イエ



 ー数時間前の出来事ー



 まだ夜も明けきらぬ暁の頃、ごく暗い紫色がかった蒼い海に、水平線上に瑠璃色の背景と真珠を散りばめたような空の下で。

 微かに聞こえる単調な波の音に、凛とした空気の中。神聖で、どこか独特の雰囲気を醸し出す、静謐せいひつな神社の境内の石畳の上。

 

 妙齢の女性がひとり、黙々と同じことを繰り返していた。


 海辺から続く、長く険しい階段を登ったその先。凜然とそびえ立つ朱色の鳥居と、その鳥居の上、高い場所に括り付けてある扁額へんがくには『森山神社』と書かれたいた。

 

 樫と竹が主となる神社林。その境内の周りには今年も、紫陽花アジサイの花が目を楽しませてくれている。


 境内石畳の奥には、二匹の狛犬に守られた本殿。その周りには、銀杏や白樫、百日紅さるすべりや青木が囲んでいて、青木は少しだけ小さな実だけを残していた。


 その手前にある、柊南天と馬酔木あせび沈丁花じんちょうげの花は時期を過ぎたが、石楠花しゃくなげは淡い桃色の花を咲かせていた。




 と、そんな事など目もくれず、冷えた石畳の上を裸足のままで彼女は、鳥居から本殿までの参道を行ったり来たりしていた。


 早い話、御百度参りをしていた。


 鳥居の前でお辞儀をし、手水舎で身を清め、本殿で御鈴を鳴らす。『二礼、二拍手、祈願、一礼』をして、また鳥居まで戻る、これを百回繰り返さなければならない御百度参り。


 赤茶けたショート髪で紅梅色の着物に梅文柄、枝梅の刺繍の帯を巻いた、初夏らしからぬ少し季節感のズレた着物を羽織り。

 タレがちな大きな瞳を地面に落として彼女は、血色の悪い、色を失った白い頬から疲労感を滲ませている。

 三日目ともなると彼女の足は擦り傷だらけで、今日のお参りは既に八十回を優に超えていた。



「モンジ、モンジ、モンジ、モンジ、モンジ、モンジ、モンジ、モンジ、モンジ、モンジ…………」


 ペタペタと足音を響かせながら、この世でたった一人の家族である彼の名前を呟きながら、彼女は歩いている。



「カン、コンッ……。……カラン、カラン。……パンッ、パンッ…………………………………………」


 胸の前で手を合わせ、悲痛な表情を落とし、たっぷりと時間をかけ、神様にお願い事をする。



 神様お願いします。モンジを助けてください。私は、モンジがいないと生きていけません。神様どうかお願いします。モンジを連れて行かないで……。


 炎で焼かれたあの日の夜に、愛する人を全てを失った彼女は、壊てしまいそうな彼女の心はーー。

 あの悪夢のような出来事を思い出す。家族を奪われる辛さを思い出す。


 一人になる寂しさに耐えられない。もう、愛する人を失う悲しみに耐えられない。彼女は何よりも孤独を恐れていた。

 

 一礼して、彼女はまたペタペタと冷たい石畳の上を歩き出す。その細く丸めた背中からは、悲壮感が滲んでいた。


 今にも泣きだしそうな自分をこらえ彼女は、強く口を結んで御百度参り続ける。



 たぶん、私はあの日死ぬ筈だったんだ。だけどあの子がいたから、いてくれたから、私は生きていられる。

 弱虫の私は一人じゃ生きていけないから、寂しくて生きていけないから。

 モンジ、モンジ、モンジ、死なないで。モンジ、モンジ、私を一人にしないで。



 彼女は、彼と出会った時のことを思い出していた。


 独りぼっちの彼、独りぼっちの私、彼の悲しそうな顔を見ていたら、居ても立っても居られなくて、私は彼を抱きしめていた。

 縋りつく小さな体が、こんな私なんかを頼ってくれて、弱いだけの私を頼ってくれて。

 泣き虫の私はそれでも嬉しくて、凄く嬉しくて、少しだけ強くなろうって思ったんだ。

 だから、だから、少ししか強く無い私は貴方が居ないと生きて行けない。モンジ、モンジ、私を一人にしないで。



 全てを無くしたあの夜に……あの子がいなかったら、私は、今ここにはいない。


 だから彼は私の生きる理由そのものなんだ。




「あっ…………!」


 心身共に疲れ切っている彼女は、石畳の継ぎ目でつまずいてしまった。その拍子に、お賽銭用の小銭を地面にばら撒いてしまう。


「ぐっ、ふぐっ……うっ、うっ…………」


 泣かないよう耐えていた彼女。拾おうと膝を折った彼女は、もう限界だった。

 四つん這いで頭を抱え、そのまま小さく丸くなってしまった。


「ぁあっ、あっ……。ぁあ"〜〜〜〜っ、あ"ぁ〜〜〜〜あ"あ"〜〜〜〜〜っ」


 耐えきれなかった。もうどうしようもない恐怖や哀しみ、不安や寂しさや怒りに耐えられなかった。そのまま感情を爆発させた彼女は、大声を張り上げて泣き崩れてしまっていた。


 静かな境内に、彼女な悲痛な叫びが木霊する。

 


「チリ〜〜ン。……チリ〜〜ン。…チリ〜〜ン」


 鳥居から吹き込む潮風が、そんな彼女を髪を優しく撫でて本殿へと抜けて行く。


 朝も明け切らぬボヤけた暗さに、畏怖いふを感じさせる本殿だけが彼女を見下ろしていた。


 屋根から吊るされた古めかしい風鈴が静かに、そして涼しげな音を奏でていた。




♦︎♦︎♦︎




 柔らかく打ち寄せる波が、朝日を浴びて眩しくきらめく。

 初夏を思わせる爽やかな風に、カモメの声も楽しげに聞こえてくる。

 朝も早い時間に関わらず、砂浜から子供等のハシャグ声や女性等の威勢のいい声が聞こえる。この喧騒が自ずと村の活気の良さを伺わせた。



 そんな気持ちのいい朝なのに、一人神社から歩いて来る彼女の周りだけは、どんよりとした重苦しい空気でよどんでいた。


 両目を腫らし、足は土埃と擦り傷だらけで憔悴しきった彼女。それでも大切な彼の為……。愛しい人の傍にいたくて。重い足取りで剣術道場に向かっていた。



「!? ……ぁあっ!!」


 

 頭を垂れて歩いていた彼女、ふと顔を上げてみると……。そこに彼がいたッ、モンジが! 私の愛しいモンジがそこにいてくれたっ!!


 剣術道場の前で立ち尽くしている彼に、私は思わず飛び付いてしまっていた。


 あぁ、モンジ、モンジ、私のモンジ……生きていてくれた。


 ーーこの匂い、この感触、涙で彼が良く見えない。でも間違い無い。モンジ、モンジ、私だけのモンジ。

 本当に良かった。本当に、本当に良かった。


 しがみ付く私に、彼は驚いていたけど。

 しょうがないじゃない。貴方が生きて私の前にいるんだもん、だって嬉しいんだもん、凄く嬉しいんだもん!


 彼の首に回した私の腕を、彼は優しくさすってくれた。それだけで心が弾む、疲れなんか忘れるぐらいに嬉しい。

 少しだけ強くなったと思っていたけど、そんな事は無かった。私は弱いままなんだ、だから貴方と一緒に生きたい、生きて行きたい。


 私は貴方が居ないとダメだって、分かったから。




 暫くして落ち着いた私の頭を、彼は優しく撫でてくれた。


 てへっ、これじゃあどっちが年上だか分かんない。でも、すごく、すごく幸せ。


「…………!…………!…………⁉︎」


 彼は一生懸命話しかけてくれるけど、早すぎて解らない。私の耳が聴こえないのを忘れちゃったみたい。

 耳が聴こえない事と、ゆっくり話せば口が読める事を身振り手振りで伝えると、彼はゆっくり話し始めてくれた。



 “ ここは何処なのか? 地震は? 津波はどうなったのか? ”



 と、何を聞いているのか解らず、混乱して答えられずにいると。


 “ ごめん。……家に連れて行ってくれないか? ”


 困った笑顔で、彼はそう言った。


 私は彼を助けたい、いや、私が彼を助ける。私が彼の、一番の理解者でありたい。


 必死に考えて、考えて、考えて、考えた結論が。


 多分、彼は怪我の所為なのか精神的なものなのか……。今までの記憶を無くしているかも知れないと。

 お医者様も、稀に記憶を無くす患者がいるとおっしゃっていたのを覚えてる。


 でもでも、モンジはモンジで私の可愛いいモンジに何ら変わりは無い。

 忘れたなら、私がまた一から教えればいい事だから。彼の事なら私が一番良く知ってるんだから。


 彼が生きてる。ただそれだけで私は充分幸せ、だから他のことは大した問題じゃないんだから。


 気を取り直して、とりあえず私は彼の手の平にこう書いた。


 ……も……ん……じ。


 そう、私の愛しい人の名前、あなたの名前を書いた。

 

 まずは、そこから始めましょう。

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