05.アンティークの掘り出し物に導かれ

==================================================


天使像を売ってほしいと迫るダレルを、クロエは警戒する。

でも、店を訪ねてきたダレルの話につい惹き込まれて……。


==================================================


 ダレルは髪に指を通しながら、クロエの後ろ姿を見送った。

 しまった。少し早まりすぎた。いつもはもっと慎重なのだが……。

 はかなげな細い背中を見つめていたら、なぜか衝動的に抱き締めてしまった。自分らしくもない。

 ダレルは腕に感じた温かさに少し戸惑いながら、歩き始めた。

 港まで下りてきて、通り沿いのオープンカフェの席に着き、ペリエを注文する。それから、あれこれ考えごとをした。

 あの天使像。あれこそ、ずっと探していたものにまちがいない。柔らかな曲線を描く美しい形、精巧な細工、そして時計の背面の小さな穴。

 なんとしても、手に入れなければ。しかしクロエは、そう簡単に手放しはしないだろう。二年半前に亡くなった母親の形見なのだから。

 クロエ。美しい人だ。うっすらと日焼けしたなめらかな肌、神秘的な褐色の瞳。近寄りがたいほどの完璧さだが、打ち解けて話すととても気さくで、ほっとさせるような温かさがある。それでも、会話の合間にふと目を伏せたときの表情はどこか寂しげで……思わず抱き締めたくなる。

 そして抱き締めてしまった。温かく柔らかい体。頬に触れた絹のような髪。甘い香り。

 ダレルははっとした。

 きのうから、天使像よりもその持ち主のことばかり考えている。ニューヨークから地中海クルーズを経て、おとぎ話に出てくるような島へやってきたせいか、どうも調子が出ない。ふだんは、仕事以外に気を散らされることなどめったにないのだが。

 いや、今回は仕事ではない。〝永遠の時をいだく天使〟は、あくまで私的な目的で手に入れたいのだ。それでも、交渉相手には冷静に接する必要がある。それが成功の秘訣だ。もちろん、相手と親しくなるためには、少しばかり誘惑のわざを使うこともやぶさかではないのだが……。

 きょうの晩、また店を訪ねて、謝ることにしよう。

 なに、挽回のチャンスはある。きっと説き伏せてみせるさ。

 彼女の心を解きほぐしてこちらに惹きつけさえすれば、必ず天使像は手に入るはずだ。


「ありがとうございました」

 若いカップルを送り出すと、店には誰もいなくなった。リッツァは九時過ぎに迎えにきたコスタスと出かけてしまった。

 クロエは、ふっとため息をついた。

 ランチから帰って以降、ずっと落ち着かない気分だった。気がつくと、あの人のことばかり考えている。

 ダレル。いきなり抱き締めるなんて、どういうつもりだろう。でもあのとき一瞬、このまま身をゆだねてしまいたいと思わなかった?

 思い出すと、心臓がどきどきと高鳴ってきた。力強い腕を回され、温かい胸に引き寄せられた。今まで一度も感じたことがないようなわななきが背中に走って……。

 クロエはぶるんと首を振った。だめ。あれはわたしに天使像を売らせるための作戦なのよ。ハンサムで自信家のあの人は、いつもああいう手を使って女性を口説き落としているにちがいない。きっと、彼にとっては簡単なことなのだろう。

 無理もない。あんなにすてきなのだから。強引で鼻持ちならない人だと思ったけれど、昼間話したときは、とても明るくて楽しい人に思えた。お金持ちで、同じように裕福な友人がたくさんいるようなのに、気取った雰囲気をまったく感じさせない。猫たちにも優しかった。それに、あの少しグレーがかった緑色の目。見つめていると、すうっと吸い込まれてしまいそうな……。

 クロエは我に返って、あわてて店じまいのしたくを始めた。

 それより、リッツァのことよ。なんとかしなくちゃ。

 たしかに夜遊びは目に余るけれど、リッツァはよくやってくれている。ぶつぶつ言うこともあるが、買い物も料理もしてくれるし、お客さんの相手やレジ打ちもてきぱきとこなす。そう、むしろ率先して店を手伝っている。そして、高校を卒業したら、進学せずにいっしょに店をやると言う。わたしがいつもそれに反対するから、同じ言葉を何度も聞かされるのがいやで、夜は外へ出ていってしまう。

 でも、これだけは譲れない。リッツァは友だちと楽しく過ごすのも大好きだが、じつは勉強も好きなのだ。特に、数学が飛び抜けてよくできる。その能力を小さなみやげもの屋の売上計算でしか生かせないなんて、あまりにももったいない。あの子は、こんな小さな島にとどまっていてはだめ。心から望む道へ進み、広い世界を見てほしい。わたしががんばって働けば、学費はどうにかなるだろう。なんとかあの子を説得しなくては……。

〝もしぼくが、生活費と学費をじゅうぶんにまかなえるだけの金額で、あの天使像を買い取ると言ったら?〟

 ダレルの言葉がよみがえった。

 クロエは少し考えた。ほんとうに、あの天使像にはそれほどの価値があるのだろうか。もちろん、大切な母の形見を売るなんて考えられないけれど。

 レジ周りを片づけていると、ダレルがあいた扉からなめらかな足取りで店に入ってきた。

 クロエの心臓が、どきりと音を立てた。

「ランチのあと、アトロキア遺跡に行ってみたんだよ」カウンターに歩み寄ったダレルが、いきなり切り出した。「でもフレスコ画なんてどこにもなくて、工事現場風の古代人の住居跡がぽつぽつあっただけだった。きみの観光案内はひどいな」

 クロエはぽかんとしたあと、思わず吹き出してしまった。「フレスコ画がアテネの博物館に移動されたこと、言わなかったかしら? ごめんなさい。でもそのくらい、ガイドブックを見ればすぐにわかるのに」

「ガイドブックに頼ったりしないのが、ぼくの流儀なんだ。おかげで帰りのバスを一時間も待つことになったけどね」

 クロエはくすくす笑ってから、相手の顔を見つめた。

 ダレルが緑色の目でまっすぐ見つめ返した。「昼間は失礼なことをして、すまなかった。許してほしい」

 誠実そうなまなざしを見て、クロエはうなずいた。それから尋ねた。「いつもあんなふうにして、女性を説得するの?」

 ダレルが少し驚いたような顔をして答えた。「いや……ちがうんだ。天使像のことは関係ない。売ってくれるかどうかは、じっくり考えてもらえればいい。まだ金額を言ってなかったね……」

 クロエは急いで押しとどめた。「言わなくていいわ。絶対に売らないから」

「聞きもしないのかい?」

「ええ、聞きたくないの」

 ダレルが眉をつり上げて、からかうような口調で言った。「頑固な女性だ。大金が手に入るかもしれないのに、考えてみようともしないとはね。変わり者だって、みんなに言われないか?」

 クロエは少しむっとして言い返した。「あなたこそ、そうとうな変わり者だわ。突然……おかしなことをしたり、行き当たりばったりに観光したり」

「じつはこの性格が、アンティークの掘り出し物を見つけるのにけっこう役立つのさ。ふいに思い立ってエジプトに行ったとき、何を見つけたか話そうか?」

 楽しそうな口調に、思わず惹き込まれる。「ええ、聞きたいわ」

「カイロでなじみの古道具屋に立ち寄ったとき、店主がある電話を受けたんだ。郊外の小さな町の占い師が亡くなって、家族がその遺品を売りたがっているから、引き取りにきてほしいと。店主は出かけるのをしぶった。なにしろ、カイロから二百キロくらい離れた砂漠の町だからね。でもぼくの直感は、すばらしい発見がありそうだと告げていた。それで店主に、ぼくに行かせてくれと頼んだ」

「直感だけで、二百キロ離れた町へ出かけたの?」

 ダレルがにやりとして続けた。「そう。ひとりで車を運転してね。途中、砂嵐には遭うわ、タイヤはパンクするわでひどいことになったが、どうにかたどり着いた。ところが、占い師の家族が得意げに見せてくれた水晶やら壺やらの占い道具は、みんながらくただったのさ」

「まあ!」

「意気消沈して帰ろうとしたとき、ふと気づいた。きたない布がかかった占いテーブルの脚の、みごとな流線形に」

 クロエは息を詰めて、話の続きを待った。

「布をはがしてみると、そのテーブルの表面には、じつに美しい十二宮の象眼細工が施されていた。星座がひとつひとつていねいに彫られ、金と銀と真珠がはめ込まれた貴重なものだったんだ」

「うわあ、すてきね……」

 クロエはうっとりと目を細めた。ダレルがこちらをじっと見つめている。二十センチも離れていないところに、彼の顔があった。

 ダレルがカウンターにひじをついて、少しずつ顔をうつむけた。クロエはその場に釘づけになっていた。自分の心臓の音が、どきどきと耳に鳴り響く。

 クロエはまつげを伏せた。唇と唇がそっと触れ合った。

 はっとして身を引き、唇に手を当てる。頬が燃えるように熱い。

「いやだ、たいへん。もう片づけて寝る時間よ」

 ダレルは先ほどと同じ姿勢のまま、しばらくのあいだこちらに視線を注いでいた。口もとにかすかな笑みを浮かべている。それからゆっくりと言った。「すっかり長居してしまったな。それじゃ、今夜はこれで失礼するよ。またあすの晩にでも」

 ダレルが店を出ていこうとしたので、クロエなんとか気を落ち着けて呼び止めた。「ダレル」

 彼が振り返った。クロエは少しためらってから尋ねた。

「あのとき、どうしてわかったの? 〝永遠の時をいだく天使〟の置いてある場所が」

 ダレルが謎めいた目で見つめ返した。

「それについては、また次の機会に話すよ」

「何を言われても、天使像を売るつもりはないわよ」

「それについても、また次の機会に」

 ダレルがウインクして、その場を立ち去った。

 ひとり残されたクロエは、じっと考え込んだ。まだ頬が熱くほてっていた。

 そっと触れた唇。あのとき、胸に込み上げてきたものは、いったい……。

 何かを振り切るかのように、パソコンの電源を入れ、メールをチェックし始める。

 リッツァが戻ってきたのは、午前一時を回ってからだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る