父親は夜に帰ってくるらしい。仕事をしているのだから当たり前だが母親の意図は別のところを向いていて、つまり父親がもう一回俺と明星の話を聞くからその時まで態度を保留するため一旦出て行って夜に出直してこいと言外に言ってきたわけだった。なので実家を追い出された。外に出れば深い緑の山と相変わらず青い空に出迎えられて非常に眩しく、まあどうにでもなるだろうとやけくそ気味の清々しさが胸に溢れた。つい笑う。明星は俺が恋人だと言い出したときからずっと笑っている。ついでだからもう見せ付けろと思って明星の手を握り、けっこうイチャつきながら車に戻ってノリノリでオデッセイを発進させた明星にもう一度笑う。それからどこで時間潰すか、この辺り何にもないけど、一応の都市部まで戻るか、適当に日帰り温泉でも入るか、まあそんな感じの話をする。明星は既に目星をつけていた。恋人なんだから恋人っぽいところのお土産持っていけばいいじゃん、うみたまごにしよ。なんの悪びれもない顔で言ってのけるので三回目の笑いが出た。うみたまご。大分県にある水族館だ。子供の頃にオープンして何回かは行った記憶がある。うちは親戚付き合いもけっこう深くて子供たちが夏休みに入ると総出でどこかに出掛けたがった。だから従兄弟や親戚のおじさんおばさんに大河くん元気やったかなんて毎回聞かれて毎回頷いていた。その汚くも美しくもないよくある思い出を聞かせると、明星はちょっとだけ目を細めてフロントガラスを見つめ直した。

「オレも一回だけ行ったよ。父親と母親が離婚する前、出来たてほやほやのとき……じゃあなかったかも。わかんねえけどとにかく行ったよ、大河さん。あんたそこで迷子になったろ」

「えっ? なったけど」

 厳密に言えば消えた四つ下の妹を探していて見つけ出したが時は既に遅く、自分も迷子の仲間入りをしていた。もう小学生だったので少し気まずかったことを覚えている。そんなに注意力散漫な手のかかる子供だったように見えるのか。そう思っている間に明星はあっけらかんと真相を話す。

「卒業式で名前聞いただけの男をオレが覚えてるわけないじゃん。オレも迷子だったんだよね、その日。あんたは妹連れて迷子センター? 受付? なんかそういう、呼び出すとこに来た。海沼大河ですって受付の女の人に言ってるのを迷子部屋から覗いて見てた。ヘンな名前だと思ったよ、海に沼って、大河はそのとき知らねー単語だったけど、びちゃびちゃの名前だなーって」

「……この機会に言うけど、大河って名前つけた理由、寅さん由来らしいよ」

 明星は一瞬黙ったが、すぐにああ! と声を上げる。

「トラ、タイガー、大河か!」

「そう。それからその、話戻すけどどっちにしろそんな昔のこと、よく覚えてるな。俺は全然記憶にないよ、迷子になったのは覚えてるけど他は妹がめちゃくちゃ泣いてたことくらいしか覚えてない」

「オレは二回目があったからね、そう遠くないうちにあんたが卒業する年度の卒業式があったわけだ。あ、溺れてる名前のやつだってすぐ思い出した。それからはずっと覚えてるよ、なんだろうな、多分」

「多分?」

 明星がまた話を急に飛ばそうとする気がして食い気味に聞き返す。車が道を曲がり、山の合間のような場所から少し開けたところへ移る。

「多分……兄弟が欲しかったんだな、オレは」

 ふう、と溜息じみた息が吐かれる。

「すげー泣いてる妹と手繋いでさ、お兄ちゃんいいなあってオレは思ったんだろ。一人っ子だし、水族館ついたら親父は好きなとこ行って全然いなくて、ああ親父はこう、悪いやつじゃねえんだけど絶望的に子育てとか家庭とか家族とか、親愛が必要なもんに向いてなくてさ。実際、親が別れてから高校生くらいで親父に会ったら、友達みたいになってた。好きな時に気軽にバカな話して笑う、みたいな。母親は母親で似たようなもんだけど……ま、そんな父親だからイルカかペンギンか外にあったビーチプールだか、自分が行きたいとこに一瞬で消えたわけだよ。おかげで母親は機嫌が微妙だし、親父っぽいの見掛けて追い掛けた瞬間迷子になったし、色々嫌だったんだろうな、あの時のオレは。だからお兄ちゃんしてる大河さん見ていいなーって。父親が消えて母親が不機嫌でも一緒にいてくれる年の近い存在マジでいいなーって、喋ってるうちにもうすぐ着くよ、大河さん」

 はっとして前を見ると水族館らしい建物がどんと聳え立っていた。人の数はそこそこだ。近くにはたしか動物園もある。明星はさくっと駐車してさくっと車を降りさくっと手を出してくる。掌を見ていると舌を打ち鳴らされて笑われる。

「大河さん、オレの話聞いてただろ? 迷子になるんだからさ、手は繋いで貰わなきゃ」

「え、いやでも」

「一応言っとくけどね、今時男同士女同士がイチャついてたってどうでもいいじゃん。気にする気持ちはわかるけどあんた実家から出た瞬間嬉しそうに人の手握って」

「わかったわかった!」

 ばちん! と音を立てて手を重ねる。明星は満足そうに頷き、俺の手を引いて進んでいく。チケット購入の段階では一旦離したが中に入ればまた引っ張られた。懐かしい、と同時にこんなんだったかな、と館内の雰囲気に驚く。青い。館内マップをとりあえずとってみると横から覗き込んだ明星が一階と呟く。入り口、俺達が入ったところは二階だった。一階の展示は水中をイメージしているようで、俺はつい海の底と呟いた。引っ張られる。明星は入り口付近の展示を無視して一階に下りる方向へ進む。俺達は底にいく。水槽が浮かび上がった深い場所に降り立って、俺達はしばらくのあいだ、底の中に浮いている。


 一階にいる間はあまり会話をしなかった。二階に戻れば明るさにも出迎えられて、あれがみたいだのショーは何時だだのあそびーちなる体験型わくわく施設が出来ているから遊ぼうだの、二十五歳と二十八歳が元気にはしゃいだ。ショップもたいへんに充実していてお土産もしっかり買った。なんだかやっぱりこういう施設は時間もお金も知能も溶かすからどうすんだよと思いつつもまあいっかとキーホルダーを買ってしまった。かわいい魚的なモチーフのあしらわれたやつ。明星のオデッセイの鍵につけておけと渡せばお返しにとカニのキーホルダーを渡されてセンスに引いたが部屋の鍵につけた。なにやってんだよ。俺の唸りを無視した明星は夕暮れの外に繰り出すなり繋ぎっぱなしの手を離した。

「行こう、大河さん」

 離したのに急かされた。でも意味はわかっている。行こう、明星。ありがとう。こぼすようにぽろっと落ちた俺の感謝に明星は見たことのない顔をした。うまく形容できなかった。沈みつつある夕陽を背中にした明星陽平は笑ってはいたけど何故か悲しそうでそれは、笑っていたわけではないんだろうけど笑いたいと思っている、と、感じはしたけど自信はなかった。俺の葛藤の間に明星はいつものあっけらかんとした低め声で行こうぜと更に重ねて車へと歩いていった。


 実家に向かう道中、少しだけ眠ってしまった。水族館の夢を見た。俺は迷子センターにいるし明星も迷子センターにいる。三つ下だから俺よりも背が低くてあらゆる輪郭が子供らしく子供だった。俺は多分なにか言った。年下の子を守ってやらなきゃなあって思っていた。子供の明星もなにかを言って、俺達はふたりで迷子センターにいたはずが気付いたら手を繋いで水槽の前にいた。深い海の底の真っ青な水槽を見つめながら俺達は長い間そこにいたけど、はっと起きたときに俺が握っていたのは明星のシャツの裾だったし実家は目前だったし明星陽平はいつもの明星で、でも今のほうがいいかなってわりと本気で思ってしまった。オデッセイに刺さった鍵から垂れる魚的なキーホルダーが目に入って余計に。

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