B-3
「焔さん、その子は?」
「誰でもいいだろう。上に行っててくれ」
土井の天井…… 焔の家か。
起き上がる。頸は痛まないどころか、傷もその痕もない。
「あんたは負けたらしい。やり直しだな」
「あの、……私――」
「大丈夫。貞操はバッチリ守ったし、久も元通り」
よくわからない。因果の説明もないのに安堵している。映画をよく観もせず雰囲気に呑まれてただ感動する観客に似ている。
「何の策も示さず送り出した自分が悪かった。怖かったろうに」
「……何をさせたいの。あんたが行けばいいじゃない」
視線をそらす。
「儀式だよ。飛驒零花がここを動かさねばならない。いずれわかるさ」
「もう。いずれっていつよ」
叩いても何も出ないだろう。
「とにかくだ、牙を何とかしよう。ここに血清がある」
ゴムの蓋がついた小瓶を出して見せた。
「人型とはいえ、もとはただの蛇だ。私はただの狐、ただのマムシなら、ただの血清でなんとかなる。出血性毒だろう。……ああ、血小板も入れていくか?頸を咬まれたら大変だ」
じっとして…… どこからかシリンジを出して血清を吸い出し針を腕に刺す。
「はは、その顔。ほんとにかわいいな」
半目で眉をひそめ口を半分開けている。痛いが動くともっと痛そうなので固まっていた。
「それと、この壺を。行ってらっしゃい」
味噌を入れておくような、小さな茶色の壺を手渡された。蓋を手で押さえておくように言われる前に少し開けて中を見た。
「えっ、わ、なるほど……これ苦手なのって蛇だけじゃないよね……」
「さあ行った行った中の空気も漏らすなよ。嗅ぎつけられるぞ」
「待て、俺が案内する。くれぐれも失礼のないようにな……その壺は何だ」
前についた男がぱっと壺を奪い取ってしまった。そして蓋を開ける。
「まだ自分がかわいいのよ。わかってくれるでしょ」
「……ここの番として容認できん。俺はあんたとは会っていない。いいな」
「お気遣いありがとう」
御殿の暖簾をくぐる。
またも上座にそれはいた。
「得物ひとつで大蛇を狩ろうたァ、いい度胸だな?カモとネギが揃い……味噌まで持ってきたか」
向こうからわざわざ歩み寄り一歩手前で止まる。
「なんだその顔は……そうか、前回の私が何かしたな?だいたい予想はつくが……とりあえずその節はすまなかった。ゼロからやり直させてくれるかな」
「だめ。何言ってんのかわかんないけど、これ以上、近づかないで」
壺を持つその腕が震える。あの無機質で、それでいてなまめかしい蛇の眼が、すっかり穢れ燃えていた。効くかすらわからない剣で、襲い来る巨人に立ち向かうような、そんな不安に呑まれつつあった。
「まあいい。それで、何をしに来た?ネギと味噌を交換しに?いずれにせよカモは欠かせんな」
距離をあえて保ってはいたが蛇は今にも飛びかからん調子を振る舞っている。ここで怖じ気づいて壺を投げてしまうより、飛びかからせたところで一緒にナメクジまみれになる方が確実だ。三すくみ。落ち着け。手榴弾は、投げるより、もろとも。そんなケースだ。
「私は君と仲良くなる方法を知っている。ネギは君に返そう」
御殿の端に空けられた、地下への階段から、久がのそのそと上がってきた。殺気は感ぜられない。
「待ってわかんない。どうなってんの、何が」
「で、君は何をしに来たんだっけ?その壺は?……私を殺すことは、君の目的じゃないはずだ。せいぜいネギを取り返すための手段に過ぎん――」
「――殺せだなんて、誰に言われた?」
誰にも言われていなかった。焔は一言も。
答えられなかった。
「あいつの考えそうなことだ。そりゃ銃でも渡されたら撃とうとするに決まってる」
混乱するこちらにずいと地下より壺を奪う。
また会おう。
言って柳は、自ら壺の中身を浴びた。
「焔さん、その子は?」
「誰でもいいだろう。上に行っててくれ」
起き上がる。
「何がしたいのさ」
しばらく黙り込んでのち、
「……すまない。駆け足で行き過ぎた。何から話せばいい?」
「そういうところだってば。めちゃくちゃじゃないの、何もかも」
また黙り込む。視線を地に追いやり、ただ一言、来なさいと言い立ち上がった。
四度目の玄関。入る、出る、出る、出る。三度も入っていないのに三度出ていた。
時間の感覚も狂っている。ほんの少し前に朝靄を浴びて、太陽が慌てて逃げた。そして柳と二度の朝日を湛え、今四度目の朝。恐ろしく疲れているのに、日はあれから動かない。解けた柳を照らした光が今なお私と焔を照らしている。
朝、この不可思議な朝に。村人は今、一人として顔を出していなかった。まるで消されたように、家屋の内にも動く影がない。
「向こうを見なさい」
この村はコの字の山脈の縦棒部分、中腹に位置している。焔が指した〝向こう〟はコでいう左側、谷の果て、平野の方だ。果ての平野には、灰色の町だったものが墓のように乱立していて、そのさらに奥では、それらと対照的に、海がすべてを包むような深い青を撒いている。
つまるところ、どこにでもあるような、かつ地元の住人がとにかくありがたがる、臨海部のド田舎の典型だ。
そして、
太陽が、増えた。
「!!」
南方、灰の墓標の真上に強烈な高原が突如現れる。顔をしかめる余裕もなく、吸血鬼の異様な再生能力が、壊れた遺伝子を参照し、異形へ突き進む。
放射線か。つまり、
「核戦争による自滅。最も強く有力視された筋書きだ」
衝撃波で肉体は消し飛ばされた。しかし心――心とは?――はそこに残り、平然とその大破壊を観察している。
立て続けに、二発三発、その轟音だけが山にこだまする。
究極のハードボイルド、事実とするものを淡々と映した画を追うような感覚だけがより強まった。自分と世界が、あまりにも遠くにある。
「言ったろう、全ては儀式だ。いずれ来る終わりを迎えるための」
「焔さん、その子は?」
「誰でもいいだろう。上に行っててくれ」
壺がある。
「……余計わからなくなったんだけど」
答えはない。
「ねえ。ねえってば」
「わかるな」
壺を見て言った。
「もう!」
五度目の玄関、五度目の朝日。何もかも元通りで、今度は人もいた。前に焼かれたケシ畑も、その事実が夢であったかと錯覚するほど元気に水を吸い、甲斐甲斐しい世話を
「得物ひとつで大蛇を狩ろうたァ、いい度胸だな?……いやふたつか。正面切ってナメクジ運んで、私が喜んで被ると思うか」
蛇のくせに、こちらの動揺を感じ取っている。
「どうした、あんた……この私を前にして、私を見ていないだろう。そんな奴初めてだ」
狐につままれたな。あの忌々しい雌狐に。どうせ何も教えられないまま何周もさせられて、疲れてんだろ。
蛇は全てお見通しで、焔よりもずっと…… 暖かかった。人の情があった。
「臭い味噌なんか置いて、来なさい。生で食うと脳までやられるぞ」
上座まで歩く。柳の抱擁に
「匂うぞ。散々遊ばれたな。狐と、過去の私に」
「……どういうこと」
男性骨格の、苦手な無骨さの中に、彼女部分の柔らかさが見える。アブノーマルのおぞましさに勝る、夢にまで見たあたたかな慈愛に満ちていた。
「この村は実在した。ここは全て焔の記憶から形作られている。焔が記憶の本を何度も読み返すようにして、何度も同じ時間の出来事が繰り返されている。あいつが望めば全てリセットされ……村人どもはまた同じ作業を始めるのさ」
「だとしたら。柳はどうやってそれを知ったの」
「知った状態でこの世界が始まるだけだ。繰り返されているという実感は、もちろんないがね。。不思議なもんだ、何百回と同じ日を経験しているはずなのに、今日の朝日はこんなにも清々しい」
なんとなく霧が晴れた気がした。めちゃくちゃな世界の
「……どうしてナメクジの壺を?殺せとも言われなかった」
「焔がか?確かにあいつは私を殺す意味がない。殺したところで、記憶は消えん。では――」
「儀式。儀式って言ってた」
作務衣一枚隔てて柳の鼓動が耳に入る。人に化けて得た恒常性によってか、人なりの体温もあった。
「儀式……わからない。宗教的なもんじゃないのは確かだな……あいつ、神だの仏だのが嫌いなんだ。きっとそれは、記憶の外……現実世界に関わる何かに対して意味づけをするための行動を指しているとは思うが、あいにく私は現実など知らん」
謎の解決に進展があれば、また謎が増える。そんなものだ。ものだがこの狂気じみた記憶の中にいては、これ以上の進展を望めそうにない。
「食べないの。私のこと」
「前の私がどうだったかは知らんが、今は、自分がただの記憶の一部でしかないことを思い出した。何をやってもリセットされるなら、腕の中にいる誰を喰い散らかそうと、何も残らないだろう?……君につけた傷以外にな」
聞くと言うことは、かつて喰ったのか。私が怖くないのかね。
わかんない。焔に比べたら、まだ……
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