第17話 脳心理研究所  Brain Psychology Lab

 脳心理研究所の担当技師は、顔から首にかけて冷や汗をびっしり浮かべ、厄介な問題に巻き込まれたと怯えきっていた。目の前に立つ女は、黒尽くめのスーツにサングラスというお決まりの姿で、明らかにひと回りは年下なのに、権力の威圧感をひしひしと漂わせている。

 被験者に起きた現象がまだ信じられないでいるところへ、被験者が帰ってものの小一時間経つか経たないうちに、この女がいきなりラボに入って来たのである。

 警備担当者や上司から何の事前連絡もなかったから、女がラボの入室認証をどうやってパスしたのかさえ分からない。

 当局者と思しい人物の姿に動揺した技師は、身分証の提示を求める余裕もなく、気づけば矢継早やつぎばやに質問に答えさせられていた。


「この記録によれば、レム睡眠回路の遮断は悪夢を見ないために施した処置とありますね?すると、処置は問題なく済んだのですね?」

「その通りです。ただ、その~、実験企画書にメモリープローブが含まれておりまして・・・」

 技師は臨床実験企画書を手に言葉を濁した。

 女は厳しい口調で技師を問い詰めた。

「記憶探査ですね。特定の日時の記憶を映像化して再現したのですか?記憶探査には本人の同意書が要ります。見せてください!」

「それが・・・ご親族からの急な依頼で、同意書には記憶探査の件は記載していなかったのです。ご本人は、記憶探査が行われるとご存じなかったと思います・・・」

 技師はうろたえた。

 実験企画書には記憶探査が含まれていたため不審に思ったが、愛娘の誕生祝いに早く帰宅したい一心で気が急いていた。予定外の依頼を受け、同意書に記憶探査の件がないのをつい無視してしまったのである。

 記憶を探られるとなると、拒否する患者や被験者は珍しくない。個人の要望ではなく、シティ自治政府を通した依頼の場合、上司と改めて相談しなければならないが、それが面倒だった。

 威張りくさった上司とはそりが合わない。できれば相談するのは避けたかった。


「思います、とはどういう意味ですかッ?あなたは法的手続きを無視して実験を行ったと!?」

 動揺を見透かした様に女は声を荒げた。

「と、とんでもない、無視だなんて。うっかりして同意書に項目がないと気づくのが遅れたわけで・・・」

 顔にべったり脂汗を浮かべた技師は言い逃れしようと必死だった。


「あなたは同意なしに被験者を記憶探査にかけたのですよ!実験企画書には記載されていたのに!つまり、説明も省いたのでしょう?同意書の不備に気づかなかったとしても、説明を行わなかった事実はどう釈明しますか?この面談から実験までの録音はどうしました?臨床実験実施ガイドラインに定められているはずですが?」

 手続きのことまで、なぜこんなに詳しく知っているのか、この女は?

 技師は震え上がった。

 面倒なのですべての実験について説明を省いて、被験者に同意書にサインさせたため、録音などできるはずもない。被験者から訴えられでもした日には、下手すれば懲戒解雇ものだ。

 どうやって言い逃れようかと必死に考えを巡らすあまり、パニック寸前に陥った。


「・・・いいでしょう。その件は後で話しましょう。こちらも急いでいます。まずデータを見せて下さい」

 不意に態度を軟化させた女は、穏やかに技師に話しかけた。

 これだけ追いこめば十分だ。

 ほっとした技師はあたふたとホログラムを起動させて、被験者のデータファイルを映し出した。ホログラムを見るなり女は尋ねた。


「これが脳内映像に記録されていた被験者の記憶ですか?これは文字画像ファイルですね。テキスト形式の記憶データは、これまで見たことがありません。脳内映像記録はどうしました?」

「それが、なぜか脳内映像が取得できなかったのです・・・二時間ほど前の出来事で、調査する時間がなく原因はまだわかりません。脳波など臨床データに異常は見つかりませんでした。探査装置あるいは記録装置の故障かも知れません」

 技師はしどろもどろになるのを辛うじて堪えていた。

 同意書の件を厳しく問い詰められた後だけに、被験者に起きたおかしな現象を、この女がどう思うだろうと気が気ではない。

 訳のわからない現象まで、こちらの落ち度にされてはたまったもんじゃない!


「では、記憶探査は失敗したのですね?ところが、その後レム睡眠の回路遮断処置を行ったら記憶が戻った。つまり、記憶の再現にタイムラグが生じたと言うのですか?」

 女は冷徹な姿勢を崩さず、きびきびと質問を続けた。尋問テクニックを習得しているのは明らかだ。

「ええ、おおむねその通りです。たた、これは言語化された記憶でして・・・いわゆる自動書記と呼ばれる現象が起きたようです、確証はありませんが・・・被験者がご自分で書いたのです。本人は書いたことさえ覚えておられませんでした・・・内容の確認はもちろん差し控えています。それにはご本人の同意が必要ですが、なにせ自分で書いたと覚えておられないのでは、事後同意も得られない訳でして・・・座ってご覧になれるよう、モニターに切り替えます」

 

 たとえ相手が捜査官でも、令状がない限り個人の記憶情報は開示できない。けれども、この女の機嫌を損ねたら、と恐ろしくなり言い出せなかった。

 技師はホログラムからファイルを選んで開き、通常のモニター画面に切り替えて被験者の文字データを映し出した。


「自動書記ですか?科学的には説明がついていない現象ですね?本人が覚えていないのは確かですか?」

 女はモニターを覗きこみながら厳しい口調で問いただした。

「間違いありません。確認しましたが、被験者は夢も見ずに眠っていたと思っています。夢回路の遮断処置後でした。催眠状態からいきなり起き上がり、モニターにスタイラスペンで書きこんでいったのです。まるで夢遊病者のようでした。まさかこんなことになるとは・・・ 」


「タクの字だわ!」

 貴美は心の中でつぶやいた。乱れた筆跡だが間違いない。

 しかし、姉と悟られないよう平静を装った。技師は脳科学の専門家だが、臨床心理学も学んでいる。こちらの表情や仕草から疑念を抱かせてはならない。

 その余裕を与えないよう冷徹な態度に終始して、立て続けに厳しい質問を浴びせて技師を追い込んだ。


「内容を調査しますので、席をはずして下さい」

 そっけなく技師に声をかけ、返事も待たずに椅子に腰を下ろした。

 技師は躊躇ためらったが、この女のように特有の高圧的な態度を示す連中には、少なからず馴染みがある。

 シティ政府の公安関係者だ!

 連中の心理鑑定をこの研究所で担当してきたから間違いない。とピンと来たのである。


 長い物に巻かれる主義を貫かない限り、自分のようにコネのない政府職員に出世は望めない。ここは黙って指示される通りにするのが賢明と判断して、一礼するとそそくさと隣の実験室に入りドアを閉めた。

 一息ついて、女が身分証明書を提示していないのに気づいたが、同意書の落ち度という弱みを握られている。女ともめて上司に知られるのが怖かった。予定外の検査対象が割り込むのは、シティ政府絡みと相場が決まっているからだ。

 板ばさみになるのはまっぴらだった。上司には当然ご存知と思っておりました、と後で言い訳すれば済む。

「触らぬ神にたたりなしだ」

 技師は自分に言い聞かせた。


 技師が立ち去るのを横目に、貴美は匠のデータに見入った。

 句読点もなくひたすら文章が続いて読み辛いため、OCRアプリを起動して画像から文字を読み取り自動更正をかける。幸い、技師はデータ処理する時間がなく、画像のまま保存していたため、他に知る者はいないようだ。

 間に合って良かった!

 貴美ほっとした。しかし、匠が書き連ねた内容を読み進むうちに、貴美の顔には緊張感が漂い、知らず知らずのうちに唇を嚙みしめ眉根に皺を寄せた。


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