06.〈アンティーカ・バナシス〉での交渉

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クロエは、アクセサリーのデザインについて相談するために、アテネの工房を訪ねる。

そこに現れたのは……。


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「リッツァ! 起きて」

「うーん……もう目覚まし時計鳴ったの? わたし止めた?」

「いいえ、ごめんなさい。急にアテネに出かけなくてはいけなくなったの。きょう一日、店番をお願いできる?」

「アテネ? でもどうして?」リッツァがベッドの上でゆっくり身を起こしてきいた。

 クロエはブラシで髪をとかしながら答えた。「来年のアクセサリーデザインのことで、バナシスさんと相談することがあるのよ」

「来年のことを今やらなきゃならないの?」

「工房では、そろそろ準備を始める時期なのよ」

 昨夜、メールをチェックすると、アクセサリー職人のテオ・バナシスから連絡が入っていた。一週間ほど前、クロエは来年の春に向けてアクセサリーのデザイン画を数枚送った。テオがそれについて検討したところ、今のままでは予算内で制作するのはむずかしいということだった。こういう場合、メールや電話のやりとりでは、らちがあかない。直接顔を合わせて話し合うのがいちばんだ。しかもできるだけ早いほうがいい。

「夜八時過ぎには帰るわ。申し訳ないけど、お店をお願い。ひとりでだいじょうぶ?」

 リッツァがふうっとため息をついてから答えた。「だいじょうぶよ。モナに手伝ってもらうわ。こっちに帰ってきてから、昼間やることがなくて暇だって言ってたから」

「そう、よかったわ。それじゃ、よろしくね」

 クロエは身じたくを終えると、家を出て、八時出発の高速フェリーに乗った。サフォロス島からアテネまでは、フェリーで三時間かかる。飛行機なら三十分だが、料金は倍以上だった。余計な出費は控えなければならない。

 十一時過ぎにアテネの港に到着し、地下鉄で街まで移動した。テッシオン駅に降り立つ。きょうもいい天気で、ぎらぎらとした太陽の光がまぶしかった。大通りにはたくさんの車が行き交い、排気ガスと土ぼこりで少し呼吸が苦しくなる。

 小さなタヴェルナで簡単に昼食をすませてから、〈アンティーカ・バナシス〉へ向かった。名前のとおりもともと骨董の卸売商だが、先代の主人が亡くなり、トニとテオという四十代の兄弟が店を引き継いでから、トニが骨董の卸売りを担当し、テオが工房を開いてアクセサリーや小物を制作するようになった。祖母の代からこの店とつき合いのあったクロエは、テオに少しずつ教わりながら、徐々に自分でオリジナルのデザイン画を描き、それを商品にするようになったのだった。

 クロエは古い石造りの建物の扉をノックしてから、そっとあけた。店のなかには、ありとあらゆる骨董品が雑然と並んでいた。奥のほうで、背を向けて段ボール箱を持ちあげようとしていた男性が振り向いた。

「こんにちは、トニ」

「やあ、クロエじゃないか。どうしたんだい? 何か店で足りないものでも?」

「いえ、来年のアクセサリーデザインについて、テオと話をしたくて」

「また弟が、きみのデザインに難癖をつけたのかい?」トニが片方の眉をつり上げて言った。「職人ってのは、ほんとに気むずかしくて困るね」大きなお腹を揺らしながら、陽気な声で笑う。

 すると、奥のドアが静かにあいて、とがった顎の男性が顔をのぞかせた。「変な言いがかりはやめてくれよ、兄さん。やあ、クロエ。昨夜連絡したばかりなのに、もう来たのかい」

「こんにちは、テオ。交渉するなら、なるべく早いほうがいいと思って」

 テオが戸口から出てきて、ドアを閉めた。「工房は片づいてないから、そっちの丸テーブルを使わせてもらうよ、トニ」

「どうぞ、ご自由に」トニが答えて、荷物の整理に戻った。テオが工房に人を入れることはめったにない。クロエも、これまでに二度くらいしかのぞいたことはなかった。隅のテーブルの小さな椅子に座る。周りには、整理されていない食器類の箱が山と積まれていた。

 クロエが送ったデザイン画をテオが工房から取ってきて、テーブルの向かい側に座った。

「こっちの錨とヒトデのブレスレットは、まあいいだろう。石と貝を少し入れ替えれば、色合いのほうもなんとかなる」

「そう、よかったわ」

「だが、ピアスはふたつともこのままでは無理だ。ミュールをかたどったほうは、ストラップ部分が細すぎて、ここに五つの石を花形に貼りつけるのは手間がかかりすぎる。せいぜい石ひとつだな」

「でも、ストラップは細いほうがおしゃれだし、ワンポイントは華やかにしたいのよ。なんとかならないかしら?」

「一点ものならともかく、百組だろう。予算内では無理だね。それから、こっちの八連の貝殻のピアスだが、軽くて透明度の高い貝殻は値段も高い。今の予算では五連くらいにしないと、ピアスとしては重すぎるだろう」

「五連じゃボリューム感が足りないわ。少なくとも七連は必要よ」

「できないね」テオが頑固に唇をぎゅっと結んだ。

 クロエはため息をついた。「このデザインのままだと、値段はどのくらいになるの?」

 テオが少し考えてから答えた。「どちらも二割増しというところだな」

「無理よ! ピアスの値段を上げるわけにはいかないわ。ストラップを少し太くして、八連を七連に変えるから、予算内で収めてくれないかしら?」

「それでも一割五分増しだね」

 クロエはなんとか交渉の余地はないかと、考えをめぐらせた。そのとき背後から、明らかにトニではない男性の声がした。

「そのアクセサリーのデザイン料は、どうなっているのかな?」

 テオとの話に夢中になっていたので、店に誰かが入ってきたことにもまったく気づいていなかった。クロエは不意をつかれて、はっと振り返った。

 そこにいたのは……なんと、ダレルだった。

「ダレル!? いったいどうしてここにいるの?」クロエは目を丸くして、彼の頭のてっぺんからつま先まで視線を走らせた。水色のチェックのシャツとベージュのズボンというさわやかな姿で、こちらに微笑みかけている。

「トニとは少し前から取引させてもらっているんだよ。島の遺跡めぐりも終わったことだし、ちょっと仕事に戻るのもいいかと思って訪ねたんだ。店に入ったらきみがいたんで、ぼくも驚いたよ。そうか、ここで店のアクセサリーを作ってもらっているのか」

「クロエとお知り合いなんですか、ミスター・プレストン? これは驚きだなあ」トニが歌うような調子で言った。

「夏休みでサフォロス島に滞在しているんだ」ダレルが答えてから、クロエとテオのほうに目を向けて言った。「ところで、さっきの話だが、テオ、デザイン料はどうなっている? ぼくには、クロエのデザイン画はほとんど完成形に近いように見えるけど」

 テオがむっとしたような顔をして、低い声で答えた。「これは、クロエの店だけのためにつくっている特注品だ」

「でも、本来なら、小売店側が出してくるのはラフくらいで、デザイン画を描くのはデザイナーだろう。その工程が省かれているぶん、予算を削れるんじゃないか?」

 クロエはあわててあいだに入った。「デザイン料だなんて……。わたしはプロじゃないのよ。デザイン画の描きかただって、テオに教わってどうにか形にできるようになったんだから」

「でも、きみはよく学んでいる。ほとんど手直し程度ですむくらいのレベルだ」ダレルがテオの目をじっと見ながら言った。

 テオが黙ったまま、ダレルの目をにらみ返した。しばらく沈黙が続き、クロエはどうしたらいいのかわからず、ただおろおろしていた。

 テオがふっと息を吐いてから言った。「デザイナーに頼む場合もあるが、デザインの半分以上はぼく自身が手がけているから、デザイン料は発生しないことが多い。だがたしかに、クロエはよく学んでいる。以前よりもこちらの工程がずっと楽になったのもほんとうだ。これまでもできるだけ値引きはさせてもらっていたつもりだが、いいだろう。今回は、きみの要望を最大限生かして、予算内で収めよう。ただし、石と貝殻の種類を少し変更させてもらうよ」

 クロエはほっとして答えた。「ええ、わかったわ。ありがとう、テオ」

 クロエがテオとデザインの細部について話し合うあいだ、ダレルはトニに最近入荷した骨董品についてあれこれ尋ねていた。

 すべてのデザインについてほぼ折り合いがつくと、クロエは立ち上がってバッグを手に取った。「それじゃ、よろしくお願いね、テオ。何かあったら、またメールかファックスで。トニ、またね」

 ダレルのほうには一度も視線を向けず、クロエは〈アンティーカ・バナシス〉を出た。

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