第15話

A子はMの姿をとらえると、晴れたように、さっと立ち上がった。

「待ったかい」

A子は昼間よりずっとくっきりした紅い唇で顔を緩めた。

「混んでいると思って、早めにきちゃいました」


Mはジャケットをハンガーにかけて腰を落ち着けると、さっそく献立表を手にとった。

「嫌いなものはあるかい」


A子は笑いながら大きく首を横に振った。

背の低いふとっちょのソムリエが、たるんだ顎を震わせてやってきた。


「お久しぶりでございます。M様」

「やあ、今日は大事なお客さんを連れてきたよ」

「これは、これは。いつもにもまして、腕によりをかけて、はい、がんばらせていただきますよ」

「食前酒はおきまりのやつで。君、赤、白、両方試してみるかい?」

「先生にお任せします」

「両方お試しならおすすめのハーフボトルがあります、M様」

「いまさらボルドーなんてやめてくれよ」

ソムリエはにんまりしながら、

「いえいえ、トスカーナ産ですので」

と顔を崩し、Mが頷くのを見てかしこまりましたといって奥へ去った。

「ところで、体調は?もういいの?」

「はい。大丈夫です。お休みいただいて、ありがとうございました。気持ちの整理ができて。それに…」

「それに?」

「こうしてお気遣いいただくのがうれしくて」

「そんなこと。君はチーフだし、研究所の要だから」


A子は白い歯を綻ばせた。

「ありがとうございます。私、生きててよかったです」

Mは口を開けて笑った。

「生きてて?バカなことを言うんじゃない。冗談いうなよ…」

「いえ、本当に、それくらい悩みました」

「彼女のことは僕の責任だよ、君は気にする必要はない。この仕事はいくらでもつらいことがあるぞ。つよくならないとね」


A子はこくりと頷いた。

「ところで料理、気に入ってくれるといいんだけど」

A子は、壁伝いの台座に並んだアンティーク様のオルゴールやアールデコ調のティーポットをぐるりと見まわした。

「雰囲気がよくて。お庭もこじんまりして素敵」


タコのカルパッチョをぎこちなく口に運んでいたA子だったが、料理が進むにつれて、緊張が消えたようだった。

職場の話題になると、誰々は今婚活中だとか、実は彼らは別れた後であるとか、Mの気づかない小さな世間話が双方を巡った。

また、これは意外だったがA子は株式投資が趣味で、学生の頃からそこそこの資産を作っていた。

「君ってパソコンに詳しいよね。確かプログラム言語でソフトもかけるって。それが趣味かと思ったら。へぇ、投資、意外だなぁ。今度教えてよ」

「実は私、簡単な暗号ならすぐ解けますよ。あ、ハッカーなんて悪いことはしてませんから。ご心配なく。投資用のプログラムも描いているんですよ。売り買いのアラートかけてますから。すぐ儲けられますよ」

「まさか」

「株は人の心理といっしょで、ランダムですから、うまく扱えば伸びていくんです。心理療法の達人の、先生なら、センセイ」

「そんなもんかな。だが、まァ、僕には金儲けの才能はないよ」

毎年忘年会で遭遇する、A子の、舌足らずの、なでるような、センセイの物言い。それが出てきたら深酔いの目印のだった。


二人はメインの、スズキのソテーを口に運び、ヴェネト産の白で喉を潤した。

「ワイン、どう?」

「ええ、こんな美味しいワイン、わたし初めてです。しあわせ…」

「そう、よかった。辛口は相性がいい」


二皿目のメイン、和牛のローストビーフを赤ワインで流した頃、テーブルを挟んだ二人の位置はより近くなっていた。

酔うと女は違って見える。仕草まで変わった。ウェイブした髪の奥に白く光るピアスがしっかりのぞけるように、A子は頭を振りかぶった。

Mはいつの間にか色気を身に着けた、A子のそぶりを奇妙に感じた。

「…やめろ」

ささやく声は、ようやくわかったかというように、また唐突に現れた。

「君は変わったねぇ。たったひと月でずいぶん変わった。不思議だよ。綺麗になったし。恋人でもできたんじゃないかって」

「女はメイクで変わるんですよぉ。恋人?ですか。さあ、どうでしょう。センセイ、、はどう思います?」


A子はクスっと笑って、マニュキュアののった白い指をからませた。

「こうなると…」

「こうなると…嫉妬します?自分のものだと思い込んでいた小鳥が他人の所へ去っていくと」

(自分のもの?)

Mは考えるふりをして、正直に返した。

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