第2話 アイツの仕打ち

携帯を鞄のポケットから取り出し連絡帳を開く。悲しいことに青春真っ只中の男子中学生とは到底思えない人数しか登録されていない。片手で数えても足りてしまう。その中で最も使用頻度が高いページを開き連絡を入れ、荷物を手早くまとめて教室をあとにする。僕はこのとき何故机を確認しなかったのだろう。していれば…あんなことにはならなかったはずなのに。


誰かに見つかりはしないかとびくびくしながら薄暗い廊下を進む。黒い雲が空を覆い、遂には雷鳴が轟き始めた。時折青紫色の光が僕を包む。そのたびに小さく悲鳴をあげ減速するものだから指定された教室までの道のりは僕にとっては富士山登頂くらいに思えた。唯一違うところといえば傾斜ぐらいのものだ。生徒指導室と書かれた部屋の前で大きく息をつくと緊張でノックも忘れ、力強く扉を開ける。目の前にいたのは左手には逆さになったカップを持ち、目を丸くする呼びだした張本人の姿が。うすいクリーム色のフレアスカートには茶色い染みができ透けていた。視線をさとられる前にそっぽを向く。銅像と化した先生を軽くつつき意識を戻す。その後自分の姿を見て先生が悲鳴をあげたことは言うまでもない。コホンと小さく咳払いし、取り乱したことをなかったことのようにする先生がかわいくて、つい笑ってしまった。“なに笑ってんのよ”と先生につっこまれ、しどろもどろになると今度は先生が笑った。だがその笑いは…これから僕に出す今日の授業態度の補習プリントの量を思ってのものだった。まあまあの厚みのプリントの束を渡され先生は愛用している腕時計をみて

「はい、現在の時刻は4時45分ね。終わるまで帰れないからね。」

とウィンクして言った。僕は驚いて窓に駆け寄った。グラウンドには熱心な野球部員だけが残って練習している。いつのまにか雷は止みバケツをひっくり返したような雨が滴り落ちていた。僕はしぶしぶ先生の前に座り、ずり落ちたメガネを人差し指でくいっとおしあげる。

それからどれくらい経っただろうか。僕のかつてない集中力で山のように積み上がっていたはずのプリントはなくなっていた。

「やっと、終わったぁー」

ため息とともに椅子から手足をなげ出す。すると僕の頭の上に何かが乗った。温かいぬくもりのあるそれは僕の頭をゆっくりとなでる。照れ恥ずかしくなって

「先生、子供扱いはやめてください」

と強引に手を振りほどく。勢いそのままに荷物を持って扉へ向かう。先生の制止も聞かず、飛び出し、“さようなら”と叫んだ。たぶん僕がここまで大きい声を出したのを先生が聞くのは初めてだっただろう。ハァハァと荒く息を吐きながら昇降口で立ち止まる。帰ろうと靴を掴んだとき僕は気づいてしまった。荷物を置いて走る。薄暗い学校が僕の恐怖感をさらに煽る。教室に人影がないことを確認して足音を消して席まで急ぐ。お目当てのお弁当箱を抱えて出ようとしたときだった。僕はこのとき程後悔したことはない。扉に手をかけていた僕に逃げ道はなかった。せめてもの抵抗で息をひそめる。壊れんばかりの勢いで開け放たれた扉の向こうにいたのはおもちゃをみつけたようなアイツだった。恐怖のあまり腰はぬけ、声も出ず。

「そうた君じゃん」

にやにやと近づいてくるアイツに為す術なく胸倉を掴まれる。小柄な僕は持ち上げられ地面から30センチ程離される。“あぁ、人って浮くんだ”などとくだらないことしか思いつかない。脳は最早最低限の仕事すらも果たしてくれなかった。

「俺に無視とはいい度胸だな、そうた」

反論しようにもアイツに首を絞められ乾いた息が歯の隙間から漏れるだけだった。だがそんな僕の態度は謀らずもアイツの怒りを助長したほかなかった。間髪いれずに平手打ちが飛んでくる。触らずも頬は腫れていると分かる。強い衝撃に視界がぐらつく。見慣れたはずの教室すらも歪み、見えるのはほくそ笑んでいるアイツだけ。僕は察した。終わらないこれからを思うと勝手に水滴が滴り落ちる。制服は濡れ体は冷えていく。必死に動こうとするが恐怖で足が動かない。ほふく前進並みのスピードしか出ない。僕の足を踏みつけて固定する。まるでサンドバックをみるような目で僕の薄い腹を殴り続ける。痛みに呻く僕を一瞥したが殴り続けた。15分くらい経ったのだろうか。だんだん意識が朦朧してくる。まだ飽きもせずアイツは嬉しそうな顔で僕を殴っている。廊下に人影が見えた。アイツが作った一瞬の隙を狙って、僕は救世主とばかりに駆け寄る。止めようとしたアイツだったが見回りの先生は僕の変わり果てた姿を見逃すことはなかった。すぐにアイツは鬼の形相をした先生に生徒指導室へと連行された。僕は解放され、廊下にへたれ込んだ。飛びそうな意識をかろうじて保っていられたのは母さんを待たせていたからだった。わずかな力で昇降口へ向かう。荒れ狂っていた空はその影を微塵も感じさせなかった。携帯に届いている大量のメッセージと着信に僕は申し訳なく、悔しかった。涙でぐしょぐしょの顔を隠す元気は残っていない。せめてものから元気で車に乗り込む。隣で母さんが息をのむ音ははっきりと聞こえたが無視するしかなかった。きっと今返事をしてしまったら僕はもう我慢が出来ない。だが母さんは握っていたカフェラテを落とし泣きじゃくる。決して僕には何も聞かずに…。やっと発進した車は温かい光を灯す我が家へと向かう。

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