大分県から出るときにも海路は使った覚えがなくて、船酔いの心配をするけど車疲れからか寝てしまって気がついたらもう大分県だった。頭がふらふらする。ふらついているとスマートな所作で明星が支えてくれるから余計にめまいが酷くなる。俺はこんなところまで来て一体何がしたいのか。目的としては明星の望みをどうにか叶えるって大義名分があるけれど、大分県、捨てたと言われても首は振れない土地の港に降り立った今この瞬間、俺には明星しかいなってことに気付かされる。帰れば朝陽もいるし土屋もいるし仕事内容はともかく職場の人間はみんな嫌いじゃないし過不足なんかないはずなのに、大分県では俺は明星しか頼りがない。よりによってこの、一緒に死ねよと言い出した後輩しか。なんてぐるぐる煮詰まっていると明星は手早く車を持ってきて棒立ちの俺を助手席に突っ込んだ。そこでやっとちょっと冷静になって辺りを見回す。もう夜で海は黒い。光だけが海面に跳ね返って揺れている。潮の匂いは重たくて少し車内に残ったけれど走り出して少しすれば消えた。田舎だ。港付近は比較的栄えている、いや、それなりに設備は整っていた。でも走るほどに山があり、住宅様式は古く、畑や田んぼの姿も見える。暗いけど、ぼうと浮かぶ輪郭だけでそうだとわかるくらいには、俺はこの県を知っている。

「なあ大河さん」

 明星は俺とは違い楽しそうだ。そもそも何処へ向かって車を走らせているのだろう、と、思った瞬間に背筋が冷える。理解する。

「大分市のほうに行ってホテル探すとかでもいいんだけどさあ、せっかくだからあんたの家に行こうよ」

「嫌だ」

 理解していた台詞を反射で拒否してから、ここまであからさまに明星を拒否したのは初めてなんじゃないかと思う。明星は意外そうな顔もしなかった。鼻で笑ってハンドルを切り、俺と、そして明星の生まれ故郷を目標に定める。

「嫌だよ、明星」

 もう一度拒否すれば車はコンビニに入った。やたらと駐車場の広い田舎のコンビニ。トラックが数台止まっていて。白い店内にはあまり人影もない。明星はハンドルに寄りかかりながらこちらを仰ぎ見る。目の中に散った光は火花にも似ていて似合っている、のが今は本当に嫌だった。突っ伏して明星と同じ体勢になる。落ちた視線の先にはCDがあって、やっとクラシックじゃなくなっていると気付くけど相変わらず曲名はわからない。俺がよく思い出す曲のCDを明星は持っていないのだろうか。無駄なことを必死にそうやって次々に思い浮かべるけど静かに名前を呼ばれて俺はついに腹の中を言葉にする。

「家族、仲いいんだ」

 うん。明星は静かに促す。エンジン音が切れて曲も切れる。静寂の中に虫の声が微かに響く。

「弟、が、二つ下で」

「うん、いたね。名前までは知らないけど、海沼大河の弟と妹がいるってのは小学校のときに知ってる。妹がオレのひとつ下、弟がオレのひとつ上」

「そう、それで俺の家は、別に名家とか格式高いとかじゃなくって、田舎の普通の中流家庭、だと思う」

「うん」

「でも代々続いたみたいなさ、先祖がいくつも遡れて、ずっと同じところに住んでる、みたいな。嫌だよ明星、まだ聞くのか」

「聞く」

「……嫌だよ」

「話せよ、大河さん。早く話せ」

 息を呑む。その音が妙に響き渡る。

「俺は、だから、本当は、」

「長男だから家を継げっていう?」

「うっ、うう、だからさ!」

「オレの予想から聞く?」

 聞きたくない。

「いつだっけ、オレは大河さんにオレ以外にも男と付き合ったことあるかって聞いたことあると思うんだけど。あの時大河さんは誤魔化したから、あー言いたくないんだろうなーって思って、そのあとオレも色々あったから忘れてたけど、思い出した。ここ、繋がるだろ。長男ってことはいつかは帰ってきて嫁と両親と同居ってのを、大河さんは望まれてるわけだ。んで、大河さん自体がそれを苦痛にする理由ってまあ数えられるくらいあるとは思うけど筆頭って、そこなんじゃないの。平たく言って男関係」

「うるせえ」

 自分でも引くほど低い声が出た。取り繕う余裕も暇もなかったが、明星はほとんど爆笑に近い声で笑った。

「本当にうるせえよ、明星。その通りなんだよ」

「あんたの最初の恋人ってのは男だったわけか」

「そう。高校の頃、は、付き合ってはないけど、男の同級生と妙な雰囲気になって遊びみたいなことはした。最悪だったよ。親にはバレなかったしそいつとも若気の至りだって後々和解したけど俺は逃げた。大学に入ってから男と付き合ってたよ、長く続いたわけでもないけど。それからは、やっぱこれは違うかもしれない、逃げてきたけどいつかは帰らなきゃいけない、女の人も嫌いなわけじゃないって、女性とも付き合った。就職したら恋愛とか結婚とか実家どうとかの余裕が消えた」

「消えてないでしょ、仕事に気を回してただけなんじゃないの」

「うるせえよほんとに、だったらなんだ? 仕事をやっつけて毎日大変だって友達に愚痴って、」

「そんでオレが現れてズブズブなわけね」

「仕方ないだろ、あんたのこと知ってるよって口説き文句初めて聞いたよ、最初からお前俺に目つけてたんだろ」

「そりゃね。まあでもいいじゃんそれは。あんたは実家から逃げてぐるぐる巻きになっててそこに男のオレが来てズブズブで、じゃあ次はどこを目指すんだ?」

「死ぬんだろ、一緒に死ねって言ったのは明星だ」

「物理か比喩かの話はしてないからさあ、でも何もないゼロのオレと掛け算しても永久にゼロでどうにもなりはしないんだよね」

「まったくのゼロだったら、すでにここにもいないだろ。0.1くらいはあるんじゃないのか」

「でも限りなくゼロだよ。涅槃寂静ねはんじゃくじょう

「なんだよそれ」

「小数点第二十四位」

 明星は体を起こしてハンドルをとんとん叩く。

「ま、理解したよ。じゃあ余計にあんたの家に行かなきゃ駄目だな」

「なんでそうなるんだ、さっさと海に身投げでもしろよ」

「水死体は汚いからな。それにオレが決めたのはここまで来るってことだけ。大人しくついてきたあんたはどこを目指して溺れたい?」

 一瞬なにか口に入れるものを探した。でもなにもない。明星は俺を横目で見ながらハンドルを離し、シートに凭れて目を閉じた。口笛を吹き始める。曲名は知らないけど綺麗な曲で、夜に合っていた。明星が何をしたいのか見当もなにもつかないままだけど俺を追い詰めて喜んでいるってことはわかってきた。ついてきたのは俺だから、じゃあ責任は持たなきゃ、いけないのか? 投げ出して家を飛び出してろくに連絡も入れていないのに? でも多分偶々帰郷したって電話をすれば喜んで迎えてくれるだろう。そういう家だ。明星を連れてたって小学校が一緒だったらしくて偶然あっちで出会って仲良くなったで充分通る、けど、俺はそうやって誤魔化してまた逃げ帰るかこの地で溺死するか明星すら置いていって平凡だった毎日に戻るか、どれも嫌だって気分が腹の底で煮えている。沸騰してる。海か沼か大河かなにか、溜まり込んでいた溺死用の水分が燃えている。

「涅槃寂静はある種底だよ」

 口笛をやめた明星は急に呟く。

「悟りを開いて涅槃に行ったら、そこは静かな……本当に静かで穏やかな境地なんだ。雲上も海底も大体一緒だろうなって、オレは思うよ」

「……、でも海底だと溺れるだろ」

「雲の上じゃ光りすぎてて何も見えないって」

「でも死にはしない」

「死んだら行くとこって定義じゃん。天地なんてひっくり返しても一緒一緒、だからさっさと実家で死ねよ、今日は遅いからホテルとるかなって気になったけど」

 明星はスマホを取り出して手早く操作する。そのうちに電話をかけて、無駄のない様子でここからそう遠くない場所のホテルを予約する。エンジンがかかって虫の声は消え、代わりに穏やかで静かな声のボーカルが歌い出す。雨の歌だが晴れている。聞き入りながらシートに凭れて、慎重に肺を動かせばちゃんと吸えた。

 光っても溺れても底にいく。走り出した車の中で呟いた。光って溺れて底にいく。みんなそうなのかも。俺の独り言に明星は笑って返す。

「そりゃそうでしょ、みんなゼロだ」

 そうだったら何かもめちゃくちゃ楽で、俺は肩の力が抜けていくし、大分県の大地は黙って俺と明星を運んでくれた。

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