B-2

 眠ったという感覚はなかった。ケシに食らった倦怠感はそのまま全身にのしかかっている。重い綿布団に包まれて土の天井を見つめていた。

 品のない、通りゃんせの替え歌が耳に入る。起きて見ると、ドラム缶の側面を縦に切って横にしたものの中に焔がすっぽり入り歌っていた。下で火を焚いているから、これはきっと湯船だろう。

 ここはまさしくほら穴だった。十メートル四方、自分二人くらいの高さの空洞にむりやりゴザを敷き、部屋として使っているようだ。土の壁に何の脈絡もなく換気扇がついている。外気との入れ替えも万全のようだ。

「ん、起きたか。あんたタダ者じゃないな……普通煙をあれだけ吸えば死ぬもんだ。そう、タダ者じゃない……だからはあんたをわざわざここへ招いた」

「……久は」

「おれはこの村のすべてを知っている。ただ他人にはできるだけ能力で干渉したくないんだよ……彼は異端者に連れていかれた。その先は自分で確かめるといい」

 前と変わらぬ口調でそう告げた。意味がわからない。からかっているのか?

「何言ってるの。何も見えてこないよ」

「ああ面倒だ……まあいい、よそ者なら多少はいいか……彼は生きていて、勝手に逃げるかあんたが行くかしない限り、死ぬことはない。だがこの村で死んだとしても死ぬことはない」

 謎かけのようだが実に単純な話だ、いずれ話そう…… おれもタダ者じゃない。見た方が早いだろう――

 ちゃぽんと頭まで湯に浸かったあと、そこからぴょんと飛び出てきたのは、ぴちぴちで見とれるような美しい裸体……ではなく、燃えるように赤い、狼ほどもあろう大きな狐だった。乱暴に水を振り落とし、のしのしとこちらへ歩いてくる。しかし相対せず、私の左側から後ろへ回り込んだ。

「猫又ってなァ、聞いたことあるな?」

 右側から後ろを振り向き見えたのは、白いローブを引きずって手足で歩く焔の姿だった。

「それと、狐が人を化かすって話も――」

 焔に組み伏せられる。普通あり得ない距離にまで、息を呑むほどの美を湛える顔が迫るこの状況にて、しかし息を呑むことすら忘れていた。

「――僧を食ったのだ。おれを心から愛していた……その愛も返さず涅槃仏を灰にするなど、失礼というものだ」

 他の動物がこんな人間臭いことを考えるとは思えないが、似たものは聞いたことがある。人間の死体が見つかったとき、よく飼い犬や飼い猫に囓られていることがあるという。もしそれがいきすぎた家族愛の成す現象だとしたら、その延長に彼女の行動はあるのかもしれない。

「あのー、ちょっとくっつきすぎっていうか……」

 焔はひしと抱きつき、鼻を突き合わせるようにして一方的に語っていた。こうも近く、まっすぐ見つめられると、なぜだかたまらなく恥ずかしくなってくる。耳まで真っ赤にして、やっとの思いで絞り出した一言だった。

「そうだな、言葉が足りなかった。実のところおれは寂しかったんだ……何度村人と同じ床につこうとも、凡人と化け狐の壁は越えられん。異種婚姻譚などまやかしだ」

 その腕を放そうとはしない。それどころか枕でも抱くように、肢体が執拗に絡みついてくる。

「そこにあんたが現れた。人を食らう者の匂いはすぐにわかる。それと、あんた自身、実にうまそうな肉体をひっさげておるな。どれ」

 受け入れるしかなかった。相次ぐ不可解にcついていけなかったし、何より彼女に心酔しかけていた。

「んぅっ、……あ、」

 血を吸われるのは初めてだった。抱き返す腕も強ばり震えている。

「んはは、なんと愛らしい!味は人と変わらんな。姉さん〝おっ立って〟きちまったよ……なあいいだろう」

「えっ、ちょ、何すんのさ!聞いてないってば!」

「案ずるな、ここ掘れわんわんだ」

 臍の下に円を描くように、指先で撫でられている。同性と油断していた。

「ねえほんとにだめだってば!」

 股ぐらをまさぐり始めた。どこを殴りつけてもびくともしない。

「あーもう、焔さん!手ェ出すなって言ったでしょう!俺が相手しますから、ね」

 絶妙なタイミングで経晴が割って入る。子供をなだめるようにして焔を引っぺがしてくれた。

「あんたじゃ補給できん成分があるんだ、ほっといてくれないか」

「だめです。大事なお客さんでしょう、印象は最悪だ……ごめんね嬢ちゃん、これはへきなんだ。強者は相手の心を見失うものでね」

「わかった。手は出さん。約束するから上へ行っててくれ、大事な話だ」

 だあめ。監視つきでの話となった。

 今だうぞうぞする腹をむりやり据えて向き直る。

「そんな目をするな、この類の情は隠す方が不健全だ。……さて、越生久に会いたいんだろう」

 布団の端でもぞもぞしたせいで彼女のローブに土がついている。

「すまないが一人で行ってもらう。異端者ってのは、……とあるいかれた蛇を頭とする一団だ。おれみたいに急にこの村へ現れて、村人の一部を引き込んだ。こちあに仇をなすようになった頃毒で殺したつもりだったが、生き延びたようだ」

「動物のふざけた喧嘩に付き合ってられるほど暇じゃないんだけど」

「それはよくわかっている。だがあんたが動かんと何も動かん。和製のロールプレイングゲームみたいにな。あんたは主人公なんだよ。大丈夫、まずは行くだけでいい」

 ということは、あの野蛮な人々の本拠地へ単身で出向くことになる。

「……あんな奴らのところに一人で>ミンチじゃ済まないでしょう」

「あいつらだけじゃ何もできん。道の真ん中を堂々と歩いていけ。あいつらは野良犬も同然だ」

 焔が拾っておいてくれた脇差しを気休めとして帯び、言われた道を歩くことを決めた。


 なるほど、焔の言うとおりだった。道の真ん中を歩いて向かえば皆怖じ気づき、一人として襲ってこない。農民の寄せ集め、烏合の衆なのだ。そして何の苦もなく、異教徒の本拠地へ着いてしまった。

 本拠地といっても、焔の村と何ら変わったところはない。ただ民家が建ち並んでいるだけだ。

「待て、俺が案内する。くれぐれも失礼のないようにな」

 ガタイのいい髭面の男に腕を掴まれる。捕まったと見るか、案内と見るか。

「嬢ちゃん、とにかく彼女の機嫌を損ねるなよ。俺はあんたの首なんか取りたくないからな」

 竹を継ぎ合わせ組んだ御殿に着いた。こちらの長も間に合わせの家をあてがわれているのか。

 未知への恐怖にやられつつ、麻の暖簾のれんをくぐる。中は松明はあれど暗く、大変に広い。一目で畳単位では答えられないが、だいたい幅十メートル、奥行き二十メートルほどある。

 そして上座にそれはいた。

「得物ひとつで大蛇を狩ろうたァ、いい度胸だな?まあいい、寄れ」

 上座で胡坐をかくその人は、長なれど藍の作務衣を纏っていた。若くしなやかな、男の声だった。

「とまどいはわかる。とにかく上がりなさい」

 抑えろ、怖じ気づくな。鞘など忘れろ。落ち着いて、あいつの前に行くだけだ。

「よし、胡坐で頼む。蜷局とぐろを巻けたらなおよいが」

 魚鱗……?尋常性魚鱗癬を思わせる浅黒い模様が、白い肌に浮いている。

「いや、まさか君の方から来てくれるとはねぇ。カモとネギが揃ったわけだ、おいネギ、入れ」

 彼女の横から延びる、地下への階段から、久が上がってきた。意を決したような面持ちでそのままこちらへずかずかと足を運ぶ。

「!?!?」

 額に久の右足が、めり込む勢いで直撃した。受け身もままならず後ろに倒れ、後ろ頭を強打する。

「っな、……え、」

 事態に混乱してはいられない。金のように打ち鳴らされた脳を差し置いて次打を回避、大きく二歩間を空けつつ抜刀する。

「ごめん。来たら刺すよ」

 立っているのがやっとだった。気を抜けば倒れる。しかし脳震盪のうしんとうで辛いのは今だけだ。

 久は、来た。ただ刺せなかった。意に反しこの間合いはスライディングで詰められ、そのまま足をすくわれた。

 過程は憶えていない。気がついたら馬乗りで首を掴まれていた。ただその手には迷いが見える。

 目を見る。魅了は聞いた。手の緩む一瞬の隙を逃すことはない。胴を曲げ腕を目一杯伸ばし、落とした脇差を取った。

 左鎖骨に沿って深々と。我に返り引き抜いたがもう遅い。久は膝から崩れ、うずくまり、血のだくだくと横溢おういつするくびを押さえている。

「久っ!うそ、そんなつもりじゃ」

 どうにもならない。刃を床に置いて見るが処置も何も思いつかない。

「あんたは正しいことをした。慌てるな、死なせろ」

 鱗のような肌を浮かせた手を、私の左肩に置いていた。いや左肩を掴んでいた。

「言いたいことはわかる。だがそいつはあんたを襲った。もう親じゃない」

「あんたがやらせたんでしょうに」

 真意の見えない、仮面のような笑みに乗せて、

「安心しろ、あの狐にかかればすべてやり直せる。さあ」

 苛立ちが混じった動きで肩を引っ張られる。何か計り知れぬ力に抗う気も失せ、彼女の方へ体を向けた。仮面越しに興味が伝わってくる。しばらくこちらの顔をじっと見つめたあと、仮面は融け、恍惚を露わにして独り言。

「……良い。なるほど、これが情、いや面食いというものか。危ないな。なあ生越くん、雄ってのはいつもこう、悶えているもんなのか?なあ」

 見やる。動かない。床の隙間を縫い軒下を濡らしている。

「この先に行動があるのなら、葛藤など意味がない」

 押し倒される。情緒も何もなく、冷える死体の横で、彼女の彼は劣情を腫らしていた。

「ママルの雄は不便よの、人など食わねばよかった……ん、あの雌狐が匂うぞ」

 あの野郎、とうとう人間の雌にまで手を出しおったか。いかれた博愛主義者め。悪態つき離れる。

「すまない。人間との距離感がよくわからないんだ、私は柳……ちょっと来てくれ」

 腕を引かれて地下へ。ただ掘って石で補強した、小さな部屋で。

 柳によく似た鮫肌の女が地べたに横たわっている。全身の擦り傷からにじむ体液が麻の衣どころか床まで濡らしているが、、本人は気にも留めず、起き上がってきて、だらだら垂れる涎もそのままに、檻にしがみつきこちらを見つめていた。

「こいつは兄妹、兄であり妹だ。私はその妹であり兄……さ、自己紹介を」

 自己紹介を。話を飲み込めていない私にもう一度促し背中を軽く叩く。

 彼/彼女の立て膝に高さを合わせ口を開く。

「えっと、飛驒零花、です」

 しかし彼/彼女は終始柳の方を見つめていて、縦に開いたその瞳に私は映っていなかった。

「それでいい。儀式みたいなもんだ。愛すべき兄にとって私がすべてなんだよ。ありがとう兄さん、またあとで。行こう」

 言われるまま階段を戻りかけたときだった。

 感情の読めない、腐ったような声が牢に響く。

「わかってる。持ってくるよ。兄さんはうさぎの肉が好きなんだ」


 戻ると久の遺体も血痕もきれいになくなっていた。脇差の血も残さず拭き取られて、鞘に収められている。

「あの雌狐に毒を喰らわされたんだ。兄は精神を、妹は肉体を蝕まれた。このままじゃ二人とも死ぬだろうから、それぞれ肉体と精神を交換して、……兄妹と妹兄ができた。だからあいつはまともに会話もできないし、自らが持つ出血性毒が体中を巡ってる」

「っ、それで、妹のあんたは無傷の肉体を奪ってのうのうと生きてるわけね」

 この答えを待っていたらしい。満面の笑みを浮かべ私の首に手をかける。

「みんな自分の命が惜しいものさ。あんただって自分のために何人も殺してきたんだろう」

 開けた口の中で二又ふたまたの舌を構え、匂いを反芻しているのが見える。

「……残念ながら。今匂ってるのは造血幹細胞から直接採られた血だけど」

「っはは、度胸あるな!茶化しおって!まあ言いたいことはわかってくれたろう。生への執着を隠すなんて気味悪いじゃないか」

 また腫らしかけている。

「これを悪とは言わん。むしろ死を伴わない食事の方がいびつだと思うがね。他人の命などというくだらんものを考え始めた野郎の、聞くに堪えん理想論だ」

「人は家族を増やしすぎたのよ。被食者との境目を見失った時期さえあった。で、私を食おうっていうのね」

 聡い子で助かるよ。腰に手を伸ばす柳の顔に肘を打ちつけ脇差を構える。

「面白い子だな、さっさと斬り殺せばいいものを」

 いつの間にか。

「……えっ、」

 脇差を投げ出して、仰向けに倒れていた。柳の牙が見事に頸の動脈を貫いている。

 勝負は一瞬だった。

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