センセイ

上斗春

???

 一目見て、ア、センセイだ。って思った。

 少し型崩れしたリュックサックに、薄水色のワイシャツ。昨日テレビで見たお笑い芸人と同じ切り方の髪型。斜め後ろから見ても分かるほど、たるんだお腹。典型的なおじさんのフォルムだ。私は無意識に歩調を緩めて、決してあの人を追い越さないように——つまり、放課後のくせに優等生みたいにニッコリ微笑んで、愛想良くご挨拶なんてしなくても良いように——さりげなく距離を取った。

 ちょうど昨日。もしくは先々週あたりに、あの人に怒られた気がする。理由は覚えてないけれど、廊下の隅っこで小言を言われた。多分ウチらが大声で騒いでいたのだ。いや、走っていたのかもしれない……「中学生にもなって」だったか、はたまた「高校生なんだから」か。とにかく年齢と絡めてチクリと一言。ウチらの善良な心も、ほんのすこーし、痛んだ気がする。もちろんすぐに忘れたけれど、こうしてあの人の姿を見ると、嫌でも苦い記憶が蘇ってくる。

 そういえばあの後、一緒に怒られてしまったユッコ、さーや、真理ちゃん、荻野と一緒に、ブーブー文句を言い合ったんだっけ。クラス替えの時に仲良くなった四人組は、心友だとか神友なんてチープな言葉では表せない、かけがえのない友達だった。——の事を教えてくれたのは、そのうちの一人であるユッコだ。


「ねぇ。センセイって知ってる? ……ううん、ただの先生じゃなくて。あのね——」


 私はもう一度、まじまじとあの人を観察してみる。前向きにムーンウォークしているみたいな、ちょっとダサいすり足気味の歩き方。耳にかけられた細い眼鏡の。ああ、これは絶対に、私の知っている先生だ。確かに怒られた記憶がある。授業で話している時の癖も知っているし、チョークを割ってしまった時のリアクションも覚えている。そういうのを真似するのが異常にうまいお調子者がいて、昼休みになると見飽きるくらい物真似を披露していた。


 そう、これは、先生なのだ。私の心の中にある「先生」という名の思い出をぐちゃぐちゃにまとめて、雑に引きずり出してヒトの形にした、偽物の先生。——センセイ、だ。


 センセイは、怪異だ。

 妖怪と言っても良いし、お化けとも取れる。しかし一番的確な言葉は怪異で、物が勝手に空中に浮かぶポルスターガイスト現象や、いきなり発生元不明の音が鳴り出すラップ現象にも近い。とにかく理屈では説明できない不思議な現象なのだ。


 ユッコからこの話を聞いた時は、全く信じていなかった。元々怪談話では怖がらない性格だし、正直なところ、脈絡もなくいきなりこんなことを言い出したユッコの方がよっぽど怖かった。私を省いて何か企んでるんじゃないかって、少しばかり疑心暗鬼になった。

 けれど、目の前にセンセイが現れてしまった今は、これが確かに怪異だとわかる。

 何も恐ろしくないのに、目にした瞬間にサッと血の気が引いて、体全身に鳥肌が立ったのだ。ずっと昔の黒歴史を掘り返されたような不快な気持ちと、三者面談の気まずさとが心の中でない混ぜになる。

 別れの歌をうたった時の、鼻の奥が勝手にツンとくる感じ。理不尽に怒られた時の、胸のムカつき。ああ。私は今、自分の記憶の中で翻弄されている。


 十数歩先を行く先生は、すれ違う通行人を気遣うように、時おり歩道の端で立ち止まる。きっと気にせず歩いてもぶつかる事はないだろうに、こうして過剰に礼儀正しくしているのは、もしかして後ろを歩く生徒の模範となるためだろうか。

 先生は、学校からどれほど離れたら、先生では無くなるのだろう。

 恋人や家族との外出は、先生にとって油断ならないイベントであるらしい。現生徒も、元教え子も、街のどこで出会うか予想がつかないからだ。鬼が沢山いる鬼ごっこみたいなもので、たとえ勤務地から遠く離れた観光地であっても、自分を先生だと知る人間に遭遇する確率はゼロにならない。

 毎年の年賀状は断らなければ家のポストから溢れるほど届いてしまうし、律儀な生徒は十年経っても同じ字で近況報告をしてくるらしい。目を通すのも返事をするのも一苦労だ。


 目の前のセンセイは、元教え子とお酒を酌み交わしたことはあるのだろうか——ついその光景を想像しかけて、首を振った。いけない、この人はセンセイだ。デタラメに作られた偽物の恩人なのだ。


 付かず離れず、一定の距離を保ちながら通学路を進む。見慣れた背中には、何か感謝すべき事があるような気がしてならない。友達との喧嘩を、子供には思いつかない機転で解決してくれた事だろうか。それとも給食を残しても良いと言ってくれたこと? さっきは挨拶などしたくないと思ったが、なんだかあの人とは上手くやっていた気もするし、親しげに肩をちょんちょんとつついても怒られないだろう。

 私は少し歩幅を広げ、あの人はちょうど、すれ違う人のために道の脇で立ち止まった。近づくと、半身になったセンセイの横顔がチラリと見えた。


 ……あ、誰だ、アレ。


 肌が白い。少し荒れているようにも見えた。しかしツルツルの小麦色のようでもあったし、鼻は筋が通っていたが先の方が潰れていた。唇は薄く前に突き出たタラコ型で、髭は岩のコケを毟ったように所々に濃く生えていて目はシジミのように小さくクッキリとした二重。

 気づけばセンセイは前に向き直り、また歩みを進めていた。もう、顔は見えない。


 センセイは怪異だ。私の記憶をこねくりまわし、マーブル模様の柔らかい粘土をヒト型にしたような存在だ。顔は誰から出来ている? ヒトの顔があるべき中心で、色とりどりの肉が渦をまく様子を思い浮かべる。外側に向かって回転は流れ出し、中心の落ちくぼんだ穴からはまた違う先生の顔が湧き出て、ぐるぐる、ぐるり、と、センセイを作り出している。


 ヒュル、と、私は息を飲んだ。

 ここは一体どこなのか。

 古ぼけたビルとコンビニに挟まれた、少し湿度の高い路地の上。私の影は細長く間延びして、センセイの形をした薄墨色の分身と、まるで連れ添うように並んでいる。


 私はそっと歩調をゆるめて、影よ縮め、と地面に祈る。その瞬間に、周りの景色は紙芝居のごとくガラリと変化した。


 駅の構内。売店にはシャッターが降りていて、その横には指名手配犯の色あせたポスターが貼ってある。センセイは変わらず私の前にいて、改札の方へと迷わず進んでいた。その中では知らない人が沢山行き交っていて——私は背筋がゾクッと、震えた。

 あの人混みの中に紛れてしまえば、センセイは先生で無くなるのだ、と思った。

 わたしはあの人に、何か大切なことを教えられたのかもしれない。虚構の恩が積み重なって、陽炎のようにゆらゆらと、センセイが揺れ動く。もし有難うと伝えるのなら、今しかないのだ。

 何か言い忘れた文句は無いか。思い返せば、社会に出たことのないセンセイは、生徒に対しても子供の癇癪ような酷い対応を取る時があった。文化祭で張り切る姿は、現役時代の青春を取り戻そうとする自分本位なものであったし、時代遅れの迸る情熱にはクラス全員が引いていた。

 とうとう人混みに紛れてしまった背中は、力を失ったヒーローのように凡庸で、頼りなく見える。

 しかしその後姿に追いついて、何もかもを話してしまいたいような気もするのだ。私はセンセイの努力や涙を知らないが、私は自身の頑張りや、進路についての不安、交友関係の悩みを全て打ち上け、思い通りの反応を貰えなかったことに憤慨し、放課後に友人と愚痴を言い合いたいのかもしれない。

 行かないで、と、思わず掠れた声で言った。

 人の波に揉まれ、センセイの輪郭が、ぷつぷつと消えていく————


「あっはははははは!」


 ユッコの笑い声で、夢中で喋っていた私は現実に引き戻された。我ながら、魂の入った語りだったと思う。ユッコはひぃ、ひぃ、と息も絶え絶えで笑っていた。失礼な奴だ。


「ご、ごめんて。まさか本当にセンセイが見えちゃうなんて、君、があるねぇ」

「ユッコ……もうっ」

「あ」


 ユッコは何か言いかけていたけれど、私はプチッと電話を切った。あんなに感情が氾濫して、脳がぐらぐらする経験は初めてだったのに……。言い出しっぺはユッコのくせに、全然信じてないみたいだった。怒り心頭のまま携帯を二つに折り畳み、ベッドに顔を埋める。すぐにメールの着信音が鳴った。多分焦ったユッコからだろう。……あーあ、怒る気も失せた。あの子はどこか憎めないやつなのだ。

 さーや、真理ちゃん、荻野は、結構気が強いタイプだけれど、ユッコは割と地味で、朗らかな性格だから、みんなの緩衝材になってくれるトモダチなのだ。そう、大切で、たまに大切じゃないような気がする、身近で、最近は遠いような、トモダチ。トモダチで————


 インターホンの音が鳴って、目が覚めた。

 いつの間に寝ていたのだろうか、冷たい床から剥がした背骨が、パキリと音を立てて軋む。

 スマートフォンには、いくつかメッセージが来ていた。

 ひとつは荻野からだった。また四人で集まろうよ、と珍しいお誘い。

 それからショッピングサイトの宣伝がいくつか。また割引をやるらしい。

 最後はオカアサン。誤字だらけの近況報告。有難いような少し鬱陶しいような。


 ピンポーン。

 催促するように、もう一度音が鳴った。慌てて立ち上がりモニターを見てみると、顔は見切れているものの、どこか既視感を覚えるような、たるんだ体が映っていた。ヨレヨレのポロシャツ、毛むくじゃらの手の甲。爪は小指だけ長くて黄ばんでいる。これは紛れもなく、オジサンだ。

「はーい!」

 私は努めて愛想良く答え、エントランスの鍵を解除した。少しドアを開けてみると、1人分の足音が、階段の方から響いて聞こえた。少し寒いけれど、このまま廊下で立っていよう。

 


 オジサンには何かと恩がある。臭いし面倒な絡み方をしてくる時もあるが、なんだかとても頼りになるおじさんたちに、私は出会ったことがあるのだ。

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