八時四七分の魔法

ろくなみの

八時四七分の魔法


「さて、続いてのお便りは、ラジオネーム、ナミさんからです。私は小食なんですが、それを友達に馬鹿にされ、イライラします。どうしたらいいですか……うーむ、なるほど。小食って印字されたシャツを着るのはどうかな?」

 カーラジオから流れる、DJの低い声が今回もメールを読み上げる。また俺のメールじゃない。そのゆるい解決策に苛立ちすら覚え舌打ちをした。怒りが鎮まる間もなく、会社の駐車場に到着する。助手席のカバンを担いで車を出ると同時に、乱暴にドアを閉めた。早歩きで会社の入り口へ向かうと、肩を落として歩く同僚の佐藤さんの背中が目に入る。挨拶をする余裕も必要性も感じないまま、彼女の横を毎度のごとく通りすぎた。会社の自動ドアを通りすぎると、俺の第一目標であるタイムカードの機械があった。舌打ち交じりにカードを通す。打刻時間は今日も八時四十七分。計算通り。次駄目だったら、おとなしく出勤しよう。

 次の瞬間、俺がいたのはタイムカードの機械の前ではなく、数分前にラジオを聞いていた車内だった。

「さて、続いてのお便りは、ラジオネームガストさんからです。最近大食いなことを友達に馬鹿にされ、イライラします。どうしたらいいですか……うーむ、なるほど。いっそ世界一の大食い王でも目指す、というのは?」

 カーラジオから流れる、DJの低い声が今回もメールを読み上げる。また駄目だった。もう何度目だろう。

うちの会社のタイムカードには秘密があった。八時四十七分に打刻すると、俺の心と体は何故か、六分前の車内に戻ってしまい、朝のラジオを何度も聞くことになるのだ。ただ、タイムリープと言っても、毎回展開が同じというわけではない。ラジオで読まれるメールの内容だけは、毎回異なるのだ。だが、俺が送った相談メールは一度も読まれていない。次読まれなかったら、おとなしく出勤しよう。一度も守ったことのない無意味な決意を抱きながら、同時刻に駐車場へ到着する。肩を落として歩く佐藤さんの横を通りすぎ、タイムカードを押した。

 次の瞬間、また俺は車の中にいた。何度もやり直せるから、急ぐ必要はないにしても、じれったさは少なからず感じてしまう。だが、イライラしても何も変わらない。冷静になれ。落ち着いて、今日もラジオを聞くんだ。

「さて、続いてのお便りは、ラジオネームシュガーさんから。恋のお悩みとのことです」「くそがっ!」

怒りに任せた独り言と共に、ハンドルを拳で殴りつける。クラクションの音が高らかに響いた。また興味もない誰かの悩み事を聞く羽目になるのか。いろいろ聞いたが、どれもそこまで相談するほどのものじゃない。俺のメールの方がよっぽど重要だ。何通メールが来ているんだ。ため息を吐き嫌々ながら、続きに耳を傾けた。

「会社で気になる人がいるんですが、勇気が出ず、声をかけることができません。新人だった頃、誰よりも忙しかったのに、私のことを気にかけてくれてたんです。このメールが読まれなかったら、告白するのはあきらめようと思っています……ですか。なるほど……思いを伝えるのには勇気がいりますよね。だけど、その人の優しさに気づけたあなたも、素敵だね。まあいきなり告白もハードル高いかもね。まずは仕事終わりに食事にでも誘ってみたらどうでしょうか?」 

 ラジオを聞き終え、車は会社の駐車場に到着する。車を出て、会社の入り口へと向かう。佐藤さんの足取りはいつもより軽く、俺より先にタイムカードを押して出勤した。そして俺も、タイムカードの機械の前に立つ。時刻は八時四十七分。タイムカードの投入口へカードを近づける。通す前に、胸の底から沸いてくる罪悪感が、下腹部をぎゅっとしめつけた。ここで時間を戻すことは、シュガーさんの成就されるかもしれない恋を、蔑ろにしてしまうことになるのでは…一瞬脳裏を過った可能性を思案する間もなく、カードが重力に従い落下する。分針が動こうとするその瞬間、カードは投入口の向こう側へ吸い込まれていった。

「さて、続いてのお便りは、ラジオネームソルトさんからです。会社がブラックすぎて辞めたいです……なるほど。辞めてもいいのでは? きっとあなたの優しさをわかってくれる人が、きっとどこかにいますよ?」

 カーラジオでDJが低い声で読み上げたのは、念願の俺のメールの文面だった。繰り返す時間の中で、ずっと求めていたことだったはずなのに、俺の心は一ミリも喜んでいなかった。その代わりに胸をえぐるほどの、猛烈な罪悪感がのしかかってきた。それでも習慣というのは不変であり、車は会社の駐車場に到着した。エンジンを止め、車から降りる。ラジオなんかに頼らなくても、辞表を出すことくらい余裕だったろうに。シュガーさんへの申し訳なさがこみあげてきて、次第に涙までこぼれてきた。俺はタイムカードの機械の前でうずくまり、膝を抱く。涙と鼻水で息苦しくなっている時だった。背後に誰かの気配を感じた。

「先輩」

 耳に入ってきたのは、蚊の鳴くように儚い女性の声だった。こんな情けない姿を他人に見せたくなくて、返答する気分にもなれず、彼女の言葉を無視した。

「……はあ」

 彼女は呆れたように小さくため息を吐き、うずくまる私の横にそっと寄り添った。

「どうせ辞めるんなら、私とごはん行ってから辞めません?」

 少しだけ芯の強くなったその声の主は、毎日肩を落として出勤していた彼女とはまるで別人のようだった。  完

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