流されるまま生きている自覚はあって、ある程度はどうにかなっていたために今更変えようとも変わろうとも考えはしなかった。一度も。部屋に泊めてくれた礼のつもりで抱いた女に恋人顔をされて面倒な事態になり相手の両親まで出てくるあわや大惨事の寸前まで人生が転げていてもオレが変わる必要は特になかった。オレはオレの物だから。

 あの女今は結婚したらしいよ。呟きながらオレはアップルパイをざかざか齧る。濃厚な甘さに舌が喜び、甘いだけの蜜かと思えば林檎の風味が鼻を軽やかに抜けていく。また齧る。明星あけぼし、あの女って誰だ。生地の合間から溢れた一粒サイズに切られた林檎を指で拾い放り込む。蜂蜜色の匂い。前の女だよ。蜜で濡れ光る指先を舐め、ようとしてやめて目の前で頬杖をつきながらオレの咀嚼を見守っていた人に目を向ける。大河さん。呼び掛ければ人の良さそうな穏やかな瞳が緩く細まる。

「欲しいの?」

「何を?」

「これ」

 アップルパイの甘い匂いが染み付いた指先を大河さんの口元に持っていく。三つ上の先輩で、当面は今のである海沼大河うみぬまたいがといういかにも溺れた名前の男は、わかりやすく当惑した。

 でも当惑はブラフだ。全身全霊欲しがるのだとわかってやった。人の食事風景で催すのは構わないし、これでも結構愛しているのだ。

 海沼大河の溺れっぷりを。


 雨の匂いがして、降るだろうなと思っていればやはり降った。シングルベッドに大河さんを押し倒したところで雨の音が聞こえ始めて怠いなと嫌になるが天気は人の愚痴を聞かない。雨脚が強まる。アップルパイの蜜がついたままの指先に、遠慮がちな舌が絡んだ。生暖かい。

 口内は女だろうが男だろうがそう変わらない。生ぬるい唾液に包まれた人差し指と中指で、上顎の裏側、歯列が始まる手前のなだらかな肉をゆっくり撫でる。跳ねた肩の動きはちゃんと捉えた。ぐ、と噛み締められるが噛みちぎるほどではなく、舌は貪欲な動きで架空の甘さを追っている。なら食べればいいのだが、土壇場は引く。オレと大河さんは責任のなすり付け合いのためにセックスをしているのかもしれない。

 指を離させ服を剥ぐ。雨雲のせいで部屋は暗いが、眩しいから電気は消せと大河さんはいつも言う。明星あけぼし、とオレを眩しそうに呼んでから、掠れ気味に唸る。だから雨だろうが消灯されてオレは微かな光源を頼り、閉じた部屋の薄闇に溺れる人を見下ろす。シーツの影、反射した雨垂れの浮かぶ肉体、ぎりぎりまで横に倒した顔の表情はやはりいつも窺えない。荒れた呼吸だけが雨音ともに溢れてくる。

 覆い被さり、剃っていない髭を嫌がると知っていながら顔を寄せた。単語にならない呻き声を無視して唇を合わせ、強張りが緩んだ隙に入り込む。口内よりも熱い体内は随分馴染んだ。無理矢理口を離させながら大河さんはオレを見る。全身全霊、欲しがっていた先輩は、渦巻くような視線で射抜いてくる。片腕が首に巻き付き、ぐっと抑えられて驚いたが次いで更に驚いた。腰元に絡んだ両足にも抑え込まれてほぼ身動きがとれなくなる。

 一瞬、ちかりと明滅する。雷光かと思えば違って、ああシンプルな話かと、腹の底に溜まる欲の形を自覚する。これでも結構愛しているのだ、海沼大河を。オレの世話を焼いている三つ上の先輩の、隙あらば海か沼か大河にでも引き摺り込もうとしてくる根底の苛烈さを。


 事が終われば雨は止み、部屋の電気はつけられた。布団に包まっている大河さんを尻目にアップルパイの残りを齧った。ざく、ざく、と。わざとらしく音を立てていれば布擦れの音が響いて先輩は顔だけを亀のように突き出した。

「明星」

「うん?」

「一切れ……一口、くれ」

「うん、いいよ」

 体力を消耗した時は甘いものがいいよ。オレの与太に大河さんは苦笑気味に笑い、のそのそと起き上がって隣まできた。乱れた髪の狭間から、いつも通り人の良さそうな両眼が覗いていた。

「大河さん、眠い?」

「宵っ張りだけど」

「オレも。深夜族」

「はは、夜の方がいいもんな。星も見えるし」

「星か、自分の名前で充分だよ。綺麗は綺麗だけどさ」

 意味もない世間話はそこで途切れる。無言を嫌うような顔付きで、オレの食べ掛けを大河さんは一口齧る。垂れた甘い蜜が口の端を濡らし、細かいパイ生地はぱらぱらと雨のように床に降る。顎を掴んで蜜を舐め取ったのは殆ど無意識だったけど、そのままキスまでしたのは衝動だった。林檎のさわやかな香りすら不健全な動機になって、アップルパイ片手にオレ達はやっぱりなだれ込む。


 オレと大河さんはいつかダメになるだろう。オレは変わらないし変われないし結構愛しているのだとしても合わせようなんて微塵も思わず、でもそれはこの人を必ず悲しませるだろう。そこまでわかっていてまだ蓋をしている。お互いに硬い蓋を嵌め合って、底で水面に映る星が綺麗だななどと言い合って、齧った林檎の甘さを盾にすべてをうやむやにし続けていく。溺れ切るまで底にいる。




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