『山根 賢治』の場合・4

 私は守るぞ。

 自らの城を、家族を、そして私自身を。






 ――しかしどんなに強い意志で固めた決意といえども、だけで事態が動いてくれるほど、現実は甘くない。一晩寝て起きたところで、都合よく会社に自らの価値を再認識させるアイデアなぞ浮かぶわけもなかった。

 それでもやらないよりはマシ、と翌朝から会社に行くなりいくら頭を地面にこすりつけて食い下がろうとも、上の決断は一向に揺るがず、それどころか数度目のあしらわれざまに『今月末までに結論を出せ』という――つまるところ、さっさと首を縦に振れという――タイムリミットを突きつけられてしまう始末。

 一向に好転しない事態にただ焦りが募っていく毎日……それが嘘のように転がりだしたのは、月中を過ぎたある日の事だった。





 ※     ※     ※  






 その日も私は、成果の出ない残留交渉に肩を落としながら普段と異なる経路で帰りの道を辿っていた。

 今日もまた、落胆を気取られないように、何ともない振りを通しながら妻や娘との時間を過ごさねばならない。日を追うごとにいや増していく不安が、尊いはずである家族の団欒を過ごすことにさえも影を落とし始めている。

 帰る足が重い。だからといって、いつまでも外をうろついている訳にもいかない。

 一度、強く頭を振る。社会人としての自分はここで終わりだ。これからは夫として、父としての自分。そう気持ちを切り替えるべく大きく短い溜息を吐き出した後、懐から定期を取り出して会社最寄り駅の改札を抜け――そこで目に入った電光掲示板から、乗る予定だった路線が人身事故でストップしているという情報が目に刺さるような赤い文字で流れてきた。

 弱り目に祟り目、とはこのことか……週末金曜日、そして時刻はそろそろ20時。振替ルートである立川の混雑を想像して、視線がひとりでにタクシーのターミナルへと向かう。しかしそこには既に長蛇の列。結局観念して普段の倍近い密度の満員電車に揺られ、ふた駅ほどを過ごして立川駅へと降り立った。

 私同様家路を急ぐ人と、これから夜の街へ繰り出す人が織りなす往来の波を掻き分ける最中、見覚えのある影を見た気がして思わず足が止まる。


 ――課長?

 記憶と照合し、ひとりでに顔が歪んでいった。今日の昼間もこちらの必死の懇願を屁とも思わず――いや、むしろ無様を眺める愉悦を押し隠しながら――涼しい顔で当てつけのように『大きな商談があるから、この辺で失礼するよ』と去っていったのだ。

 本来であれば仕事が終わった後までその憎たらしい顔なぞ見たくもない。にもかかわらず視線と足取りで彼を追ったのは、通りすがったその横顔が昼間のものとは対照的とも言えるほど、焦燥に染まっていたからだ。

 大きな数字をモノにした後にはあまりに似つかわしくない、生白い顔色と冷や汗も印象に残った。

 一度出た南口へと再び入り直す形で彼の背を追う。よほど辺りが見えていないのだろう。時折ぶつかる肩とその度に向けられる抗議や威嚇の目線などまるで気にも留めない様子で改札を抜け、最奥にある1・2番線のホームへと真っ直ぐ向かっていく。

 青梅、奥多摩……?

 彼の家は23区内だ。帰りの足がこの電車に乗る道理はないし、週末の遊興に耽るにしろ、大抵の娯楽は立川ここで事足りるし、不足を感じるならば上り線で栄えている方へ向かう筈だ。わざわざ人や施設の少ない都下へと向かうこともないだろう。当然、終電だって早い。

 一体何の用があるというのだろう。行動の意図を図りあぐねて足を止める私とは対照的に、課長は何の躊躇もなくエスカレーターに足を掛け、その背中が低く唸るモーター音と手すりの間へ吸い込まれていく。

 どうする。ここで引き返すか、それとも追いかけてみるか――そういえば昼間、課長が大口の商談を決めに行った相手の土建会社は確か、この路線沿いに社屋を構えていたはずだ。プライベートはともかく、仕事上で彼とこの路線の接点と言えばその会社しかない。

 そして、夕礼で見せた勝ち誇った笑顔とは真反対のあの表情……疲れきって一刻も早く家路に就きたい身体に歯向かうように、どうにも言葉にしにくい予感のようなものが踵を返そうとする足を縫い留める。


「……もしもし、佳奈美?悪いけど今日も少し遅くなりそうだ」


 手短に連絡を済ませ、スマホを懐へ収めて小走りに駆け出す。いつもの優柔不断は決断を遅くさせたが、幸運にもエスカレーターを降りた先でまさに電車に乗ろうとする彼の背中を再び捉える事が出来た。

 課長が乗り込んだのは3両目の一番後ろ側に位置するドアだった。乗客もまばらななこの電車で迂闊に彼の近くへ陣取るのはリスクが高い。しばらく悩んだ末に同じ車両の一番前のドアから入り、席に座ると同時に鞄から今朝買った新聞を取り出して顔を隠した。

 まるでベタな探偵ドラマだ。半分は好奇心、もう半分は何かが起こる・変わるかもしれないという藁にも縋る思いに支配された心は、不謹慎にもどこか高揚に似た感覚を覚え始めていた。

 







 ※     ※     ※






 

 何かが変わるかもしれない。

 変わってくれれば。

 そんな妄想にも似た考えを頼りに始めたなれない追走劇。

 しかし結論から言えば、その予感――直感と言うべきか――は当たっていた。

 私と課長を入れても一両にほんの数人しか乗り合わせていない電車で立川を離れ、青梅で乗り換えて更に15分ほど。あと少しで県境といった山間の駅で、課長は突然座席を立った。件の客先はふた駅前に過ぎている彼が座る優先席と逆側の隅に座っていた私は、そこで下りなかった事でどこまで行くのかとすっかり疑心に苛まれ、感づかれるのも厭わない勢いで視線を送っていた。

 だが課長の余裕のない横顔がこちらに向くこともなく、むしろそのおかげで急な動きを見逃さずに済んだのは幸運だった。

 改札から出た課長は泳ぐ目同様、どこか落ち着かない足取りで階段――ここまで街中から離れれば、エスカレーターも標準でついてはいない――を下っていく。覗き込むスマホの画面がタクシーを呼び出すアプリを起動していることに気付いた。

 ……ここから更に動く可能性がある。

 ここまで来て見失ってはたまったものではない。十数段先を行く彼に倣い、私もアプリを起動してタクシーを呼びつけておく。


「すみません、適当に距離を保ちながら前の車を追っていただけますか」


 まさかこんなドラマじみたセリフを現実で口にする日が来ようとは。それまでにこやかだった運転手の顔が一瞬にして怪訝に曇った。しかしこちらの目に込めた圧力と余分に握らせた万札のおかげで、押し問答することもなく車が動き出す。

 それから料金メーターの数字が3度上がってすぐ、課長のタクシーが舗装された街道を右へと折れる。曲がった先でうらぶれた雰囲気の駐車場へと入って止まったのを確認し、私もタクシーを降りる。

 当然というか周囲に人影もなく、聞こえてくるのは虫の声と時折通り過ぎる通りの車の音だけ。いかにあたりに気を回す余裕のない相手でも、迂闊に近づこうものなれば流石に感づかれてしまうだろう。

 この駐車場はそこまで広くないし、車はおろか人でさえも入ってきたところ以外に抜ける口はなさそうだ。突然フェンスを乗り越えるなんて奇行に走られない限り、見失う心配はない。

 さて、謎が解けるか。

 何かが、変わってくれるか……僅かに上がる心拍数を抑え付けるのに深呼吸を数度繰り返し、それから彼を追って入口に歩を進める。

 2、30台程度の駐車スペースに停まっている車は数えるほどで、そのほとんどがトラックやなにがしかの作業車に見えた。少なくとも、ここは近くで暮らす人たちが生活の足としての車を停めておく場所ではない。

 頭に浮かべていたあやふやな希望的観測が、少しだけ輪郭を帯びた気がした。もしかすると、ここもあの土建屋の持ち土地なのかもしれない。それならば課長がこんな時間にこんな田舎くんだりまで来る理由としてはあり得る。

 しかし、点と点がひとつ繋がったところで、全体が見えるわけではない。いったい何の目的があって彼はこんな時間にここまで来たのか。はたしてその足取りはこちらの疑問に答える形になるのか。判然としないままも課長は真っ直ぐ敷地の一番奥へ向かい、そこで足を止めた。

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