光って溺れて底にいく

草森ゆき

前日譚


 人が疎らな閉店間際のスーパーは寄る辺のない人間が寄り集まってくる、などと言い出したのは俺ではなかったし気障な言い回しに閉口したしじゃあそんな時間帯に買い物に行く俺も寄る辺がないのかもね、そう反論したのは多分ずっと昔だ。実際には違うが、日が遅いので。好きなときに来て好きなときに出ていく人のせいで日が遅いので。

 店内で焼きました! と書かれている。元気な手書きポップは真夜中前のスーパーに浮いている。それなりには売れているようで店内で焼いたパン類は残り少ない。弁当のほうがよほど余っていた。近くを一人、疲れた顔の女性が過ぎっていく。店内灯が暗く感じる。

 俺は五分くらい、透明のプラスチック容器越しのアップルパイと見つめ合っていた。丸い形で香ばしい色合いで蕩けるように光る林檎が美しかったが、半額シールの貼られた大変寄る辺のない売れ残りだった。


 明星陽平あけぼしようへいというフルネームを聞いた日、まず光りすぎだと思った。明けた星に陽が平らと来る。明星は共通の友人が行った飲み会、いや合コンで出会った男だったが、女性陣を殆どスルーして俺の隣に座った。理由は座った直後に話した。

「あんたさ、海沼大河うみぬまたいがだろ? 溺れすぎだろと思って、覚えてんだ。そっちは知らないだろうけどオレは知ってる。ていうか、あんたしか覚えてない。なんでだと思う?」

 酒を傾けながら少し考えた。海沼大河は俺の名前で間違いがなかったし、とは言え目の前の、無造作ヘアーでどことなくイリーガルで明けた星などと書く苗字の知り合いに心当たりはまったくなかった。年齢を聞くと三つ下で、じゃあもしかしてと出身地を聞いたところでようやく星と海は繋がった。

「俺と同じ小学校だったのか、もしかして」

「そうだよ、先輩。つっても全然先輩って感じしねえけど」

 明星は枝豆を皮ごと放り込み、国旗の手品のように筋だけをずるずる引き抜いた。汚い食べ方のはずだったが、明星にはいやに馴染んでいた。〆のデザートだと持ってこられた店内焼きのアップルパイも手掴みでざくざく食べ始め、男も女も引いていたが俺だけは引かなかった。汁のついた親指を気だるそうに舐める横顔が嫌いじゃなかったせいだった。美味いかと聞けば甘いものが好きだと低い声でうれしそうな響きを含ませ言ったから、どうしても引けなかった。


 小学校の卒業式、俺達のところは在校生もきっちり参加させられた。当時小学三年生だった明星少年は半分眠りながら卒業証書授与の点呼を聞いていたらしいが、俺の名前で目が覚めたという。海沼大河。海と沼に大きな河までついている。溺れすぎだろうと明星少年は子供ながらに面白がった。子供故にかもしれないし、明星故にかもしれない。

 合コンは明星に喋られ続けて終わった。年下に懐かれること自体は悪い気分でもなく、請われるまま番号を交換し、メッセンジャーのIDも交換し、数度居酒屋で酒を飲み、俺が大学時代の友人と行う飲み会にも来たいと言い出したため連れて行き、遊びたいとごねられドライブやら映画やらカラオケやら男二人スイパラ拷問やらなんやらと出掛けていれば至った。至ったというか致していた。

 一人暮らしの部屋に泊まり込んできた明星は基本的にだらしがなく、髭も二日三日剃らない上によく着ているワイシャツはよれていて、俺もそう几帳面ではないが放置するとカビやキノコと心中しそうに見えて迂闊にも世話を焼いてしまった。おかげで明星は一週間に一度は来るようになって来ればやはり三日は滞在してスパンが六日五日四日三日と、短くなっていくにつれてほぼ溺れた。名前にではなく、いや名前だったのかもしれない。明るい星が黙っていれば格好いい顔で俺の頭を海か沼か大河かなにか、とにかく窒息させる場所に押し込んだ。三つ下の男は情事前にシャツを脱ぐ仕草すら気だるそうで、口を合わされると無精髭が擦れて痒かった。でもなあ結局なあ、嫌がらなかったのは俺だからさあ、なんで嫌がらないのか聞かれても困るけど嫌じゃなかったって事実だけが脱ぎ散らかしたシャツとかジーンズとかよれっよれのワイシャツとかと一緒に散らかってたんだから、なあ、明星、やっぱ光りすぎだと俺は思うよ。熱心に懐いて、あんただけ知ってるとかいい感じに口説き始めて、スイーツパラダイスでは甘いやつをなんでも美味そうに食べて、でもそれが、ぼさぼさ髪の剃り残しまくった髭面の、顔立ちだけ抜群にいいだらしない年下の男って、俺とは違いすぎて逆に眩しい。どう足掻いても眩しい。絆されるって感覚が多分これだって溺死寸前の脳内で俺はやっと思い知る。


 明星陽平は頻繁に来るが一緒に住もうとは言い出さない。その理由を俺は人伝に知っている。大学時代の友人の、朝陽っていうこれまた光ってる苗字の同級生が、あいつ止めたほうがいいんじゃねえかってらしくもなく真剣に言ってきたから、知っている。らしくもない人間がらしくもなく忠告する意味なんて結局たったひとつしかないわけだ。

 ちょっと知ろうとすれば案外すぐ情報は入る。明星はずいぶんだらしがない。ふらふらしている。餌付けされれば礼に抱く。

 それを知った今でも俺はもうすぐ閉店するスーパーの、半額になって数十分後には廃棄となるアップルパイと視線を合わせたまま立ち尽くしている。

『本日も当店にお越しいただき真にありがとうございます。間もなく閉店となりますので、お買い物のお客様は……』

 放送が聞こえ始めて俺の指はやっと動いた。ゆっくりと、アップルパイに伸びていく。自分でも焦れる動きに合わせるよう、店の中には蛍の光が流れ始める。光。夜だろうが、光っている。夜だから余計に光るのか?

 パイに触れかけた瞬間、ポケットに押し込んでいたスマホが震えた。職場かと慌てるが違った。ぐう、と息が詰まる。でも結局出る、はいもしもし、

『大河さん? オレオレ、陽平。今あんたの部屋まで来たけど全然帰ってこねえから、……なんか、どうかしたのか?』

 どうもしてない、すぐ帰る。そう答えるつもりで、

「次はいつ出て行く?」

 先回りの話なんかをし始めてしまってすぐさま後悔する。無言があって、その間に蛍の光は鳴り続けて、目の前のアップルパイはじわじわ廃棄が近付いていくが唐突に、本当に唐突に、明星は大きな声で笑って笑って、

『ああなんだ、大河さんも拗ねるんだな。いいから早く帰ってきなよ、雨降りそうだし、腹減ったし、顔も見たいし』

 言うだけ言ってさっさと通話を切ってしまった。無機質な電子音が耳障りだったけど、鼓膜に居座った笑い声がじりじり俺の寄る辺を、見せ掛けだったとしても照らし始める。

 アップルパイを籠に入れた。客がほぼ俺しかいなくなった店内は、閉店に向かって流れている。レジを済ませて外に出ると、明星の言った通りに雨が降り始めた。


 息を吸う。俺は自ら窒息する。抱えたアップルパイを俺は食べない。ただ、俺のぶんまで頬張る横顔を溺れさせる日を思う。

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