数年ぶりに、山に登った。

まつこ

数年ぶりに、山に登った

 山に登ろうと思った。

 その日は体が凝っていて、最近の運動不足のせいで緩やかに不健康になっていっているな、というのを薄々感じていた。

 とりあえず、散歩してくるという旨を家族に伝えて、私は外に出た。時刻は18時過ぎ。日は沈み始め、空気は涼しく、運動するには丁度良い気温だった。

 これ幸いと、私は小さい頃によく登っていた山に行くことにした。進学して2年ほど街で暮らし、その後実家に帰ってきたが、それから1度も登ってこなかったのだ。

 慣れ親しんだ山は、変わらぬ姿で私を迎えてくれた。この山には登山道が3つある。その中でも最も道が広く緩やかで、「Aコース」の名前で地元民に親しまれている道を選んだ。私としても、そこが一番登り慣れている。

 100m登るか登らないかのところで、私は体力の衰えを強く実感した。ゼェハァという、自分の息づかいがうるさい。心臓は激しく脈打っている。この時点で、いっそもう帰ろうかという気持ちが頭をもたげた。

 それを振り払って、私は歩を進める。登り切らない内に帰ってしまうのはなんだか悔しいし、前から人がやってきて、なんとなく背を向けるのが憚られたというのもあった。

 しばらく1人、山道を歩く。木々の擦れるカサカサという音が、嫌に大きく聞こえ、自分以外の、人間でない生き物がいるというのを強制的に理解させられた。

 木々の間の闇の中を覗いてみる。何も見えない。ゾッとして、私はすぐに暗闇から目を逸らした。そこに何か居ると想像するのは良くない。とても良くない。

 逃げるように登っていく。心臓が破裂しそうな程に早鐘を打っていた。たまにすれ違う他の登山客の存在に一瞬安心して、すぐに元の不安が戻ってくる。

 8合目あたりに、キツめの坂がある。太股とふくらはぎに乳酸が溜まって、凄まじい疲労感が襲ってきた。立ち止まって、激しく息を吸っては吐くが、ほとんど意味を為さない。とりあえず登り切って、頂上で休憩しないことには始まらなかった。

 3回か、4回程立ち止まりながら、なんとか頂上に到着した。江戸時代には城があって、その城趾が残っている。もう少し体力があれば階段を登って石垣を拝んでいたかもしれないが、その気にはなれず、備え付けられているベンチに座って下を向き、息を整える。

 高校生くらいの男子3人が、写真を撮りながらはしゃいでいた。彼らを見ていると、唐突に自分が1人であることが恐ろしくなった。私は今ほとんど手ぶらだ。暗闇の中で襲われれば、抵抗など出来ずに死ぬ。

 死だ。死である。現代日本において、それを強く意識することはそうそう無いだろう。だが、文明の手が最低限しか入っていない山の中で、それは背後にピッタリとついてくる。

 それから逃げるように、私は山を降りだした。

 先程はしゃいでいた3人組は私より少し前に降りていて、話し声が時折聞こえてくる。普段であれば辟易とするような会話でも、今ばかりはありがたかった。

 死の影が私の背中を追いかけてくる。時刻は19時。山の中に明かりなどありようはずも無い。足元が見えなくなり、頻繁にコケそうになった。

 スマートフォンのライトがあることに、遅まきながら気付く。それを点灯させると、幾分か気分が落ち着いた。

 だが、その明かりは誘蛾灯になる。今度は羽虫が私の周囲を舞いだした。またしても逃げる、逃げる。ほとんど半狂乱になりながら、ペース配分を忘れた速度で駆け下りていった。

 街灯が見えてきて、やっと私は息を吐いた。スマートフォンのライトも消し、ポケットに入れる。

 文明は闇を駆逐し、人の手の届かない場所を無くしたかのように見える。だが、まだ人の――――――少なくとも個人には――――――手の届かない場所はある。夜の山は、今や数少なくなったそれだった。

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数年ぶりに、山に登った。 まつこ @kousei

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