第14話

一か月後、A子が職場へ戻ってきた。

Mやスタッフをまっすぐに見つめ、「また、お世話になります」とぺこりと首を垂れ

た。


A子は変わっていた。

研究所のリーダーとして、「鋭い切れ味」が特徴だったA子の変わりようは、スタッフの雑談の中でちょっとした驚きだった。身なりも化粧も、別人になっていた。細い目で会議をまとめるリーダーが、どこで身に着けたのか、ピンクのアイシャドウで柔和に変化していた。


「のんびりしなよ」


モニター越しに、マウスをスクロールするA子の背にMは声をかけた。終業から1時間以上経って、スタッフは誰一人残っていなかった。たまっていた仕事をせっせと処理していたA子は、顔をほころばせた。

「先生、居らしたんですね」


ブラウスの下から覗く、シルバーのネックレスの一粒ダイヤがささやくように光っていた。


「だいぶ洗濯はできたみたいだね。快気祝いでもどう?」

「本当ですか。ありがとうございます。うれしいなぁ。でもお祝いしてくれるなら、せっかくだし、二人きりが…あ、いえ、いいんです。みんなでワイワイやりましょう」

「かまわないよ。君さえよければ」


普段は冗談でも二人きりなどと、いわなかった。好意はあっても表に出さない所がMのお気に入りだった。


「やめろ」

やめろ?

「ウン?」

やめろ、エ?なに?

「やめろ」


A子は裏返った声で返した。


「ホント、約束ですよ。うんとおめかししますから」

「イタリアンにしよう、来週あたり、決まり」


「やめろ、やめろ」

その声が遠くから響いて、なかなか鳴りやまなかった。




「今日はめずらしく空いてますね」

運転手はバックミラーを上目使いに見て、左折の横断歩道を横切る老婆を待ちながら、ハンドルを握りなおしていた。


「…金曜の夜だというのに」

Mの耳元にはまだ、あの、「やめろ」、が残っていた。その声は男だったり、女だったりしたが、いずれにしても、おそらく彼の悪魔だった。

A子はしもべだろ。しもべを扱うのは主人の勝手だろう。時にはしもべの願いを聞き入れたっていい。


ひょっとして恋人でもできたのだろうか。Mが知らない間にスタッフ同士がつきあっていることだってある。実際、籍をいれたのもいた。

誘っておいて遅れていくのはしらじらしい気もしたが、主従を崩してはいけない。


「お客さん、運がいい。もうすぐですよ」

Mは背中を崩して、足早の人通りにうっつらと目を向けた。

いや、ゆっくりでいいんだ、そう言いかけて、

「ありがとう」

と返した。


安らかな顔だった。俺が生きている限り。

この至福はなんだろう。

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