戸惑っているらしいが、珍しいものをみたような顔をしていた。私は頭の中で、自分が羽佐間を演じていたという事実を不思議に思っていた。普段の稽古のような遊びのようなエチュードでは役作りも即興なので、他人の人格を真似て演技に持ち込むことはない。だが、終わってみれば完璧とは言えないものの、羽佐間の特徴、所作をそれなりに表現できたような気もしていた。それにしても、急場作りの舞台とはいえ、この喫茶店を銀河鉄道の食堂車に重ねたのは無理があったかもしれない。私は口につけたフィルターをちぎってタバコを西山に返した。

「お嬢ちゃん、器用やなあ」おっとりとした関西弁。

「はあ」誰かと思って三人の顔を見回したら、マスターが口角を上げて私を見ていることに気がついた。

「せやろ!この娘な、今度の主演やねん!」せかせかした関西弁。

 混乱して西山とウェイトレスの二人を見ると、西山が顔を後ろに向けてマスターに声を掛けていた。……西山は関西の出身だったのか……。しかし、ここのマスターも関西出身だったとは……いつも虚空を見ているか料理を作るかだったから気づかなかった。そういえば「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」にも独特のイントネーションがあった気がする。するとウェイトレスの娘は、と思って彼女を見ると目があった。でも、やはり彼女は何も言わなかった。

「おい。お前今のホンなしかよ」西山の言葉は標準語に戻った。

「時計のベルで締めるなんてな。役者さんてめっちゃ頭ええんやなあ」マスターは目に生気があった。「西山くん、ホンてなに」

「脚本です」私は西山の代わりに問いに答えた。カップを置いた西山の隣の席に座る。「脚本なんてあるわけないじゃないですか。最後の時計のベルも丁度まぐれで鳴ったので、それで締めにしただけです」

 私は予想以上に褒められたので照れくさかった。

「銀河鉄道の食堂車か。面白い設定だ。そうだよな。あの鉄道に乗ってるのはなにもジョバンニ達だけじゃないもんな」ブツブツ言いながら西山はまたノートパソコンに向かいだした。

 私はマンデリンを飲み干して席を立った。西山がキーボードを叩きながら、ここは持ってやるというので、言葉に甘えた。店を出るときに思い出して、「結局、羽佐間は知っているんですか?」と聞いた。

「ああ」と西山は答えた。私は驚いて振り返った。

「何者なんですか」

「見当は付くが、確証はない。実際に会ったこともない。多分、歌川の知り合いだよ。少しだけ話に聞いたことがある。それだけ」

 それから私は少し詰問調子になったが西山は何も答えなかった。それから私は打つ手を無くしてちょっとの間呆然としたが、黙って<アトール>を後にした。


 リビングのソファに寝転がって、天井の薄い桃色の点を数えていたら、倦怠感を感じ始めた。読みかけの小説を開き、五ページも読むと投げ出して仕舞って、ダイニングテーブルに腰を移すと静けさに襲われる心地があった。テレビの電源を付けて、主婦向けのドラマを観るともなく流し、私は顔を組んだ腕に埋めた。そうしてしばらくじっとしていると、いつの間にかドラマは終わり、料理番組か通販番組かなにかで、女がきゃあきゃあ言っていた。

 ……そういえばご飯食べてないな……西山のせいで<アトール>で食事するのを忘れていた……。

 私の頭に近辺の店の名前が幾つか浮かんだが、外食の選択肢は無かった。体が怠く、今日はもう家から出る気にならなかった。台所の収納棚にはインスタント食品が幾つか入っていたはずだ、と思って私は立とうと、した。思いがけず足に力が入らなくてそのままへたりこんだ。こうなったら湯を沸かすのも面倒な気になり、四つ足で這って行き冷蔵庫に入っていたハムをそのまま全部食べた。食べ物が胃に落ちつくと少し元気が出て牛乳を飲むとようやく眠くなれた。それから眠ろうと思って自室の扉に手を掛けたところで、布団の上に積もった衣服やらゴミやら化粧水やら本やらのことを思い出し、心底うんざりした。そこで、どうせ今は一人なのだと開き直り、私は羽佐間の部屋の布団で眠った。


 目が覚めた。見慣れない部屋で一瞬狼狽えたが、すぐに羽佐間の部屋で寝たことを思い出した。今が何時かは分からないが、外は暗かった。倦怠感は依然としてあった。私は風呂場に立って栓を閉め、蛇口からお湯を出して貯め始めた。リビングに戻るとテレビ台の中にあるプレイヤーに何度も観た舞台のDVDをセットして見始めた。それはオリジナルで制作された一人芝居で、タクシーに乗った男の話だ。男が運転手と会話する体で話が進む。

 ホラーだ。この役者は間を使うのが非常に巧みで、参考になる。

 何本か舞台の映像を流し見て、倦怠感は自然と脚本に着地していた。こんな風に稽古が始まると舞台以外のことを考えられなくなる自分がいる。心ちゃんには一種の神経症だね、と言われたが舞台を前にした役者は誰でもこんなものではないだろうか。

 だが、今回の私はどこかおかしい。

その日は風呂に入りながらじっくり脚本を読んだあと、羽佐間の部屋で寝た。

 

 *


 心ちゃんに連絡は付かなかった。まだ寝ているのかもしれない。

 今朝は雨が降っていて、フローリングを裸足で歩くとべたつく感じがあった。今日の稽古でやる幕の台詞を暗唱しながらシャワーを浴び、下着を履いた。思い立って、そのまま羽佐間の部屋に入り、机の前に立った。

 羽佐間の机には小さな鏡が立ててあって、化粧品が周りに幾つか、引き出しの中にもある。置いていったのだろうか、と思ったが、よく考えればそれは薫さんのものだ。

 私は化粧の下地を作り、人間らしい程度の陰影を作って、それから口紅。色は主張の少ないピンクだった。

 そうして鏡に女が映った。他人の特徴を捉えるときは、まず骨格。骨の動きをイメージする。立ち姿、歩き姿、早足、俯いて、……大抵は他人と自分の動きには大小の差はあれ違いがある。そのためには、自分の普段の動作イメージをしっかり把握しておくこと。

 私は小さい鏡の前で、自分の所作を女のそれに近づける。目標にしているのは、羽佐間。心ちゃんは、私の動きと離れすぎている。だから、羽佐間。

 昨日のエチュードで私は羽佐間を演じた。あの時、動きに違和感があった。言葉遣いは大丈夫。でも演技は言葉と所作なのだ。あのときは喋りのトレースはできていたのに、所作に行き過ぎる所と大人しすぎる所があった。だから演技に不要な躁と鬱が発生する。

 女になりきらなければいけない。私のイメージの中に日常生活とかけ離れたところの女がいて、それが演技に割り込んでくる。流し目、顎を引いて。そんな風なこと。もっと自然体にしなければ、女にならない。

 鏡の前でトルソーのような自分の体を眺めて、動きを調整していると稽古場に向かう時間になった。


 稽古場の扉を開くと、まず仮舞台を構築するための雑多な箱やら仕切りやらが左にまとめて置いてあって、その奥を観ると心ちゃんと津田が会話していた。

 私は鏡の設えてある壁の前に立って、さっそく台詞を暗唱しながら動作の調整をし始めた。陰鬱、誠実、悲しみの感情ははっきり、嬉しさと興奮は控えめに、わかりやすく。一通りやって、思い出して体を伸ばし始めると心ちゃんが「偽名だと思うんですよねえ」と近づいてきた。

 鏡に向かって開脚しながら、虚像の心ちゃんと目を合わせて「なにが?」と聞くと、どうやら羽佐間のことを言っているらしい。

「津田さんに聞いたんですけど、羽佐間なんて方は知らないんですって」

「そうかな」私は股を開けながら応えた。「西山は知っているって言っていたよ」

 心ちゃんは意外そうな顔をした。

「西山さんに聞いたんですか? 何時の間に」

「昨日。<アトール>でたまたま会ったんだ。生活圏が近いんだろうね」

「そうなんですか」心ちゃんは膝を曲げて、私に目線を合わせた。

「まあ偽名云々の話はなかったけどね、ただ知っていると言っただけ。でも、私は羽佐間は偽名を使わない気がするんだ」

「どうしてですか」

 依然私たちは鏡の中で目を合わせている。

「あいつは嘘をつかない気がする。だけ」


 羽佐間が稽古場に入って来、続いて西山が登場した。「始めよう」という彼のかけ声で二幕の稽古は始まった。

 二幕と三幕は全て銀河鉄道の中で舞台は進行する。入れ替わり立ち替わりジョバンニとカムパネルラの前に個性のある乗客が現れる。二幕では鳥を捕る商売人が現れる。原作ではその前に一度降車するシーンがあるのだが、西山はそこを省いていた。

 その日の稽古で相沢は頑張った。共に演じていて、それがよく伝わった。しかし、急な役柄の変更に彼女の中に付いていけないものがあるのか、焦燥感と苛立ちがノイズになって演技に混じった。それもよく伝わった。一方私はというと、演技のノリが非常に良かった。見学に来ているスタッフや役者の顔を見れば、自分の演技の出来がよく分かる。相沢は必死になって私の演技に乗りかかったらしいので、一目には彼女の演技に混じる違和感は舞台の、役者たちの演技に紛れた。しかし、演出家の目にそのごまかしは聞かなかったらしい。

 西山が稽古を止めて、おい相沢、と声をかけた。

「降りるか、舞台」

 相沢は何も言わなかった。

「俺の舞台についてこれないのなら、無理に演らなくていい」

 相沢はやはり何も言わなかった。ただ、一秒の間に目を数度瞬くと瞳から溢れるものがあった。彼女は俯いた。

「演れます」と彼女は言った。「絶対に、演ります」と彼女は言った。

 西山の昨日の言葉が蘇る。「カムパネルラは光る」その言葉を私は頭のなかで反した。彼は相沢の可能性を信じている。信じているというより、これは賭けている気がする。

 西山はこの舞台を傑作にしようとしている。

 この相沢と西山のやり取りで稽古場には一気に緊張の糸が張られた。相沢は私や他の役者に向かって最敬礼して、「ごめんなさい、もう一度お願いします」と言った。

 私は彼女のこういう所が好きだ。役者が輝く前の瞬間が私は好きだ。今回の舞台稽古は彼女にとっては辛いものになるかもしれないが、相沢は本来こういうときに百を発揮する役者だ。普段の傍若無人に見える振る舞いも、舞台の完成度を追求するが故であることは<西山劇場>の誰もが知っている。ただ、そこに人間性という、稽古場に散る雑音があるだけだ。

 かといって、私も安定して役柄を演じることはしなかった。舞台での役者の仕事は基本的に演出家の意図に沿う役柄を演じることであるので、西山が役者を信じる演出家であると言っても、そこの妥協は許されない。だからこその信頼だからだ。

 私は初めのジョバンニのイメージをゼロとして、同じ通しの中で微妙に役付けを変えている。基本的には西山は演出家としては口数が少ないほうなので、そこは観客の顔を見て私が判断するしかない。

 そうしてその日の稽古を闘い抜いて、終わり際に西山からの細かなダメだしを幾つか聞いて、解散となった。


 見学に来ていた役者、スタッフが退散し、稽古場は実際に動いていた幾人かの役者が残っているのみだった。鏡で顔を動かしながら発声している、背後から心ちゃんが寄ってきて、口を開こうとしたところで相沢が横から私の名前を呼んだ。

 相沢は顔を真っ赤にして俯いていた。

「どうしたの」

 心ちゃんは黙って私と相沢を見比べていた。

「稽古に付き合って頂けないでしょうか」と相沢は喉を絞ったように声を出した。

「え……」私は羽佐間の顔を見直した。

 外ではまだ雨が降っていて、湿気った空気と汗のせいでシャツが体に張り付いていた。

「……演出家のいない所で役者が演技を詰めるのはどうかな」と、私は逃げた。

「分かっています。でも」相沢は辛そうな顔をしている。「どうしても、どうしても役が掴めないんです」

「困るな、主演同士で合わせて妙な癖とか空気とかが出来たらどうするつもり」

 相沢はそれでもお願いします、お願いしますと食い下がる。私は困り果てて心ちゃんに目を向けると、私よりも困っている顔をしていた。

 相沢にどうしてそんなに必死に役を詰めるのか、公演までまだ時間もあるのに、と聞くと、「母親が……」言葉を切って「観に来るんです、今度の舞台に」と言った。

 それから互いに何も言えなくなって、場に沈黙が落ちた。

 一分ほどそうしたままで、結局心ちゃんが「あのう、そろそろ着替えたほうが」と切り出した。私と相沢はのろのろと化粧室に向かって、服を替え始めた。

「相沢のお母さんって、あの大御所の声優っていう」私は個室の中で隣に入っている相沢に話しかけた。

「ええ」相沢は隣でごそごそしながら応える。

「で、お母さんが観に来るって?」

「テーブルに置いていた私の脚本をみて、銀河鉄道の夜じゃないの、って」

「で?」

「宮沢賢治が好きらしいんです」

「原作ファン」

「多分……そうですね」相沢が個室を出たらしい。

「だから最初の立ち稽古の日、あんなに」

「それは言わないでください」

「相沢、今幾つだっけ」

「二十五です」

「だよね。私と同じ」

「……」

「タメ口でいいよ。キャリアはそっちの方が長そうだけど」

「……うん」

 私は着替えを終えたが、まだ個室からは出なかった。便座に座った。

「女は嫌?」

「ん……」

「カムパネルラが女なのは、嫌?」

「……分からない。どんな舞台になるのか、直しの脚本読んでも。西山さんが求めている舞台も、カムパネルラも分からなくなった」

「うん」

「母さんがどう思うかも分からない」

「うん」

「……」

「私もだ」

 

 それで、私と相沢は翌日から合わせ稽古をすることになった。


 心ちゃんは駐車場の彼女の車の中で待っていた。

「どうなりましたか」

「……」

「あなたは相沢さんを毛嫌いしますね」

「<西山劇場>の役者の八割はそうだろうね」

「ふ、ふふ」心ちゃんは車を発進させた。

 市内の大通りをゆっくり流している。この時間、交通量は少ない。

「相沢さんはあなたと似ています」と出し抜けに言われた。

「似ているって? どこが」

「さあねえ、なんとなく」

「煮え切らないこと言わないでよ」

 心ちゃんは前を見ていた。

「でも、相沢さんとあなたが似ているのは本当。不思議ですね。演技の熱の入れ方とか、役作りの方向性も殆ど真逆と言っていいくらいなのに」

 左折。

「私が相沢を嫌うのは、同族嫌悪だって言いたいの」

「そういうわけじゃないんです。ただ……」

 徐行。

「あなたと相沢さんは実はすごく相性が良いんじゃないかって」

 シフトレバー。停止。私の家に到着。

「だといいけどね」私はシートベルトを外した。

「待って」と心ちゃんに言われた。私たちは座ったままキスをした。


 *


 演出家がいなくても、舞台は成り立つのだ。

 演出家がいなくても、役者と脚本を書く人間がいれば、舞台は成り立つ。

 さらに言えば、舞台は役者と脚本だけで成り立つ。

 では、何故演出家がいるのか。

 現代の舞台には様々な人間が関わっている。役者や、小道具、照明、宣伝に携わる者まで。各人はそれぞれにまだ観ぬ舞台のイメージを持っている。そんな人間が思い思いに舞台を作っていったらどうなるのか? ……実は演出家という役割が舞台芸術に存在しない時代もあったのだが……。まとまりの無い舞台になってしまうのだ。かといって、役者やスタッフの個性を潰して、人間性を均し、役柄に幅の無い舞台というのも考え物である。これは、演出家が機能していない舞台なんて珍しくもないのだけど。

 だから演出家がいる。だから、稽古のときには演出家は外れない。


 ランニング後のシャワーを浴びながら考える。昨日、交わした約束。相沢との稽古が迫っている。

 リビングに戻ってテーブルの上を見回す。インスタント食品の包装や空の容器、読みかけの小説、毛布などが散乱している。まずいなあとは思うのだが、片付ける気にはならない。そもそも今は同居人がいない。家のルールなんて無いようなものだ。でも、羽佐間が帰るまでには片付けなくちゃ……と、思う。まあ、そのうちだ。

 スマートフォンで相沢が予約を取ったらしいレンタルスタジオの場所を確認する。市内。だが、駅から遠い。私はうんざりした。最も近い駅からでも徒歩で二十分は掛かる。なら、市内を回るバスか。面倒くさい。

 ならば、と思って心ちゃんに発信しようとしたところで思い留まる。心ちゃんにしても彼女は彼女の舞台を抱えていて忙しいのだろう。幾つかの雑誌の評論記事に<西山劇場>の裏方はレベルが高い、と言われていた。この春、思いがけずスタッフが多く退団した事情もある。

 じゃあ結局バスじゃん。

「ああああ」私は両手で顔を擦った。「くそっ相沢っ」

 次回からは別のレンタルスタジオにさせよう。


 駅前で二十分ほどのバスの待ち時間で、再び相沢と二人で合わせ稽古をすることについて思いを馳せる。考えてもみれば、これは演出家にとっても、そう悪いことではないのかもしれない。そもそも役者が個人個人の役を作ってくることは当たり前だし、個人稽古の延長線上にあるような気もしてくる。ただ、と思う。

 ただ恐れるべきは相沢との合わせに慣れて、演技に載せる緊張感が弛むことなのだ。良い舞台は、やはり観客にまで伝播する緊張感がある。流れる風景を眺めながらそんなことを考えていると、つり革を掴んで立っていた男が私を睨めていたのに気がついた。嫌な気分になった。

 今朝の天気は曇りで、昨日の湿気が微かに残っていたが、却って丁度良い具合だった。バスを降りると、傾斜の付いた通りで、立ってみると妙な心地がした。歩道にはぽつぽつとケヤキが立っていて、至る所にその葉が地面に落ちて潰れていた。傾きで少し方向感覚を失い、辺りを歩いてみると、しきりに気圧される程瀟洒な家宅が目につき、自分自身が場違いに思える。だが、辺りには不自然な程人の気配がなかった。もしかしたら、この辺りは相沢の生家に近いのかもしれない。やがて大通には学習塾、コンビニ、個人経営の喫茶店、洋食屋などをテナントに入れたビルが散見されだし、スマートフォンの地図で確認すると目的地は二ブロックを歩いた先にあった。

 相沢との待ち合わせにはまだ時間があったので、適当に目についた喫茶店に入って時間を潰すことにした。その店はビルの二階で、一階にある花やら木やらを売っているらしい店の入り口のすぐ隣に設えられた細い、人が一人通るのがやっとのような階段を昇る必要があった。ガラス扉を押し開けて、店内に歩き入る。小さな小棹に椅子が二つ向き合わせになったテーブル席が三、やや大きめの丸いテーブルの周りに椅子を並べて四人掛けになったのが二、仕切りの向こうに喫煙席があるらしいが入口からは見えない。狭い階段から予想した以上に奥行きがあって、驚いた。奥から二番目の小棹の席に座った。

 まだ、レンタル開始時刻まで四十分程ある。私は、喋るウェイトレスにマンデリンを注文してから、着替えやら何やらを入れている鞄の中から銀河鉄道の夜の原作を取り出した。役付けのヒントを探そうとした。稽古が始まる前から何度も部分的に読み直しているので今更新鮮味もないと思ってページをぺらぺら捲っていたが、ふと親指が滑って開かれた巻末の、普段は読まない作品解説に面白いことが書いてあった。

 銀河鉄道の夜は作者・宮沢賢治の死後に発表されたもので、幾人かの識者が賢治の残した、大別して四つの原稿から物語を構成したらしい。

 ……。


 相沢は前髪が眉に掛かる程度のベリーショートだ。襟足は刈り上げている。それに彼女はスレンダーなので遠目には女か男なのか見分けが付かない。華やかな顔立ちなのだが、黒いパンツに変なキャラクターがプリントされたシャツを着ていてダサかった。彼女はレンタルスタジオ<スタジオくらら>の狭いロビーで椅子(というよりは腰かけ)に座っていた。足元に飲みかけらしい栄養ドリンクの瓶がある。俯いて脚本を読み込んでいるらしい。私は無言で彼女の前に立ったが、まだ脚本を読んでいる。「相沢」と声を掛けたら、体を一瞬跳ねさせて「あっ」と呟いたあと、「それじゃあ入ろう」とありもしない髪を耳の後ろに流す仕草をして私に言った。


 私たちはとりあえず、稽古場の真ん中に向かい合わせに置いたパイプ椅子に座って読み合わせを始めた。私は殆ど無意識で言えるくらいに台詞を頭に刷り込んでいたが、まずは相沢にペースを任せることにした。

「ねえ。ジョバンニのお父さんはまだ帰らない」

「うん」

「私のお父さんがね、ジョバンニのお父さんと久しぶりに会ってみたいな、って。言ってた」カムパネルラがはっと顔を上げて振り向く、ところだ。「ねえ!ジョバンニだけでもうちに遊びに来なよ!お父さんも……ザウエルも喜ぶわ!」

 相沢の演技は流石に堂に入っている。動作のない声合わせでも、はっきりとカムパネルラの瑞々しい躍動感が伝わってくる。キャリアと実力に支えられた演技だ。

「でも、僕は仕事が忙しいんだ」

 私は今回不愛想な感を混ぜ淹れて演じることにしていた。稽古場には私と相沢しかいなかったが、不思議といつもとは違う種の緊張感が漂っていた。

 やがて二人は鉄道に乗り込んだ。突然自分が何処にいるのか分からなくなって、辺りを見回すとここが、あの鉄道の中であることが分かった。前を見るとジョバンニが客室の車両の通路をこちら側に歩いてきている所で、彼は濡れていた。

 ……。

 ふとした瞬間に相沢の顔を覗き見ると、私の顔を見てぽかんと口を開けていた。台詞を渡しても戸惑ったようにもたついて、終いには「ちょっと休憩しよう」と言い出した。スタジオに入って一時間が経過していた。読み合わせは同じ部分を何度もやり直していたこともあるので、進みは芳しくなかったが、お互いに台詞を投げ合っていると、何となく雰囲気を掴む感触があった。相沢はポケットからペンを取り出して何かを脚本に書き込み始めた。スタジオの大鏡に、向かい合って座った私たちがちょうど対称系になって映っていた。

 ふと、相沢は脚本に眼を落したまま手を止め、口を開いて何かを言おうとした。結局口は閉じて、また書き込み始めた。そのまま「アンタ、私のこと何で嫌いなの」と眼を合わせないまま早口で聞いてきた。

 私は眼だけ相沢の顔に向けた。相沢はページを捲ってまた何か書き始めた。眼は合わなかった。

「意識高い所が嫌だわ」と私は言った。

「高くないし」と相沢は言った。

「いや、高いから。初日に髪切ってるし」

「それは、」相沢は一瞬手を止めた。「そろそろ髪切ろうと思ってたし。丁度良かったんだもん」

「丁度良かったねえ」パイプ椅子の背に凭れる。天井を見て次に相沢が何を言ってくるか思いを巡らした。しかし、相沢は黙って手を動かした。

 私は立ち上がって相沢に寄り、「さっきから何書いてるの」と聞いた。

 相沢は質問に答える代わりに、俯いた。私の視線が頭で防がれた。

「ねえ」と私は声をかけた。

「うっさい」と相沢は唸った。

「プライド高い所が嫌だわ」と私は言った。

「うっさいっつの!」と相沢は叫んだ。「私もあなたのこと嫌い」

「あ、理由は言わなくていいから」私は段々愉快になってきた。

 相沢は顔を上げた。

「ア、アン、アンタねえ!」相沢は今日も腹から声を出していた。狼狽して言った台詞もしっかり聞き取れるから、役者というのは馬鹿にならない。ア、エ、イ、オ、ウだ。

「相沢、もう休憩は良いんじゃないの。せっかくスタジオ借りてるんだし次は動き付けようよ」

「ぬぐー。ふん、ぬぬぬ」相沢は立ち上がって犬のように二、三周そこらをぐるぐる歩きまわった。

 私もパイプ椅子から腰を上げた。さっき切り上げた幕の始まりの台詞はジョバンニからだった。台詞を投げると、相沢も顔を顰めたまま演技に入った。

 その後二時間程動きを付けて稽古を合わせた。二幕からは殆ど、銀河が見える車窓を挟んで向かい合う場面になるので、仮舞台はパイプ椅子二つで十分だった。車窓がある方には大鏡があった。他の役に台詞を渡す段では各々が自分の間と想像で補完し、次の台詞に繋げた。そういうことを続けていると自分が一体何をしていて、どういう理由でこんなところにいるのかさっぱりわからなくなったりもしたが、無意識でも台詞は私の喉から流れ出た。鏡に映った自分を見ていると、他人の演技を見ているような気がしてきた。たまに舞台に立った時にもこういう集中の仕方をすることがある。こういうときは自分の無意識を意識したときに演技がぶれるような恐怖感がある。私は羽佐間の名前を予想することにした。羽佐間アイ、羽佐間イヨ、羽佐間ウ、ウ、ウドン、羽佐間エリ、羽佐間……。その間も私の演技は滞りなかったが、後から振り返るとどんな役柄を演じたのか分からなかった。


 それから二時間が経過して、その間二度休憩を取った。その間相沢はまた脚本に何か書き込んだりした。適当に体を動かす振りをして相沢の背後から覗くと、私の演技の間の取り方がいちいち記録されていて気味が悪かった。相沢は私の目線に気が付くと怒った。二度目に休憩を取るころにはお互いの集中力に陰りが見えて、私は狭いロビーで十五分ほど無心でコーヒーを飲んだ。


 <スタジオくらら>を出るときに、相沢にスケジュールの都合を尋ねられた。

「稽古の無い日は殆ど空いてると思うけど」

「じゃあ、また次の稽古の翌日に合わせよう」

 正直、集中はできたが役に立つとは思えない稽古だったけど、「うん」と答えた。何故か相沢との稽古は楽しかった。薫さんと稽古した時のことを思い出したからかもしれない。そう思うと相沢に薫さんを重ねているみたいで嫌な気分になった。


 家に帰ってリビングの散らかった様を見ると心の底からうんざりした。ともかく目につくゴミを片付けるところから始めようと思って台所の収納からゴミ袋を一枚取り出して、片っ端からゴミを詰めていった。粗方スッキリしたものの、ゴミに出すほど袋は膨らまなかった。明日は燃えるごみの日だ。この際私の部屋の着なくなった衣類や用済みの書類もまとめてゴミ袋に詰めようと思って、部屋中ゴミ袋片手に歩きまわった。

 机の隅に何重にも畳められて小さくなったカードのようなものがある。開いてみると羽佐間の名刺だった。羽佐間の苗字と連絡先だけ書かれていて、特に装飾も無い。そういえば羽佐間と初めて会った日に、買い物のレシートを折り畳む癖で名刺をポケットの中で折り畳んでいたらしい。それを見ていると、改めて羽佐間の名前が何なのか気になった。私はまず、羽佐間か西山に問いただすことを考え、これは無理筋だろうと諦め、次に薫さんが所属していた大学の演劇サークルに連絡を取ることを考え、そもそもその演劇サークルの今が<西山劇場>であることを思いだし、最後に最も簡単に羽佐間の名前を確認する方法に思い当たった。

 このシェアハウスの契約書類だ。

 羽佐間と不動産屋に訪ねた時、羽佐間は何枚かの書類にサインをして、名義変更の手数料やらなにやらの支払いをしていた。私はそのころ羽佐間の名前なんぞに興味は無かったので天井を見ていたが、たしかそのときの控えを羽佐間は受け取っていた、気がする。彼女の部屋を物色すればきっと見つかるだろう。

 外はすっかり暗くなっていた。羽佐間の部屋はカーテンが開いたままだった。窓に誰かが張り付いていた。私は羽佐間の部屋の扉をゆっくり、静かに閉めた。

 なんだ?

 心臓がどごん、どごん、と鳴っていた。足が滅茶苦茶に震えて、扉に寄り掛かりながら尻を付いた。何故かテーブルの上のスマートフォンを四つん這いで目指しながら私の頭はフル回転していた。幽霊だ、幽霊だ、本当に出るんだ、と重大な発見をしたことに甚く感動しながら恐れ慄き、実際には口から「お化けっ、お化けっ」という台詞が飛び出して、次にあの人影が生きている人間である可能性に思い至った。その頃にはスマートフォンは私の手の中にあって、羽佐間の部屋の窓のカギは? と疑問が湧き、ひどく焦燥した。私はスマートフォンで一一九をダイヤルし、あとは発信を押すだけというところで何とか立ち上がり、再び羽佐間の部屋の扉に手を掛け、いやいや、これは一一九だぞ、と電撃的に気付き、一一〇にダイヤルし直してから、一息ついて、もう一息ついて扉を開けた。

 窓には誰も張り付いていなかった。部屋の電気を付けて、慎重にカーテンを閉め、窓の鍵がかかっていることを確認した。その後、誰かが侵入した形跡はないか窓の近くのフローリングを点検したりしたが、それらしいものは見当たらなかった。

 そのとき家のインターフォンが鳴った。私は完全に硬直して、五秒くらい立ち上がりかけた姿勢だった。持っていたスマートフォンが振動して、画面を見ると心ちゃんからのメッセージだった。

「開けてよ~( *_* )」

 心ちゃん?

 モニターを見ると、確かに心ちゃんが玄関の前でぶらぶらしていた。私は心の底から安堵した。窓の外に立っていたのは心ちゃんだったのか。……しかし何故。

 玄関を開けると理由が分かった。心ちゃんは泥酔していて、常にゆらゆら揺れていた。今日は黒縁の眼鏡で、落ち着いた雰囲気のドレスを着ていて、心ちゃんが揺れるたびにスカートがくらくら揺れた。相当酒に強い彼女がこうなるのは珍しい。というか始めて見た。玄関先で話を聞いてみると、今日はデザイナーをやっている友人の結婚式に出席したらしい。

「ブーケ取っちゃったあ」と先のメッセージに付いていた顔文字みたいな顔をして言う。

 結婚式の会場でブーケを取ったときの心ちゃんを思い浮かべた。きっと彼女は他の女性のように手を伸ばしたりしなかったのだろう。きっと、同席していた友人に行ってきなよ、なんて笑いながら言われて、その友人たちはとっくに結婚していて、心ちゃんはいつものように苦く笑いながら、集まった女性たちの後ろの方で誰が取るのかなあ、なんて思っていて、どういうわけか花嫁は加減を知らない女でブーケをトスするというよりは後ろに直球でぶっ飛ばしたのだろう。その先に心ちゃんがいたのだろう。

 私は想像の中の心ちゃんの友人たちを強烈に憎悪した。怪力の花嫁に別れちまえ、と呪った。

「そうなんだ、」私はアプリでタクシーを呼びながら答えた。良かったね、というべきか辛かったねというべきか、私には分からず、言葉が中途半端に切れた。

「うううう」心ちゃんは蹲った。

 私もスマートフォンを操作しながら膝を曲げた。

「心ちゃん、大丈夫? 今タクシー呼ぶから」

「泊めて……」と心ちゃんは蹲ったまま呻いた。

 私は何も言えなかった。ただスマートフォンを操作した。

「ねえ、……ねえ」心ちゃんは蹲ったまま手を突き出して私の肩を軽く二度叩いた。

「何?」

「結婚してくれる?」

 私は心ちゃんを見た。心ちゃんも真っ赤な目で私を見ていた。心ちゃんは白田心だった。

「……」

「結婚してよ……」

「私は女なんだよ」出来るだけ寄り添うように言った言葉は、それだけに突き放した言葉になった。

 彼女はひっ、ひっと横隔膜を引き攣らせた。

「お願い、お願い、お願い」

「……」

「結婚してよおおお」

 とうとう白田心は号泣し始めた。疾走した後のような息遣いの合間に嗚咽が漏れだした。私は、今夜彼女を家の中に招き入れるだけで、彼女の中の澱を幾分か掬い取れるとは分かっていたが、そのことだけが彼女にとっての幸福なんだと分かっていたが、どうしてもそれは出来なかった。自分でも何故かは分からなくて、私も泣きたくなった。弁解のように「私は、女なんだよ」と繰り返して、自分でも馬鹿みたいに思って、それが惨めに思えて、声が震えるほどだった。それに、私が言っていること自体も心の何処かで嘘だ、と思った。私はタクシーの呼び出しを完了していた。


 *


 酒を飲みすぎて、完全に常軌を逸していると思ったが、今朝リビングで目を覚まして羽佐間が飲み残したジャックダニエルを見ると三分の一も減っていなかった。昨晩ゴミを詰めた袋は結局出し忘れた。

 羽佐間が居なくなって五日目の朝だった。彼女が家に帰ってくるまで九日もある事実に絶望に近い感情を覚えた。

 何で私は酒に強くないんだろう。本当に不思議だった。昨晩心ちゃんをタクシーに乗せて、私は彼女の家まで付き添ってあげた。家の前でタクシーから降車した彼女はもう揺れてはいなかった。少し酔いが冷めていたらしかった。パーティードレスを着た彼女の背中はなんだか口の広い花瓶に入れた花のように不安定だった。私は地上から彼女がマンションの部屋を開けて自分の部屋に入る所を見届けてから、徒歩で家に帰った。道道、その夜の彼女の醜態について考えた。きっと家に帰る途中に駅前のバーに寄ったのだろう。もしも私が酒に強ければ、彼女は私を誘ったかもしれない。帰宅したあと、私はリビングから羽佐間の買い残していたジャックダニエルをストレートで飲んだ。ペースが掴めないままダブルを二杯空けて、三杯目を飲み切る前に眠りに落ちたらしい。

 私はしばらくトイレに籠ったあとシャワーを浴びた。ドライヤーで髪を乾かすと、出来事に糸を引かれるような感覚は無くなった。だが、ランニングに出るような体調でもなかった。そろそろ店が開く時刻だったので、私は<アトール>に向かった。

日差しが強い日だった。路面に反射した太陽光が目に染みて、薄目を開けて道を歩いた。朝だからまだそれほど気温は高くないが、ジャケットはいらなかったかもしれない。脇の辺りに汗が溜まった。歩いているうちに、心ちゃんに気持ちが引かれて道を引き返した。三十分ほど歩いて彼女のマンションを訪れた。地上から彼女の部屋の窓を見るとカーテンが閉まったままだった。「大丈夫?」とメッセージを飛ばすと、少しして「ごめん」とだけ返ってきた。顔文字は無かった。何という言葉を書けばいいのか、なんという言葉を掛ければいいのか分からなかった。私は彼女を心配したが、ただ部屋の窓を見上げていることは正解ではないという感じがして、結局そのまま<アトール>に向かった。


<アトール>には今日もカウンター奥に西山が居た。今日は執筆していないらしい。カウンターの上にはべちゃべちゃのミートソーススパゲティとコーヒーだけしかなかった。私が店内に入ると、西山は「おう」と言った。

「おはようございます。西山さん」と私は挨拶した。

「お嬢ちゃん、今日も顔色悪いなあ」とマスターも挨拶してくれた。挨拶か?

 私はまた、手前のテーブル席の西山に向かう方に座った。喋らないウェイトレスがやってきて、注文票を構えた。さっさと注文しろ、ということらしい。私はミートソーススパゲティとマンデリンを注文した。

「お前、さては飲んだ翌日しかこの店来ないな」

「そんなことないですよ」

 マスターは奥に引っ込んだ。ウェイトレスはカウンターの中に入って虚空を見つめだした。

「相沢とはどうだ」と西山に尋ねられた。

「特にどうにもありませんが」私は西山に責められている気がしたが、平静を努めた。声には出ていないと思う。

 西山はタバコを吸い始めた。彼のミートソーススパゲティはまだ残っているが、随分だらだら食べているらしい。

「西山さん、今日は書かないんですね」私は話題を逸らした。

「今日はお前を待っていた」と西山は言った。

「は?」

「相沢と稽古してんだろ」

 私には彼が怒っているのかそうでないのか判別が付かなかった。ウェイトレスが私と西山の間を通り抜けてマンデリンを持ってきた。

 どうして西山が知っているんだろう。いくら考えても私の頭の中には心ちゃん以外の密告者が見当たらなかった。

「迷惑ですか」

「迷惑じゃねえよ。ただ、釘は刺しておくことにした」

「はあ」

「喧嘩すんなよ」

 私は吹き出した。

「はは、なんですか、それ」

「本当に。主演の役者が、今のお前と相沢みたいに稽古合わせて、ひでえ喧嘩して、それきり合わせ稽古に来なかったことある。二人とも」

「え、それどうなったんですか? 公演」

「俺が脚本を調整して、二人の穴を埋めた。言うのは簡単だが、実際は尺が滅茶苦茶短くなるわ、台詞を増やした役者……全員だったが……俺に文句つけるわで阿鼻叫喚だったなあ」

 西山は少し優しい顔になった。過去の苦労を思い出している人間の顔だった。

「本番はうまくいったんですか?」

「ああ……」そこで西山は渋い顔した。「成功は、したな」

「……」私はコーヒーを啜って、無言で先を促した。

「そんときは……、俺は反対したんだが……、歌川と津田で示し合わせて、短くなった分の尺を他の劇団に急遽頼んで埋めてもらってたんだよ。俺は反対したのに」

 西山は勢いよくスパゲティを食べた。彼にとっての黒歴史らしい。

「まあ、<西山劇場>の前にいた劇団の話だ。もう随分前だな」

 私は、それからどうして西山が<西山劇場>を発足したのか聞きたかったが、何となくそこで話は終わった雰囲気になった。ウェイトレスがミートソーススパゲティを運んできた。私は食べ始めて、しばらく店内はスピーカーから流れる音楽とスパゲティを啜る音と食器がぶつかり合う音だけだった。しかし、食事に集中していると薄く店内の音楽に被さる音楽が聞こえた。何かと思って辺りを見回すと、カウンターの中でマスターとウェイトレスが虚空を見つめていた。彼らは同じ方向、天井を仕切るカウンター棚の裏を見ていた。私は口に含んだスパゲティを咀嚼してから、席を立ち、カウンターに身を乗り出して彼らの見ている虚空の正体を突き止めた。そこにはポータブルテレビがあって、時代劇が流れていた。

「ばれてもうた」白髪白眉のマスターは片眉と口角を上げて言った。「好きやねん。時代劇」

 

 ミートソーススパゲティを食べたあと、マンデリンを啜っていると何かが頭の中にちらついた。私は窓の外でサッカーボールを蹴っている少年を見ながら頬杖を突いて考えた。

 思いがけず聞いた西山の過去……。消えた二人の役者。薫さんと津田の急場凌ぎ。舞台を埋めた彼女たちの伝手……。

「西山さん」

 西山は吸いかけのタバコを灰皿に置いてコーヒーを啜っていた。こっちは見なかった。

「さっきの話、羽佐間と何か関係があるんですか」

「……」西山は何も答えなかった。私にとってはそれで充分だった。きっと西山なりにヒントを出したつもりなのだろう。それに私は昨晩の心ちゃんとの一件ですっかり忘れていたことを思い出した。

 羽佐間の名前だ。帰ったら彼女の部屋から契約書類を探してみよう。


 羽佐間の部屋の温度は低かった。カーテンを閉めていたからだろう。私はまず薫さんが使っていた棚を見てみた。薫さんの蔵書に混じって羽佐間の私物らしい本が幾つかあった。半分は日本語の小説で、半分は英字の雑誌やハードカバーだった。私は英語が分からないのでタイトルから何のことを書いているのかは分からなかった。

 次に羽佐間の机の棚を見た。化粧品と立てかけた鏡がある机だ。上段の机には爪切りとマニキュアや口紅が入っていた。中段にはイヤホン、これは薫さんが使っていたものだ。それに、指輪が一つ。手に取ってみると高そうな宝石らしきものが装飾されていた。私はそれを戻した。下段の底が深い棚には封筒に入った書類がいくつか立ててあった。その中に目的の物はあった。果たして羽佐間の名前はそこに記してあった。私は唖然とした。

 羽佐間は羽佐間薫だった。

 私はそのことについてよく考えた。それに、中段の棚に入っていた指輪についてもよく考えた。しかし、これという答えは出なかった。考えは纏まらなかった。

 羽佐間、薫……。


 結局、私に分かったことは、羽佐間は私に嘘をついていたということだ。それ以上は何もわからない。考えたくもなかった。リビングのテーブルにはジャックダニエルがあった。


 *


 四人の少年が真っ黒な野原を駆け回っている。彼らの顔は良く似ている。よく見ると彼らは体のどこかが欠損していて、片足が無かったり顔が無かったり両腕が無かったりした。片足が無い子供は当然、失っていないほうの足で必死に跳ねてはすぐに転ぶのだが、楽しそうだった。野原に完全な者は誰一人いなかったが、不思議と調和があって、私は幸福だった。それに、私はその四人の少年をよく知っていた。

 私が演技を始めたのは、小学校二年だか三年のころだった。何かの催しか何かで各学年各クラスがステージ発表をすることになって、私のクラスでは西遊記を演ることになった。私には演じるということが理解できなかった。誰かが誰からしくあるのは、そもそも誰かは誰かを演じているからだと思っていたから、日常と舞台の区別がよく分からなかった。だけど、練習が始まって他のひとたちの演技……そう呼べるほどのものでもなかったが……を見るとどれも嘘っぱちだ、と思った。でも、初めのうちは巫山戯合っていた彼らが時間が経つほど妙な演技のまとまりを見せてきた。台詞を覚えて、先生に大袈裟な動きを指示されて、それで舞台の上に世界ができたらしい。私は何か悪者を演ったように覚えているのだが、役名は覚えていない。台詞が少なかったので何度か脚本を読み直すだけで覚えることができた。でも、私の演技は彼らの世界に受け入れられなかったらしい。先生は私に台詞の回し方や動きの付け方を繰り返し注意し、結局私が他の子の真似をしたら、何故かそれで褒められた。私たちのクラスは学年で優秀賞を獲った。その舞台で私が学んだことは、演じることは嘘を付くことだということ。その考えは薫さんの舞台を観るまで変わらなかった。都合十数年、私は嘘を付いていた。観客はあらゆる他人で、私は彼らの前で女を演じ続けた。

 何が答えなのか分からない役柄を演じ続けることで私は自分自身を見失っていた。四つの原稿にはそれぞれ違う物語を辿ったジョバンニが居て、私はそのうちのどのジョバンニを追っているのか見当が付かない。脚本という泥の中で前も見えないまま這いずっているような感覚だった。あるいは相沢も、他の役者も同じかもしれない。一人称が「ぼく」の彼を、西山は本当に私の中に見たのだろうか。泥の中に他の生物を見つけると私はひどく安心を覚える。それは原作者であったり演出家であったり相沢だった。しかしそのどれもが私を決定する何者にもならなかった。もしこの世に私を保証する存在があるとすれば、私はもっと息をしやすいのかもしれない。心ちゃんはその役割を十の内の幾つかを担ってくれていた。けれども、私は心ちゃんが白田心になった途端にひどく狼狽えて駄目になってしまった。彼女に結婚願望があるなんて知らなかった。ただ私と、時間と性欲を消費するのが私にとっての心ちゃんで、私は彼女の三十三歳という属性を無視するか、茶化してまともに取り合わなかった。もし私がそれを受け入れていれば彼女はもう少し強かったのだろうか。互いがいなければ男にも女にもなれない二人だった。そのことにもっと早く気づいていれば、私はもう少し優しくなれたのだろうか。分からない。

 薫さんも羽佐間も居ないリビングで目が覚めると私は稽古に行った。その日の稽古では、銀河鉄道の車両の中から始まる第三幕。ジョバンニとカムパネルラの前に溺死した三人の西洋人が現れる。彼らの話を聞いて、観客はこの鉄道の本当の役割を知る。ジョバンニにはよく分からない。彼はただカムパネルラとならどこへでも行ける気がしているだけだ。 今日は何故か見学が多かった。演出スタッフも役者もたくさんの人間がいた。相沢の演技のノリが非常に良かった。彼女なりに答えを見つけ出したのかもしれない。カムパネルラは女の子だったが、気に障らない程度のボーイッシュで、原作の雰囲気を取り入れつつも新しい彼女を作り出していた。稽古中としては珍しく、相沢の演技を見て西山は津田と笑い合った。休憩に入ると私は心ちゃんの姿を探した。視界の端に相沢が私に向ける笑顔が映ったが、私にとってはそれどころでは無かった。結局私は津田に「今日は白田さんいないんですね」と何気ない感じで尋ねた。津田は「まあ、彼女はこっちのメインスタッフじゃないしな」と言った。私は「ですよね」と言う以外に無かった。そんな私の事情は置いといて、ジョバンニの演技自体はほぼ本能の領域まで落とし込まれていた。私は頭の中でスイッチを切り替えるだけでジョバンニにもなれたし、「私」にもなれた。だが、相変わらずジョバンニは正解の彼なのかは分からないままだった。西山の方を見ても、彼は何も言わなかった。

 その日は丁度他の幕の役も集まっていたので、三幕から四幕を通して稽古を行った。銀河鉄道は三幕の最後にサザンクロスへ到着する。降車する三人の西洋人。ジョバンニとカムパネルラは二人、舞台に残される。

「カムパネルラ、どこまでも一緒に行こうね」

「うん」カムパネルラは首肯したが、そのまま俯いた。

「二人で本当の幸せを探しに行くんだ」

「うん……そうね」

 僕はカムパネルラからその言葉を聞けるだけですごく嬉しい気持ちになる。

 車窓の向こうには自らの身を焼いたサソリの火が赤く光っている。

 暗転。

 

 稽古が終わり、空の青に黒が滲みだした。今日の合わせは順調で、終始西山含む、舞台に関わる人間達は上機嫌だった。それぞれの場面のイメージは殆ど演出家の想像に近づきつつあるらしい。それは役者たちにとっても同様で、相沢も三幕の最後に舞台を捌けたあとは上気した顔で私が人の溢れるケンタウルス祭の夜を歩いている様を見ていた。ラストシーンに通行人をたくさん配置するのは、西山の思いつきだった。「せっかく役者が来てるんだから、使わないともったいないよな」と言って、見学含む、舞台から既に捌けた役者たちを一挙に舞台に登場させる。その結果、私は舞台の端から人の間を縫って中央に歩くことになった。ラストの暗転直後のイミングで津田が「良いアイディアじゃないか」と言って、稽古場はさらに和やかな雰囲気になった。その流れでなんとなく稽古場にいた人間で飲みに行く段になった。津田が手際よく、適度に騒げる居酒屋の予約を取り、着替えを済ませた団員達は自分のスマートフォンでこの場にいない、仲の良い劇団員にメッセージを飛ばし出した。

 普段の私なら、稽古中に行われる飲み会は尽く参加しなかったが、心ちゃんと話せる機会だった。私が他の団員のようにスマートフォンを取り出して弄り出すと、相沢が意外そうな顔で「あれ、参加するの」と言った。

「あ、うん」本当は心ちゃんが参加しないならこのまま帰るつもりだったが、心ちゃんから返信は無かった。

「珍しい。私も行こうかな」と相沢も珍しく飲み会に乗り気になった。

 化粧室の個室で着替えている間も返信を待っていたが、着替え終わっても着信は無かった。人の流れになんとなくついて行ったら、隣に相沢がいた。稽古を合わせてから妙に私にベタベタしてきて鬱陶しかった。多分、この劇団に私以上に親しい人間がいないのだろう。……まあ、私にしても同じようなものだが。

 ……いざ居酒屋に入ってみると、何故か相沢の周りには人が集まった。どうやら、公演後の飲み会に参加するのと稽古中の飲み会に参加するのにはそれぞれ違う意味合いがあったらしい。相沢は私の隣に座っていたので、必然的に私は彼らに包囲された。居心地が悪い。考えてもみれば、相沢は名前の通り華がある。酒に勢いを押された男性スタッフや普段から気にしていたらしい女性の役者たちが挙って相沢に話しかけた。私は隣で天井を見ていた。

「相沢さんと飲むの久しぶりー」向かいに座った西洋風の姉弟、姉役の鈴木某が言う。

「エヘヘ」相沢は顔を赤くしている。アルコールのせいなのか照れているのか、多分両方だろう。

 周りの人間の誰かが「相沢さんってもっと堅い人だと思ってたあ」と言った。

「ヘヘン、エヘヘ」相沢はさっきからずっとこんな感じだ。もう酔っているのだろうか。

「相沢さん彼氏いるの?」と男性の演出スタッフが尋ねて、その隣にいた男に小突かれた。

「ヘヘエ。フへへ」相沢はフニャフニャ笑ってる。

 そのとき、上座の方から「津田ぁ!」という怒鳴り声が聞こえた。団員達はハッと上座の方を見る。左向かいで楽しそうに先生役の大石と談笑していた津田も、凍り付いたように上座を見る。視線の先には西山がいた。「津っ田ぁ!」と絶叫した。

 西山は立ち上がり、Tシャツを捲って腹を出した。

「太鼓やで!」と西山はまた叫ぶ。

「たい、こ」と津田は呆然として聞き返した。

「太鼓やねん!」と西山は嬉しそうに叫んだ。

「太鼓……」津田は立ち上がり西山に寄って、彼の腹を軽く叩いた。すると、信じられないくらい良い音が鳴って、辺りは静まりかえった。

「太鼓じゃないか!」と津田も嬉しそうに叫び西山の腹を滅茶苦茶に叩きまくった。

 それで辺りは騒然として、太鼓だ、太鼓だ、と西山の周りに人が流れていった。私の周りには隣の酔った相沢と向かいの鈴木某と、その隣に座っていたザネリ役の水野が残った。

 スマートフォンを確認しても心ちゃんからの返信は無かった。

「嫌だなあ、酔っ払っちゃって」と向かいの鈴木が言った。

「ね。でも楽しそうに酔うよね、あの人たち」と右向かいの水野が返す。

「それにしても、相沢さんと仲良かったんだね」鈴木が視線を私に向ける。

 目的語が無いから一瞬分からなかったが、私に話しかけているらしい。

「ああ、ええ、仲が良いというか」隣の相沢を見ると、赤い目で私を見ていた。「まあ、仲は良いですね」

「なにそれえ!」鈴木が高い声で笑った。

「でも、二人が来るなんて意外だわ。相沢さんは堅そうだし、あなたは、なんというか殺気を纏ってる感じだしさ」

「殺気ですか」

「間合いに入ったら斬る、みたいなね」

「わっかる!」と言って鈴木はまた爆笑した。うるさい。私より幼いとは思っていたが、二十歳くらいなのだろうか。酒を飲んでいるから十代ではないだろうが、鈴木の笑い上戸っぷりは十代のそれだった。

 一方、水野は三十代間近といったところで、彼女は落ち着いた酔い方をしている。この二人がこんなに距離が近い位置にいるのが私には意外だったが、劇団の役者というのは案外こんなものなのかもしれない。それから彼女たちは演技の間合い、つまり立ち位置の取り方について話し出して、水を飲んでいた相沢が控えめに会話に加わりだした。私は求められたら意見を示す程度に話を聞いて、烏龍茶を飲んでいた。以前、飲み会で泥酔したときの経験から私はこういった場で飲むときは抑えている。

「でも、日常生活でも間合いってありますよね」と鈴木が切り出した。「極端に間合いが遠い人とか近い人とか、なんか、空気読めないっていう感じしません?」

「まあ、そういう人もいるよね」水野はなんとなく持て余したように答えた。

「例えばほら、最近ウチの別舞台で舞監に入った人とか」

「白田さん?」

 よく知らない人の話題になったからか、相沢は曖昧に微笑んで俯いた。

「あの人、いい人だけど、なんか間合いが近いんですよね」

「う……ん」

「良い人なんでしょうけどねえ、なんかベタベタしてくるっていうか。ちょっと気味悪い?」

 水野も曖昧に微笑んだ。良識はあるらしい。私は天井を見た。本格的にこの飲み会に参加したことに後悔し始めた。

 鈴木の高い笑い声が聞こえた。

「何、その顔!うける!」鈴木は私を見ている。「よくやりますよねえ、その顔!」

「天井を見てたんですよ」

「なにそれ!」

 私は目玉をぐるぐる回した。鈴木はさらに爆笑した。水野も控え目に笑い出した。相沢は不思議そうに私を見ていた。それから私は彼女たちの心が心ちゃんから離れるまで変顔を続けた。眉を動かしたりしながら口角を上げる程度に笑っていたが、心臓の中にドス黒いガスが貯まりだした感じがして、気分は最悪だった。

 外の空気を吸いたくなって、という理由で私は居酒屋の外に出て一人になった。心ちゃんからのメッセージは相変わらず無い。店の向かいにある歩道のベンチに腰掛けて、私は少し何も考えないようにした。そのうちに店の中から相沢が出てきて、私を見つけると左右の確認をしてから小走りで車道を渡り、隣に座った。

「やっぱり、飲み会苦手みたい。私」と相沢は言った。

「私も」

「みんなこういう所で仲良くなってたんだね。当たり前だけどさ」

「……」

「嫌だね、なんか。居ない人の悪口を言って結束を深めるのってさ。皆が皆そうではないだろうけど」

「うん」

 夜の空気は格別に美味かった。またあの人の息が充満した店内に戻ることを考えるとうんざりした。

「さっき、ごめん」急に相沢に謝られた。

「何が?」

「あなた、白田さんと仲良いでしょ。だから、さっき何も言えなくて、ごめん」

「私に謝られても困るけどな」

「そっか」

「うん」

 それから私たちは少し黙った。やはり心ちゃんから返信は無かった。

 私は立ち上がった。

「私、帰るわ」

「え?」相沢は不思議そうに私を見上げた。

「眠いし」

「じゃあ……私も帰る」相沢も立ち上がった。

「うん。……ああ、そうそう」私は反って背中を伸ばした。「稽古場さ、あそこ遠くない?」

「え?」

「<スタジオくらら>」

「ああ……私の家、近かったから」

「やっぱりか」

「明日は変えようか」

「いいわ。あそこの近くの喫茶店、ちょっと気に入ったし」

「ああ。あそこ良いよね」

「うん」

 私は夜の酸素を肺一杯に吸い込んだ。

「じゃ、帰る」

「うん。お疲れ」

「お疲れ。気をつけて」

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